Act.6

 ひんやりと水を抱いた空気が街を包む。熱も塵も雨に拭われ、澄んだ青の世界を照らすのは、雲間から漏れる白昼の光。天使の梯子。いつか青年が教えてくれた、地上と空を結ぶように細く降りる、青年に似た白い光の名前。

 雨に濡れた石畳を駆けあがる。建ち並ぶ洋館群を抜けて、坂のいちばん上まで。

「優誠!」

 青銅のゲートをひらいた先、大きく張り出したサンルームの影に、少女は声を投げかけた。霧雨の舞う青い空気の向こうで、青年が振り返る。

「惟」

 少女の耳に馴染んだ柔らかな声。

「走ってきたの?」

「だって時間は貴重だから」

 呼吸を整えながら答えた少女に、青年は微かに苦笑を溶かして笑った。

「惟が息を切らすなんて珍しいね」

「それだけたくさん走ったんだよ」

 少女も青年と同じ笑みを返す。

 夏のさなか。昼下がりの光も熱も、多くは厚い雲に遮られて地上までは届かず、薄青の世界はひっそりと、涼やかなまま保たれている。

 青年の傍ら、青銅のテーブルの上には、サンルームの光を弾く滑らかな大理石のチェス盤が置かれていた。青年はチェスが得意だった。少女も青年に教わって、少しずつ腕を上げている。

「誰かと勝負してたの?」

「うん。《技術者エンジニア》の人とね。さっき、ちょうど終わって帰られたところ」

 僕の勝ち、と青年は悪戯っぽい笑顔を添えた。白い指先が、黒曜石の駒をなぞる。

「ふうん……」

 少女は、そっと片手を腰に当てた。半ば無意識に、拳銃の感触を確かめる。ここは安全だと分かっているけれど、それでも自分のいないときに青年が誰かと会っているのを知ると、胸の奥がざわざわする。

 そんな少女を見て、青年はふっと表情を和らげた。

「おいで」

 小首を傾けて、傍らの椅子を勧める。少女の頬が、ほんのりと紅く染まった。青年と掌いちまい分ほどの間隔をあけて、少女はちょこんと青年の隣に座る。

「……あれ?」

 青年の肩の向こうで、きらきらと光るものが見えた。少女が不思議そうに瞬きをすると、青年は少女の視線の先を辿って振り返り、「ああ、これ?」と、硝子のキャビネットを開けた。

「……宝石……?」

「…………惟には、そう見えるんだ」

 シーグラスだよ、と青年は微笑んだ。少女の親指の先ほどの大きさの、角のまるいローズピンクの硝子片。

「シーグラス?」

「そう。海に捨てられた硝子の破片が、長い時間をかけて波に揉まれて角が取れてできたものだよ」

 故郷の海で拾ったものなんだ、と青年は言った。組織に拾われた頃の自分が、唯一持っていたものなのだと。

「気に入ったなら、あげるよ」

 青年は、さらりと言った。少女は驚いて目をしばたたく。

「だ、だめ! これは、優誠の、大切なものなんでしょう?」

「捨てきれなかっただけの思い出だよ。それより、宝石だと言ってくれた君が持っていてくれるほうがいい」

 シーグラスは海の宝石ともいうからね、と青年は微笑んだ。

「でも……」

 なおも口ごもり躊躇ためらう少女に、しょうがないなぁと青年は小首を傾けて、

「それじゃあ、チェスで僕に勝てたら、戦利品として献上するよ」

 悪戯っぽく目を細めて、少女の途惑いを、ひょいと取り上げてみせた。

「まずは第一戦、してみようか。ハンデは……クイーンと、ルークを少し落とそう」

 流れるように優美な仕草で、青年は盤面からクイーンと二駒のルークを除く。少女にとっては些か不本意だが、これでも、ナイトもビショップも落としてもらっていた頃よりは追いついたのだ。

「ひと勝負したら、仮眠を取っておくんだよ」

 今夜の仕事は、きっと長引くから。

 青年が静かに言う。淡々と、穏やかな微笑を崩さずに。

「はい。……《調整人コーディネータ》」

 少女も、そっと微笑む。淡く、あわく、どこまでも静かに。



+ + +



「……優誠……?」

 呼ぶ声に、ふと瞼を上げた。リビングのテーブルに頬杖をついた姿勢。目の前には飲みかけの紅茶が、すっかり冷めて色を変えている。いつのまにうたた寝なんてしていたのだろう。

「あっ、ごめん……寝てしまって……」

 慌てて顔を上げる。途端、こめかみに微かに頭痛を覚えて、僕は思わず眉根を寄せた。

「大丈夫?」

 気づいた惟が僕の顔を覗き込む。

「あ、うん……平気」

 なにか用事だった? と尋ねた僕に、ううん……と惟は瞳を揺らして、

「……眠っているときの、貴方の雰囲気が、同じだったから」

 ぽつり、と呟くように、言葉を落とした。

「同じ?」

 聞き返した僕に、惟ははっと顔を上げて、

「なんでもない」

 くるりときびすを返し、出て行こうとした。さらりと揺れる黒髪。ずきり、と再び、こめかみに鋭い痛みが走る。

「惟」

 僕の声が、惟の名前を呼ぶ。惟がぴたりと足を止め、弾かれたようにこちらを振り返る。

 途端に、増強する頭痛。眩暈めまいを覚えて、僕は顔を伏せた。


――君は、優秀な《護衛人ボディガード》だから。


 ふっと、脳裏に声がよぎる。僕の声? どうして。


――あまりにも、優秀すぎたから。


 雨の音が、頭の中で増幅する。惟の声が聞こえた気がした。けれど、何と言ったのか分からない。雨の音に掻き消えて、聞き取れない。


――だから、僕は……


 雨の音が酷い。遠く、近く、混ざり合い、重なり合い、現実の音なのか、そうでないのかさえ、分からないほどに。

 その刹那、

「……惟、あと何日かかる?」

 僕の唇は、ひとりでに言葉を紡いでいた。頭の中に溢れる雑音ノイズ。揺らぐ意識。こだまする雨音。なんだ、これ。

「っ……あと、八日間よ」

 惟が答える、震える声が、遠く聞こえる。

「そうか……予定より早いね」

 滔々とうとうと声を奏でる咽喉のど。喋っているのは僕? 分からない。眩暈が酷くて、考えられない。

「待っていて、惟」


「僕は、必ず戻るから」


 さっと、雨の音がひそまった。眩暈は止み、頭痛も引いていく。

 今のは、何……?

「惟……今、僕、なにか言っていた……?」

 焦点を結んだ僕の瞳が、表情を消した惟の瞳に映り込む。

「……いいえ」

 惟は静かに首を横に振った。

「紅茶、新しいものを淹れてきましょうか」

「あっ、ううん。いいよ。ありがとう」

 まだ若干ぼんやりする頭のもやを振り払うように、僕は冷たく苦い紅茶を一気に飲み干した。

 さっきのは、なんだったんだろう。


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