Act.5
夜が更けるとともに強まった風は、雨の雫を不規則に窓の縁へと運んでくる。ひと粒、ふた粒、硝子の上で融合を進め、やがて自身の重みを支えきれずに滑り落ちていく。肥大しすぎて自壊していく組織のように。細く、涙に似た透明な糸を引いて。
木々の葉のさざめく音が、黄昏に沈む書斎を満たしていた。
「出世おめでとう、と言うべきかしら」
部下の新しい門出に、と女性――千都世は苦笑の形に口角を上げる。
「どうかな……僕としては、僕自身を《
「あら。“上”の評価に異議を唱えるの?」
苦笑を返した青年――優誠に、千都世は微笑んだまま、両手を腰に当てて優誠を見上げる。
「まさか。ちゃんと拝命するよ」
優誠は苦笑を深め、軽く肩を
「ただ……あの子が《
左手で支えたコーヒーカップに唇を寄せながら、優誠は呟くように言った。間接照明の淡い光が、ダークグレイのジャケットから伸びる腕の白さを際立たせている。
「でも……私の《
執務机に置かれたソーサに片手を伸ばしながら、千都世は吐息に含ませる程度の微かな笑みを浮かべた。
「あの子を私につけたら、命がいくらあっても足りないもの」
カップを口に運ぶ。流れるような、優雅な仕草だった。
「確かに……そうかもしれない」
くすりと笑って、優誠はカップを置いた。
「貴女の、ではなく、あの子の命が、ね」
貴女を狙う人間の数は、僕の比じゃないから。
+ + +
風とともに硝子を叩いていた雨は、陽が
仕事だと告げてミハヤさんと惟が邸を出てから数時間後。よかったらお茶でもどうですか、というシオノ医師の言葉に甘えて、僕は邸の敷地の一角、東側に佇むシオノ医師の研究棟へと
「いらっしゃい」
研究棟の中は、外よりも乾燥した、ひんやりとした空気で満ちていた。ふたり分の茶器を揃えて、シオノ医師はにこりと笑みを浮かべて僕を出迎えた。資料室らしい、背の高い本棚や
「シオノ先生は、本職は科学者で《
さりげなくパーテーションの向こうへ目を遣りながら、僕は訊いてみた。紅茶の香りがふわりと立ち、古い紙の匂いを霞ませていく。
「もしかして、自白剤や非合法なドラッグなどを想像されていますか?」
「えっ、いや、そこまでは……」
僕が慌てると、シオノ医師は笑った。
「守秘義務がありますので詳しくは言えませんが、ここ数年は専ら催眠療法に携わっています。製薬企業と連携して新薬の開発にも協力しているんですよ」
ソファのすぐ傍に置かれた資料の束を、シオノ医師は視線で示した。資料の表紙には、この国を代表する製薬企業のロゴが入っている。
「貴方は、我々を反社会的勢力と思っておられるのではありませんか?」
「……違うんですか?」
さらりと射られた問いかけの的に、僕は少し気まずさを覚えながらも訊き返した。
笑みを深めて、シオノ医師は続ける。
「むしろ、その逆です」
国家公務員ですから、と。
「国家公務員……?」
「ええ。“第九機関”……貴方も、聞いたことがあるでしょう」
――第九機関。
予想外の返答に、僕は思わず言葉を失った。
この国には八つの機関がある。法務を司る第一機関、外交を司る第二機関、財務を司る第三機関というように。そして近年、秘密裏に発足したと囁かれている、
「まさか……実在したなんて……」
「この国を表から動かしていくのが第一から第八の機関なら、裏から動かしていくのが我々、第九機関です。表では必要となる法規も、正しく見せかけるための偽装も辻褄合わせも、裏では必要ありません。老害や腐った林檎に阻まれることなく、完全な実力主義を以て、あらゆる欲や目的に、忠実に動くことができます」
「……随分と、含みのある言い方をされますね」
「ふふっ……これでも、若い頃はこの国に対する義憤に溢れていましたからね」
シオノ医師は、そっとカップを持ち上げた。淡い緑に金色でグリフィンの描かれたカップとソーサは、深緑のクロスによく映える。
「この国の官僚機構は、様々な
シオノ医師の声は重くなった。カップに視線を落とすとともに俯く。
「……でも」
カップを置いて、僕はシオノ医師を見つめた。
「その代わりに、守られているものもあるんじゃないでしょうか」
「……そうですね」
シオノ医師が、伏せていた視線を上げる。目が合った。微かに揺れたシオノ医師のまなざしは、どこか眩しそうな色をしていた。
「失礼いたしました。お喋りが過ぎましたね。《
注いだ紅茶を飲み干して、シオノ医師は悪戯っぽく笑ってみせた。
「良かったんですか? 僕に話して」
「今お話した内容程度なら問題ありません。第九機関の存在は、知られるべきところには知られていますから」
「そう……ですか……」
にわかには信じられないけれど、嘘とも思えなかった。第九機関……粛清を司る組織。惟のような子どもも、その一員だなんて。
「……シオノ先生、ひとつ伺っても?」
「はい」
「知られるべきところには知られている、ということは……」
「僕は本来、知らないはずの人間だったということですか?」
薄々、疑念はあった。僕の仕事は通訳と翻訳……だけれど、時々、内密にと依頼される会合の通訳や、他言無用と念押しされる書類の翻訳も依頼されることがある。その依頼者たちのあいだで囁かれていたのが、第九機関の存在だった。
「……さすが、察しが良いですね」
シオノ医師は微笑んだ。僕の中で、疑念が確信に変わる。
「僕が《
「ええ。《
「そんな国家機関に関わるような仕事、受けた覚えはありませんが……」
「バタフライエフェクトのようなものです。そのため《
ただ……と、シオノ医師は膝の上で指を組んだ。
「その仕事の依頼が貴方のもとへ来たことには、私は何かの必然を感じています」
「必然……?」
「いえ……あくまで私の所感です。憶測で口にするべきことではありませんでした。どうか忘れてください」
シオノ医師は微笑んだ。僕は残っていた紅茶を、一気に飲み干す。
「……紅茶、ご馳走様です」
お礼を言って、僕は席を立った。
シオノ医師に見送られて部屋を出ようとしたとき、部屋の奥の壁に、ダイナマイトを生んだ科学者の肖像画が掲げられているのが目にとまった。綺麗事でも良心だと、いつか言ったシオノ医師の、自戒のようなものかもしれないと思った。
肖像画の足もとには、小さな戸棚。その上に、よく磨かれた大理石のチェス盤が置かれていた。書籍と帳面に埋もれた部屋の中で、その一角だけが異質だった。黒曜石と水晶。モノクロの駒が、整然と向かい合って佇んでいた。雨雲の
綺麗なチェスですね、と僕は呟いた。シオノ医師は柔らかく微笑み、持ち主を失ったものを引き取ったんです、と穏やかに答えた。
「貴方も、チェス、お好きなんですか」
「はい。嗜む程度ですが」
「では、次にいらしたときは、手合わせをお願いしてもよろしいでしょうか」
「僕でよろしければ、是非」
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