Act.4

「……それで、狙撃者だったその子を、殺さずに連れ帰ってきたわけね」

「命令違反はしていないよ。僕は暗殺を阻止しろと命じられたのであって、必ずしも狙撃者を殺せとは言われていないから」

「ものは言いようね」

 書斎らしい部屋の中で、女性と、青年と、少女の影が、間接照明の光に揺らめく。

「確かに、貴方に傷を負わせたくらいだから、その子の実力は推して知るべしだけれど……」

 《削除人デリータ》への推薦なら通りそうね、と女性――二十代半ばくらいだろうか、青年より少し年上らしい。肩までの金髪を、すっきりとハーフアップにまとめている――は少女を一瞥し、腕組みをした。

「……分かったわ。その子の《キャスト》が決まるまで、私と貴方で面倒をみないとね、優誠ユーセイ。拾った責任は、ちゃんと取らないと」

「ありがとう、千都世チトセ

 青年は、ほっと息をついた。

「……あ、あの」

 彼らのやりとりを見ていた少女が、おずおずと言葉を落とす。

「面倒なら、私――」

「言葉の綾よ。匿ってあげるって言ってるの」

「……かくまう……?」

 ますます小さくなった少女に、青年は苦笑しながら女性の言葉を引き継いだ。

「護るってことだよ。分かった?」

「……まもる……」

 この上なく馴染みのない言葉だった。戸惑いを隠せずに、少女は尋ねる。

「貴方たちは……一体……?」

 少女の問いかけに、青年はさらに少女の予想だにしない答えをさらりと返した。

「国家公務員だよ」



+ + +



 ここへ来てから、毎朝、雨の音で目が覚める。眠りを妨げる騒音ではなく、覚醒を促す音楽に近い、空と地上を繋ぐように降る静かな雨だ。

 思い出せない夢だけが、ただ蓄積していく。

 顔を洗おうと、廊下に出る。惟が焼いているのだろう、パンの香ばしい匂いが鼻をくすぐる。

 静かだった。歩調に合わせて僅かに軋む床の音が、やけに大きく聞こえる。アーチ型の天窓から、明けきらない朝の青が射し込んで、涼やかにやしきを染めている。

 顔を洗うついでに手で水を汲み、喉を潤す。

 廊下の窓からは、邸の南側、よく整えられたシンメトリの庭園がよく見えた。コットンローズの白、ゴールデンレースの黄、スカビオサの紫、他にも沢山、僕の知らない花が、雨に濡れたみどりを彩っている。庭園を囲むように植えられた針葉樹の向こう、左側に垣間見える煉瓦造りの建物は、邸の東側に佇むシオノ医師の研究棟だ。

 廊下の窓を、そっとあける。流れ込む空気はひんやりと水を抱いて澄んでいて、ミントに似た涼やかな香りを含んでいた。この庭園のどこかに香草が植えられているのかもしれない。自然と呼吸も気持ちも穏やかになる。

 庭園の向こう、高くそびえるゲートは青銅製で、曲線を組み合わせたレース状の模様に造られていた。青い金属は、雨の風景に良く馴染む。

「優誠」

 名前を呼ばれ、振り返る。傍らに、惟が立っていた。

「あっ、もう、食事の時間?」

「いいえ。まだ、パンが焼けるのを待っているところ」

「そう、なんだ」

「……出てみる?」

「え?」

「外」

 惟は静かに言った。

「出て良かったの……?」

「貴方の処遇は軟禁であって監禁じゃないもの。もっとも、監視の目は、そこら中にあるけれど。それに、私が同行するなら、気分転換に散歩するくらい、問題ないわ」

 あいにくの天気だけれど、と惟はちらりと窓の外を見やる。雨は自然と人を閉じ込める。水の檻みたいだと、ふと思う。

「……もし、僕が逃げようとしたら?」

「逃げる気なの?」

「いや……言ってみただけ」

「麻酔銃で撃たれるのが趣味なら、試してみるといいわ」


「もっとも、なら、私ひとりでも容易く取り押さえられますけど」


 そう言い置いて、惟はくるりときびすを返した。ついてくるも来ないも僕の自由だと、そんな言葉の代わりに向けられた背中だった。





 ゲートの向こうにまっすぐに伸びる細い坂道を下っていく。

 坂は思ったよりも急だった。年代を感じさせる石畳は、降り注ぐ雨に磨かれ、水をまとって薄陽を受けて、てらてらとなめらかに輝く。

「滑りやすいから、気をつけて」

 僅かに傘を傾けて、惟が軽く振り返って言う。足もとを確かめながら、僕は苦笑して頷いた。

「そういえば」

「はい?」

「君は、小さい頃から料理が好きだったの?」

 せっかくだから少し会話をしようと、僕は尋ねた。惟の歩調が、こころなしかゆっくりになる。

「いえ……料理を始めたのは、二年前からです」

「二年前」

「はい。……食べてもらいたいひとができたので」

 ミハヤさんのことかなと、僕は思った。

 再び沈黙。静かだった。坂の両側には、さまざまな様式の洋館がひっそりと並んで佇んでいる。けれど、どれも無人なのか、人の気配が全く感じられなかった。静寂を際立たせる雨の音だけが街全体を包み込んでいる。地形が特殊なのだろうか、僕がここへ来てから、今日で一週間、まだ一度も晴れた空を見たことがない。

「この街の名前は、なんていうの?」

 歩きながら、僕は何気なく左右を見回して尋ねた。街灯が等間隔に並んだ坂道に、標識のたぐいは見当たらず、住居表示もない。

「この街に、名前はありません」

 振り向かないまま、惟は静かに答えた。

「名前がない?」

「必要ないんです。この街全体が、私たちのアジトみたいなものだから。地図にも載っていないし、限られた人間しか入れないようになってる」

 ちょうど坂の終わりに来ていた。歩いてきた石畳の道より少し広い、車がぎりぎり通れるか通れないかくらいの幅の、煉瓦造りの道が左右にのびている。立ちこめた朝もやの向こうには、やはり洋館が並んでいた。この高台全体が彼らのアジト……? だとしたら、それは一体どれくらいの広さをもつのだろうと、僕はぼんやりと考えた。

「戻りましょうか」

 惟が、くるりときびすを返して僕の脇をすり抜けた。そろそろパンが焼ける頃です、と小さく言い添えて。

 惟の後に続きながら、僕は一度だけ振り返り、坂の終わりを見つめた。どこかで見たことがある風景のような気がした。でもそれがどこなのか、いつのことなのか、思い出すことはできなかった。


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