Act.4
「……それで、狙撃者だったその子を、殺さずに連れ帰ってきたわけね」
「命令違反はしていないよ。僕は暗殺を阻止しろと命じられたのであって、必ずしも狙撃者を殺せとは言われていないから」
「ものは言いようね」
書斎らしい部屋の中で、女性と、青年と、少女の影が、間接照明の光に揺らめく。
「確かに、貴方に傷を負わせたくらいだから、その子の実力は推して知るべしだけれど……」
《
「……分かったわ。その子の《
「ありがとう、
青年は、ほっと息をついた。
「……あ、あの」
彼らのやりとりを見ていた少女が、おずおずと言葉を落とす。
「面倒なら、私――」
「言葉の綾よ。匿ってあげるって言ってるの」
「……かくまう……?」
ますます小さくなった少女に、青年は苦笑しながら女性の言葉を引き継いだ。
「護るってことだよ。分かった?」
「……まもる……」
この上なく馴染みのない言葉だった。戸惑いを隠せずに、少女は尋ねる。
「貴方たちは……一体……?」
少女の問いかけに、青年はさらに少女の予想だにしない答えをさらりと返した。
「国家公務員だよ」
+ + +
ここへ来てから、毎朝、雨の音で目が覚める。眠りを妨げる騒音ではなく、覚醒を促す音楽に近い、空と地上を繋ぐように降る静かな雨だ。
思い出せない夢だけが、ただ蓄積していく。
顔を洗おうと、廊下に出る。惟が焼いているのだろう、パンの香ばしい匂いが鼻をくすぐる。
静かだった。歩調に合わせて僅かに軋む床の音が、やけに大きく聞こえる。アーチ型の天窓から、明けきらない朝の青が射し込んで、涼やかに
顔を洗うついでに手で水を汲み、喉を潤す。
廊下の窓からは、邸の南側、よく整えられたシンメトリの庭園がよく見えた。コットンローズの白、ゴールデンレースの黄、スカビオサの紫、他にも沢山、僕の知らない花が、雨に濡れたみどりを彩っている。庭園を囲むように植えられた針葉樹の向こう、左側に垣間見える煉瓦造りの建物は、邸の東側に佇むシオノ医師の研究棟だ。
廊下の窓を、そっとあける。流れ込む空気はひんやりと水を抱いて澄んでいて、ミントに似た涼やかな香りを含んでいた。この庭園のどこかに香草が植えられているのかもしれない。自然と呼吸も気持ちも穏やかになる。
庭園の向こう、高く
「優誠」
名前を呼ばれ、振り返る。傍らに、惟が立っていた。
「あっ、もう、食事の時間?」
「いいえ。まだ、パンが焼けるのを待っているところ」
「そう、なんだ」
「……出てみる?」
「え?」
「外」
惟は静かに言った。
「出て良かったの……?」
「貴方の処遇は軟禁であって監禁じゃないもの。もっとも、監視の目は、そこら中にあるけれど。それに、私が同行するなら、気分転換に散歩するくらい、問題ないわ」
あいにくの天気だけれど、と惟はちらりと窓の外を見やる。雨は自然と人を閉じ込める。水の檻みたいだと、ふと思う。
「……もし、僕が逃げようとしたら?」
「逃げる気なの?」
「いや……言ってみただけ」
「麻酔銃で撃たれるのが趣味なら、試してみるといいわ」
「もっとも、今のあなたなら、私ひとりでも容易く取り押さえられますけど」
そう言い置いて、惟はくるりと
+
ゲートの向こうにまっすぐに伸びる細い坂道を下っていく。
坂は思ったよりも急だった。年代を感じさせる石畳は、降り注ぐ雨に磨かれ、水をまとって薄陽を受けて、てらてらとなめらかに輝く。
「滑りやすいから、気をつけて」
僅かに傘を傾けて、惟が軽く振り返って言う。足もとを確かめながら、僕は苦笑して頷いた。
「そういえば」
「はい?」
「君は、小さい頃から料理が好きだったの?」
せっかくだから少し会話をしようと、僕は尋ねた。惟の歩調が、こころなしかゆっくりになる。
「いえ……料理を始めたのは、二年前からです」
「二年前」
「はい。……食べてもらいたいひとができたので」
ミハヤさんのことかなと、僕は思った。
再び沈黙。静かだった。坂の両側には、さまざまな様式の洋館がひっそりと並んで佇んでいる。けれど、どれも無人なのか、人の気配が全く感じられなかった。静寂を際立たせる雨の音だけが街全体を包み込んでいる。地形が特殊なのだろうか、僕がここへ来てから、今日で一週間、まだ一度も晴れた空を見たことがない。
「この街の名前は、なんていうの?」
歩きながら、僕は何気なく左右を見回して尋ねた。街灯が等間隔に並んだ坂道に、標識の
「この街に、名前はありません」
振り向かないまま、惟は静かに答えた。
「名前がない?」
「必要ないんです。この街全体が、私たちのアジトみたいなものだから。地図にも載っていないし、限られた人間しか入れないようになってる」
ちょうど坂の終わりに来ていた。歩いてきた石畳の道より少し広い、車がぎりぎり通れるか通れないかくらいの幅の、煉瓦造りの道が左右にのびている。立ちこめた朝
「戻りましょうか」
惟が、くるりと
惟の後に続きながら、僕は一度だけ振り返り、坂の終わりを見つめた。どこかで見たことがある風景のような気がした。でもそれがどこなのか、いつのことなのか、思い出すことはできなかった。
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