Act.3

 スコープに描かれたクロスヘアのレティクルを、十字架に見立てて、トリガを引く。神様を信じているわけではないから、これは皮肉で、当てつけだ。呟くのは祈りの言葉でも呪詛でもなく、ただ、

「さよなら」

 頭に、胸に、重ねた十字。垂直に交わる線分の中心から、指先ひとつで、鮮やかな赤が咲いて散る。ひとひら、ひとひら。

 さよなら、さよなら、さよなら。

 透明なレンズの向こうで、また笑顔が消えていく。今日も。


 乾いた夜風が冷たい、秋の終わりだった。新市街と旧市街の狭間、解体途中で放棄された廃墟の屋上から、数百メートルの彼方を眺める。街は夜明けを迎えたばかりで、未だ涼やかな青い色に沈んだままでいた。遠く林立する新市街の建物群の向こうから、白い朝陽が光を撒くまで、あと十数分だろう。

(それまでには、終わる)

 少女はトリガに指をかける。人影ひとつなかった街路に、一台の車が街灯の明かりを弾いて閃く。よく磨かれた、黒光りする高級車だ。国内有数のホテルの前に、それは止まった。少女は呼吸をひそめる。距離と風を最終確認。カウントダウンは、もう始まっている。

「……さよなら」

 スコープの十字を標的の眉間に合わせた。にこやかな笑みを浮かべた怜悧な瞳。暗殺対象者の人となりに興味はないけれど、こうして狙われるということは、人望の厚さと正義感が災いしたのだろう。トリガに添えたひとさし指に力をこめる。

 息を止め、集中した瞬間、

「させないよ」

 声が響いた。後ろだった。距離にして十メートル弱。とっさに身をひるがえした少女の肩先を、一発の銃弾が掠めていく。油断していた? 違う。全く、こちらに、気づかせなかった。

 とっさに拳銃を取り出す少女の右手の傍で、硝子の割れる音がした。相手の放った弾丸が、狙撃銃のスコープを砕いていた。まるで最初から少女よりそちらを狙っていたようだった。何故? 浮かぶ疑問を振り払う。途惑いは余計だ。ブレーキにしかならない。反射と本能のスピードに、アクセル以外のものはいらない。クリアに抑えた思考の下、地面を蹴る。軽く息を止め、狙いを定める。けれど少女の指先がトリガを引くより早く、相手は照準の外、少女のすぐ傍に肉薄していた。呼吸さえ感じ取れるくらいに。

(このひと、速い――)

 銃をもつ右手を掴まれた。遠心力さえかけて、強く引かれる。足を取る気? その手にはかからない。左手で素早くナイフを構える。相手の力も利用して、少女は左手を薙ぐように振った。狙うのは首。掻き切るために。

「……っ……」

 相手は体を退いた。けれど掴んだ少女の腕は離さなかった。左手に、相手の皮膚を裂く感触。頬に生温い滴が飛ぶ。けれど浅い。鮮やかな紅の飛沫しぶきじゃない。動脈に届かない傷は、沈んだ赤をただ伝わせるだけ。

「……あ……っ」

 払われたナイフ。かつん、と地面を叩く前に、左手の手首は捕えられていた。軽く捩るように引かれて爪先が揺らぐ。揺らめく視界。背中に衝撃。コンクリートの壁に、少女は縫いとめられていた。くさびよりも強かな腕で。

「残念だったね」

 青年の声が、少女の耳を、静かに打った。癖のない黒い短髪が、吹き抜ける風に僅かにそよぐ。二十代前半くらいだろうか。すらりと高い背に、スレートグレイのトレンチコートをまとっている。声は柔らかく優しげだが、少女の瞳をまっすぐに見据える深黒の視線は射るようだった。真っ向から受け止めて、少女は睨み返す。体ひとつ、息ひとつ、震わせることなく。

 喉に触れる無機質な冷たさが、少女の動きを封じていた。新式の銃だった。顎のすぐ下。ちょうど延髄を撃ち抜ける角度。こめかみよりも、額よりも、ずっと致死率の高いその場所を、青年は正確に捉えていた。

「……貴方、ばかなの?」

 表情を消したまま、少女は小さく息を吐く。

「気配を消して近づいておきながら、わざわざ先に声をかけるなんて。私を振り向かせてから撃つなんて、ばかげているとしか思えない。接近戦にもちこまなくても、後ろから私を撃てばそれで片がついたのに」

 切り裂かれた首の傷から流れ出る青年の血が、夜明け間近の青い空気の中、白い襟を赤く染めていく。微動だにしない青年を、少女は睨みつけた。

「殺せばいいでしょう。なにを躊躇ためらうことがあるんですか」

 言い放った。苛立ちさえ少女は覚えていた。分かっている。青年は躊躇ってなんかいない。けれど、ならば何故、ひと思いに撃たない? 解せなかった。少女の瞳を、青年は静かに映していた。少女の顎に押し当てた銃口を、些かも揺らがせないまま、彼は淡々と、静かに告げた。

「殺せばいい、じゃなく、殺してくれ、っていうなら、このトリガ、引いてあげるよ」

 銃を持つ手に、ほんの少し力を込める気配がした。表情を解かないまま、青年は言葉を続ける。

「どうする? 君は、生きたい?」

 死にたくないか、じゃなく、生きたいか、と訊いた。静かに、しずかに。

「……ここで死なずに、生きられる場所なんてない」

 少女は言った。命じられた仕事をこなせなかった。失敗した自分は、雇い主のもとへ戻っても、逃げても、どのみち捕まり、嬲られた果てに殺されるか、薬を打たれてさらなる地獄へ放り込まれるだけ。

「じゃあ、僕たちが生かしてあげようか」

 さらり、と青年は言葉を落とし、柔らかな笑みを浮かべた。

「……なに、言って……」

 少女の瞳が、驚愕に見ひらかれる。

「君、名前は?」

「……ユイ

「僕は優誠ユーセイ。……惟。僕たちの組織に来るといい。歓迎するよ」



+ + +



(また夢……か)

 惟が出てきたような気がするけれど、内容は朧げで、思い出せない。

 雨の音が、少しずつ微睡まどろみから覚醒へといざなう。薄雲から射す白い朝の光の中、細く弱く、雨は降りつづいている。

 そっと窓を開けてみた。高台に位置するからだろうか、ひんやりと水を抱いた空気は澄んでいて、埃の匂いを含まない。

 窓からは、細雨のつくるもやの向こう、新市街に林立する建物群のシルエットを望むことができる。中心地からさほど離れていないはずなのに、この静けさは何だろう。まるで目に見えない遮音壁でもあるみたいだ。

 身支度を整えた後も、朝食の時間まで、まだ少し余裕があった。軽く伸びをして、僕はデスクに向かい、書類に万年筆を走らせる。幸いというべきか、僕の生業は通訳と翻訳で、場所を選ばず仕事をすることができる。そして、《調整人コーディネータ》……ミハヤさんは、僕のアパートから、僕の手掛けていた仕事の書類を、全てここに用意してくれていた。僕はここで、ただ僕の仕事をしていれば良いらしい。

「優誠」

 軽くドアをノックする音が聞こえた。惟だった。蝶番ちょうつがいの軋むドアをあけた僕を、惟は無表情に見上げて、「朝食、できたわ」と告げた。

「ありがとう」

 僕は微笑んで、ジャケットを羽織り廊下に出た。惟は数歩先に立ち、僕を待っていてくれた。

 一階に下りると、廊下には早くも香ばしい焼き料理の匂いが流れてきていた。

「今日も、惟が作ったの?」

 ここへ来て、今日で三日目。昨日も一昨日も、食事は全て惟が用意してくれていた。

「……料理を作るの、好きだから」

「そうなんだ。すごいね、ありがとう」

「…………別に」

 振り返らないまま、惟は小さく言葉を返した。こころなしか、耳が少し赤い。

「作れるときは、なるべく作りたいの。私が……自分や誰かを生かすためにすることの中で、唯一、誰も悲しませずにできることだから」

 静かにそう答えて、惟は少しだけ歩調を速めた。小柄な体。長袖の黒衣が覆う華奢な腕。数日前の夜に見た、鈍色に沈む鉄の武器を、それを閃かせた白い手を、僕は、思い出していた。

 ひららかな表情、淡い声。何となく、薄氷のような硝子を思わせる子だった。怒りに尖らせた心が哀しみに削られて、薄く、うすく、磨かれて……けれど至極、透きとおった硝子。

「今日はオニオンとトマトとズッキーニのキッシュです」

 サラダもありますよ、と惟は教えてくれる。惟と、ミハヤさんと、シオヤ医師と、僕……四人で囲むテーブルに、金属製の食器はひとつも含まれていない。

「これ、貴方の分」

「あっ、ありがとう」

 惟が切り分けてくれたピースを受け取る。軽く焦げ目のついた、ぱりぱりと香ばしい生地の下に、ふわりと卵に抱かれた野菜がつやつやと鮮やかな彩りをみせている。トマトの赤、ズッキーニの緑、卵の黄、オニオンの白が目に鮮やかだ。小麦粉と卵の甘い匂いを胡椒とハーブの香りが引き立て、温かな白い湯気が、雨の温度に冷やされた部屋の空気を和らげていく。

 セラミックの鍋、陶器の器、木のカトラリ。銃器の鉄も、弾丸の鉛も含まない食卓を、僕らは囲む。

「トキハさんは、ここへ来られる前、普段、どんなものを召し上がっておられたのですか?」

 シオヤ医師が、何気なく僕に尋ねた。

「え、っと。固形栄養食と……コーヒーですね」

「それはいけない。ここにいるあいだ、しっかり食べていただかないと」

「は、はい」

「惟の料理は美味しいものね」

「ええ、とても」

「……光栄です」

 そんな会話を交わしながら、手に馴染む木造りのフォークで一切れ頬張る。

 こんなに暢気にしていて良いのだろうかと胸の片隅で小首を傾げながら、それでもフォークを口に運ぶ手は止まらない。

 オニオン、トマト、ズッキーニ。スパイスに引き立てられた、どこか懐かしい味がした。


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