Act.2
風の無い、雨の夜だった。大粒の雫は真っ直ぐに地上へと降り注ぎ、街灯が照らす石畳を打っていた。
(ここは……?)
辺りを見回す。古い住居の建ち並ぶ、知らない街路の一角だった。高い塀に挟まれた緩やかな坂道が伸びている。大通りからは遠いらしく、車の音も喧騒も全く聞こえない。ただ雨の音だけが響いている。
(雨……)
土砂降りの雨の中に立っているのに、僕は少しも濡れていない。あぁそうか、これは夢なのだと、理解する。
街灯の影に、倒れた人影を見つけた。僕は近寄り、見下ろす。
細い身体。黒のジャケットから、骨の浮いた手首が覗いている。目を閉じた横顔。雨に打たれた黒髪が、白い頬に張り付いている。
(……僕……?)
触れようと手を伸ばし上体を屈めたとき、ぱしゃん、と水溜まりを踏む足音が聞こえた。視界にかかる影。手を止めて、僕は顔を上げる。小さな黒い人影が、街灯の下、滲むように浮かび上がる。少女――
惟の髪は長く、後ろですっきりとまとめていた。伏せた瞳は僅かに紗がかかって見えた。黒いブーツにタイツ、ショートパンツ。濡れそぼったジャケットが、彼女の姿をひときわ闇と同化させる。
「――……」
呟いた惟の言葉は、雨の音にあやめられて僕の耳には届かなかった。膝を折り、彼女は“僕”の腕を肩にかけ、背負おうとする。途端、力を宿さない“僕”の手から、かつん、と音を立てて何かが滑り落ちた。足もとに転がったそれを、僕はとっさに拾い上げる。相手に僕の姿は見えなくても、僕が物に触れることはできるらしい。ローズピンクの、小さな硝子片……? それにしては角が丸い。……シーグラスだろうか。そう思った瞬間、ずきん、と刹那、こめかみに鋭い痛みが走った。思わず目を閉じ、掌のシーグラスを握りしめる。一秒、二秒、三秒……痛みが去り目をあけたときには、惟は歯を食いしばり、“僕”を抱えて
「あっ、待って」
僕は思わず声をかけ、惟に向かって一歩を踏み出す。惟は僕に気づかない。そのまま追いつき、僕は惟の斜め後ろを歩く。
「ここに、入れておくね」
“僕”のジャケットのポケットに、シーグラスを、そっとおさめて、僕は足を止めた。惟との距離が離れていく。
「……
「え……?」
惟の足が止まった。呆然と呟くように僕の名前を呼んで、徐に、惟が振り向く。
彼女の瞳が、まっすぐに僕を捉えていた。深黒の瞳が、すうっと大きく見ひらかれる。
「僕が、見えるの?」
尋ねた僕に、惟は目を伏せて視線をそらした。
「ごめんなさい」
ただ一言、それだけ残して、彼女は僕に背を向けた。“僕”の体を抱えながら、坂を静かに上がっていく。
「惟……!」
無意識に、呼び止めていた。何故呼び止めようとしたのか、自分でも分からない。ただ、ごめん、と思った。僕は彼女に――惟に、詫びたくてたまらなかった。
僕の声に、惟は足を止めた。静かに僕のほうへと向きなおる。途端、雨脚が一層、強くなった。何かを阻むように。惟が口をひらく。だめだ、聴こえない。僕は地面を蹴る。惟のもとへ行くために。水溜まりが跳ねる。彼女の顔色が変わった。
――だめ。
刹那、雨の音が掻き消された。彼女の声でなく、僕の声でもなく、ずっと無機質な、それは銃声だった。
+ + +
柔らかなベッドの中で、僕は目覚めた。何か夢をみていた気がするけれど、どんな夢だったのか、内容は全く思い出せない。視界は青に染まっていた。夜明け前の光の色だ。幾何学模様の彫刻で装飾された梁が交差する、知らない天井が僕を見下ろしている。緻密な刺繍が施されたカーテンの隙間から、薄青い黎明の光が射していた。外は雨のようだった。雨どいを伝う水の音が、微かに鼓膜を揺らしていく。
静寂が満ちる。聞こえるのは水の音だけ。
指先に軽い痺れを覚えて、眠らされる前にされたことを思い出し、僕は眉を寄せた。ゆっくりと上体を起こす。僅かな怠さはあるものの、動作を阻むほどではない。胸と手首と頭に、包帯が巻かれていた。上着は払われていて、朝の空気がひやりと肌を撫でる。
「お気づきになりましたか」
かたん、と誰かが席を立つ音が聞こえて、僕は振り向いた。白衣を着た初老の男性が、こちらへ歩いてくる。消毒液の匂いに混じって、ふわりと火薬の臭いがした。
「予定時刻より二時間も回復が早い。やはり、貴方はひとより薬が効きにくい体質なのかもしれませんね。トキハさん」
さらりと名前を呼ばれて、僕は胸中で身構えるのと同時に溜息をついた。惟と名乗った少女といい、何故この人たちは僕の名前を知っているのか。
(調べたのか? だとしたら、一体何の目的で?)
僕の疑念をよそに、彼はベッドサイドの椅子に腰を下ろすと、ふむ、と静かに顎を撫でた。僕の表情をみとめて、彼は肩をすくめる。
「何も撃つことはなかったのに、と言いたそうですね。確かに、彼女はときにやりすぎることがある。私からお詫びしましょう」
「いえ、僕は別に……」
「そうですか? まあ、後遺症や銃創が残るシロモノではありませんから、そこは安心してください」
「……それは、よかったです」
僕は軽く息を吐いた。彼は申し訳なさそうに苦笑を浮かべた。
「私は
「科学者?」
「貴方を眠らせた麻酔弾の中身は、私が作ったものです。他にも色々手がけていますよ。人を殺すもの以外は、ね」
最後の言葉が引っかかった。無視すればよかったのに、何故だろう、僕は言葉を掴んでしまった。
「それでも、使い方によっては、いくらでも殺せるでしょう」
「確かに、綺麗事です。しかし良心です」
特に気を悪くした風もなく、シオノ医師は穏やかに淡々と答えた。同じ問いかけを、既に何度も自身と重ねてきたのかもしれない。
「役、とは……?」
僕は話題を変えた。確か、惟も言っていた。《
「皆それぞれ、組織の中で担うべき需要に基づく役割があります……私の場合は、医師と博士の技術と知識をもって、組織を支援する役割を担う。そして、貴方の場合は、《
「……餌……?」
何なんだ? 僕は困惑する。組織って? 標的って? 身に覚えが全くない。僕の胸中を察したのか、彼は苦笑を浮かべた。
「ここから先は、《
起きられますか? と彼は尋ねた。僕が頷くと、彼は微笑み、傍のコートハンガーに掛けられていた僕の上着を差し出してくれた。
「目覚めたらお連れするように、との命です。《
+
落ちついた佇まいの洋館だった。木には彫刻、布には刺繍。豪奢ではなく好ましい上品さで、調度品のひとつひとつに繊細な装飾が施され、壁には油絵やレリーフが、煩すぎない間隔で、ぴたりと大きさや高さを揃えて掛けられている。涼やかな木の匂いが空間を包む。ひんやりとした空気。静かだった。雨の音と、僕とシオノ医師の足音しか聞こえない。建物は二階建てのようだった。螺旋階段を上がった先、左奥の部屋に、僕は通された。
書斎のような部屋だった。四隅に灯る間接照明の淡い橙の光が、滲ませるように闇を払っていた。中央には
「ようこそ、と言うべきかしら。貴方にとっては、良い迷惑かもしれないけれど」
「貴女が、《
「ええ、そう呼ばれているわ」
女性は頷いた。落ちついた、深みのある声だった。
「あらゆるものを調整し、補正し、修正し、あるべき形に整える。それが私の役割」
言葉通りの意味じゃないかと、僕は心の中で溜息をついた。
「……では、《
「“言葉通り”、敵の狙いを一身に引き受ける存在よ」
まるで僕の胸中を見透かしたように、彼女は言葉を選択し、笑みのかたちに目を細めた。眩暈がした。ますますわけがわからない。
「人違いじゃないですか? 僕は誰かに狙われるような――」
「覚えがなくて当然よ。貴方が選ばれたのは、一種の不具合みたいなものだから」
「不具合?」
「ええ。だから私が補正するの」
彼女は薄く笑った。執務机を離れ、僕の前に立つ。涼やかな切れ長の瞳が、僕を静かに見据える。
「
一か月。正確には四週間×七日間で二十八日間。
「悪いけど、貴方に拒否権はないの。従うべき命令と捉えてもらって構わないわ。事態は既に始まっている。でも、ここに居る限り、貴方の身の安全は、最大限、保障するわ」
「……もし、嫌だと抵抗したら?」
「軟禁を監禁に変えさせてもらうことになるわね」
でもそれはお互いに得策ではないでしょう? とミハヤさんは笑った。
「私にとっては、潰したい敵を始末するまで貴方には安全な場所に居てもらう必要がある。そして貴方は、ここにいることで保護される。どう? なかなか良い交換条件だと思うけれど」
彼女の言葉が、僕の感情に爪を立てる。昨夜の銃撃を思い出していた。無意識に、僕は体の横で両手を握りしめ、そしてゆっくりとそれを解いた。
「……分かりました」
命令だとか、拒否権はないとか、わざと言葉を選んでいるのだろうか。あぁ、と思った。心の中で、感情のスイッチを切る。了解しました、承知しました……そういった言葉は全部、好きにすればいいと同義だった。少なくとも僕の中では。またこのパターンかという諦めに近かった。
視線を巡らせた僕に、ミハヤさんは微かに笑みを深めた。さっきよりも苦笑の色味が強かった。
「貴方の部屋に案内するわね」
入りなさい、とミハヤさんはドアの向こうに呼びかけた。
「彼女は惟・セノ。私の《
「はい」
惟は淡々と頷いた。
「……君が……」
僕の呟きに、凪いでいた惟の瞳が僅かに揺れた。気配が固くなる。何に身構えているのだろう。僕は軽く瞬きをした。
「どうかした?」
ミハヤさんが尋ねる。いえ、と僕は緩く首を横に振る。
「ええと……よろしく」
「……どうぞ、こちらへ」
惟の表情は一瞬で元の無表情に戻っていた。静かに廊下を掌で示し、僕を促す。小さく華奢な掌だった。
惟に連れられて廊下を歩く。
アーチ型の窓が、渡り廊下の両側を彩る。雨に濡れた緑が碧い。
軋む床。毛足の長いワインレッドの絨毯が、足音をあやめる。
「必要なものはミハヤが揃えていると思うけど……足りないものがあったら、言って」
「ありがとう」
雨は降りつづいていた。淡々と、静かに。
雫が描く直線の連鎖は、さながら水の檻に似ていた。
「……あの、さ」
「はい?」
しんと漂う静寂に、僕は声の波紋をひとつ落とす。
「君は、いつから、この仕事を……?」
昨夜の彼女を思い出す。《
「答える必要のないことだわ」
惟は、ばっさりと切り捨てた。
「……そうだね」
ごめん、と僕は詫びた。余計なことを訊いてしまった、と。眉根を下げた僕を横目で見上げ、惟は僅かに視線を落とすと、小さく息を吐き、呟くように言った。
「ミハヤは……私を拾ってくれた人間のひとりよ」
「私は今、護りたい存在を護れてる」
「だから、この仕事は、地獄じゃない」
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