第漆話 十五の夏

 ……蝉の声がした。


 その時、聴こえてくる夏の虫の声が、遠いのか近いのか少女には分からなかった。


 陽炎がアスファルトからちろちろとうっすら昇り、すっと息を吸えば……日に焼けた香り。どこか、懐かしい匂いがした。


 悲しみの涙がひとつ落ちて……


 あの日、……赤刀ユリカはこの世界からいなくなった。

 異界誕生と共に。








 ……







 ……








 …………








 私は、剣を胸に抱いて寝る様な子どもだった。

 剣と言っても木でできた、いわゆる木刀と呼ばれる物だ。

 私は、生まれてから、は……大袈裟か。うん、物心がついてからかな。そう、剣を握り、毎日振ってた。それが当たり前だと思っていた。日常だった。


 剣を握り振ることが、正しいと信じていた。


 江戸の時代から続く剣の道場。門下生は千を超え、世界大会でも優勝争いをする名の知れた流派、赤刀一刀流。

 赤刀、それが私の家名だ。


 覚えいるのは最初は棒切れ。遊びで振る細くて小さな棒切れを私は振る。周りで起こる笑い声は、お父様だろうか? お爺様だっただろうか。

 嬉しくなって、出鱈目に振って遊んだ。

 お爺様が私を抱えて笑う。

 小さな私は無邪気に嬉しそうに笑っていた。

 嬉しそうに楽しそうに、みんなが笑っていた。


 今では……聞くことが無い笑い声。

 優しくて切なくて、悲しい思い出。

 でも大切で忘れたくない記憶。


 私の歳を重ねると共に握る剣も大きくなっていった。

 枝から小太刀に、そして竹刀に、最後は木刀に変わった。

 戦争もない、平和の時代に……ただただ、愚直に剣を振る。

 疑問も不思議もない。

 それが当たり前と思っていた。

 赤刀家の日常。

 硬くなった手のひらが自慢だった。剣が好きだった。

 だけど、ある日、知ってしまった。気づいてしまった。

 なまじ、才がある人間に囲まれている故にことさら分かってしまった。

 十歳を超えた日、知ってしまった。


 私は道場に通う同じ年の男の子に負けてしまった。

 彼は才があり、お爺様もお父様も目をかけていた剣士だった。

 次の日も次の日も私は彼に勝負を挑んだ……けど、結果は同じ。

 その日を界に私の世界は変わってしまった。

 

 ……私は、私には剣の才能がなかった。


 思い出すのは足の裏に感じる道場の板張りの床の冷たさと、竹刀の打ち合う音。

 それと、何度も何度も投げつけられた、言われた言葉。


「立て」


 お爺さま様は言った「当主の長女として努力しろと」


「立て」


 お父様は言った「お前の体には赤刀家の血が流れているのだ」


「立て」


 お母様は言った「強くなりなさい」


「立て」


 と。


 ——振り向いて欲しかった。


 お爺様や、お父様とお母様に。

 昔の時の様に笑って、私を見て欲しかった。褒めて欲しかった。よくやったなと、昔みたいに大きな手で頭を撫でて欲しかった。

 私を見て欲しかった。

 だから、頑張った。

 剣を振った。

 それしか、なかった。


 何度、倒れても立ち上がり、剣を振った。

 血を吐いても、四肢を打たれ倒れても何度でも立ち上がり、涙が枯れても剣を振った。

 頑張った……頑張った……


 だけど、生まれてから一度も、お爺さま様からもお父様からも……、一本は、取れなかった。


 あの夏の日を思い出す。

 十五の夏。

 暑い、暑い夏の日。

 蝉の声が裏の雑木林からだろうか、必死に鳴いているのが聴こえる……うるさいその鳴き声は、死に抗う様に鳴いてる様に聴こえて、少しだけ嫌になったのを覚えている。




 ——ミーン、ミーン、ミーン、ミーーンッ。




 蝉の声に混じり、悲鳴が聞こえた気がした。

 初めは小さな声。だけど、次第に声は大きくなり、「お前の血のせいか!」とお父様の怒鳴り声と共に、ドスンと何かが倒れる様な音がした。

 音に驚いて駆けつけた私が見た光景は、赤い頬を押さえて倒れているお母様だった。


 何かあったのだろうか?

 母様を見下ろすお父様がそこにいた。

 私は何か、見てはいけない物をみた様な気がして怖くなった。


 私に気が付いた父は「ふんっ」と一息、私に一瞥イチベツをくれて立ち去って行った……


 父が消えると、すぐさま倒れている母に近寄り支える。


「お母様!」


 頬が赤く腫れている。お父様がやったのだろうか? どうして……



 ——私は、私は、頑張ってきた。努力もしてきた。叩かれ、倒れても立ち上がった。それは……


 褒めて欲しいから。

 認めて欲しいから。

 優しく笑いかけて欲しいから。


 愛して欲しいから。


 だけど、


 母様との、


 最後の会話は、







「お前なんか生まれてこなければよかった」







 その目がまだ、忘れられない。


 母様の目は黒く塗りつぶされていた。


 その目が忘れられない。


 忘れたいのに、頭から消えない。


 三年たったいまでも、消えない。


 消えない。






















































 それからは、うまく覚えていない。

 傷ついた足の裏から痛みが遅れてやってきて気づいた。

 足の裏は暑くなった地面に火傷し、傷ついていた。

 素足で母から逃げ出したのだ。

 どこをどう歩いたのか、周りを見渡すと近所の神社、人が来ることもない……見慣れた私の逃げ場所に立っていた。

 私は、どうしようもないことや、辛くて悲しい事があった時、この古びた神社に来て、隠れて泣いた。

 声を殺して。


 少女は苔むした石畳がしかれた先の薄汚れた石段に座り、下を見ていた。

 背後にある、すこし崩れかけている社は静かだ。

 蝉の声と夏の草いきれが香る風に揺れていた。

 夕刻なくせに空は青く雲は白く、少女は無力だった。

 暑い夏だった。

 汗が背と胸を濡らした。

 暑い夏だった。

 呼吸が確かに、そこにはあった。

 少女は生きていた。


 だから、辛い。


 ぽたりぽたりと汚れた石段に雫が落ちる。

 それは止まることなく、落ちる、落ちる、落ちる、落ちる。

 ぽたりぽたりと涙が落ちる、……落ちる。


 微かな声で少女は


「神様……私、生きていちゃ駄目なのかな?」と話す。


 何気ない、質問。

 だけども……


「私は……みんなに笑って欲しかった……だけなのに……」


 何気ない、大切な想い。

 だけども……


「わ、私、い、い、きて、ちゃ……だめ、なの……かな」


 少女が絞り出した本当の声。


 堪えきれずにぽろぽろアフれ出す涙。

 声が石畳にこぼれて転がり消えていく。

 世界は何も答えない。

 うるさい蝉の声はどこか他人事で、一人の少女の泣き声だけが本当だった。


「誰か……」


 突如吹く、風が少女の髪を揺らす。


 夏の風が吹く。










 誰か助けて——










 声を巻き上げて。












 ——そのとき世界が揺れた。


 社が白い光に包まれる。

 ただの偶然だったが、赤刀ユリカは消えた。


 異界誕生に巻き込まれて。


 未来に——







 …………







 …………………








 ………………………








 眩しい光が見える。

 手で目を押さえて光を遮りながら……ゆっくりと目を開けた。

 木の天井が見えた。知らない部屋。ここは……? 何処?


「……やあ、目が覚めたかい。心配したよ……、よかったら名前を教えてくれないかい?」


 誰っ? 急に聴こえた声に驚いて、飛び起きようとするけど、体がうまく動かない。

 目を向けると、知らない女の人が私の寝るベットの横の椅子に座っていた。


「おっと! うっかりしていたね。私は、破堂凛子といいます」


 混乱する私に、ニッコリと笑い話す、長い黒髪を背中に流したお姉さんに私は答える。


「赤刀……ユリカです……あの、ここはどこですか?」


「ユリカちゃんか、いい名前だね。君は目が覚めたばかりだから……まずはこれでも飲んで落ち着いて」


 彼女は立ち上がり、窓際の机に置いてあった水差しを手に取り、コップに注ぐ。

 木の天井に壁。なんだか、木造校舎……昔の学校みたいな所だなと思った。

 

「どうぞ、慌てずに飲んでね」


 水? だろうか……透明な液体が入ったコップを渡される。固まっている私に、


「ああ、ごめんなさい! 中身はただの水。毒なんか入ってないわ」


 照れ笑いする彼女からは悪意が感じられないのもあり、口をつけ飲んだ。

 ゴクリゴクリと音を立てて気がつけば、水はなくなっていた。


「落ち着いてっていったのに……大丈夫?」


 それから、彼女は、破堂凛子は私に話し出した。

 ポツリポツリと迷いながら、言葉を選びながら。


 過去人。

 ここが、未来だという事。

 私は、私を知る人が誰もいない世界にいるという話を聴いた。

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