6 講演
その日は、昨日までの秋晴れが嘘かのように灰色の雲が厚く垂れ込め、今にも雨が降り出しそうな天気だった。
アンダーソンの姿は博物館のホール裏にある控室にあった。
既に博物館のスタッフたちとは本日の動きにつて打ち合わせ済みである。つい先ほど、スタッフの一人から総督と男爵が着席したことを知らされた。
思い返せばなるようになるものなのか、アンダーソンは誰もいないことを確認して嘆息した。これほど短期間で大人数を収容する大ホールでの講演準備を整えられたのは博物館のスタッフたちのおかげであった。
三日前の夜、総督が出席した晩餐会で発見の報告を行うと総督の鶴の一声で今日の講演が決まった。そのおかげで今日まで方々を駆け回って準備に勤しむはめになった。三日後という短すぎる期限に加え、聴衆がそもそも集まるのかと疑問に思ったのだが、結論から言うとそれは総督の言う通りで杞憂となった。
男爵の名で遺跡研究について最新の重大成果を発表する旨を出すと、監査の間暇を持て余した民衆たちはこぞって博物館に問い合わせをしてきたのだ。自分たちの飯の種でもある遺跡関連の研究情報には無関心ではいられないのである。
その結果、ほぼ直前の予告にも関わらず博物館のホールは満員となり、入りきらなかった聴衆たちは博物館の外まで群がり、押し合いへし合いの状態になっていた。
聴衆の問題と並行して講演の内容についても本来であれば詰めるのにもっと時間が必要な問題だ。だが、この問題についても総督に報告した内容を講演用に整え直すだけで概ねクリアできる。たとえその内容が嘘偽りのものだとしても、アンダーソンの知識と技術があれば講演としてまとめ上げるのは難しくは無かった。
書記官から渡された資料を自分の研究に刷り込むまでにはそれほど時間を要さなかった。こんな証拠があればいいな、と何度夢想したかしれない代物が目の前にあったのだから、忌避する心とは別に、アンダーソンの思考と筆は驚くほど滑らかに講演資料を作成したのだ。作業が進めば進むほどに、自身の学問に対する良心が悲鳴を挙げていたが、それについては耳を塞いだ。
結局のところ、男爵の要求を飲むかどうかの最後の一線は自分一人に帰結することになってしまった。総督との晩餐会で博物館スタッフの処遇を盾に取るという手法が男爵には使えないことを悟ったが、そうすると最後は自分がどうしたいのか、という問題のみが残る。つまり、自身の良心を取るか安定した生活を取るかの二択だ。
「館長、刻限です」
博物館のスタッフからそう言われ、アンダーソンはわかった、と短く返事をして控室を出た。
呼び出しのスタッフはアンダーソンの顔を見ると、今にも泣き出してしまうんじゃないか、と思えるほど相好を崩した。
「そんな顔をするんじゃない」
「し、しかし……こんなことをすれば館長の立場が……」
急ピッチで今回の講演の準備を進めてくれた部下たちは、これから行われる講演の内容を知っている。これから博物館の館長が捏造された歴史の発見を語る準備をしていることを理解しているのだ。
準備を指示するにあたり、アンダーソンは職員たちには誰の指示であるか等の背景は多くは語らなかった。ただ、どういった形に転んでも職員たちには大きな被害は出ない、ということだけは強調した。加えて、万が一職員たちが問い詰められた際は、講演の内容に自分たちは一切関わっておらず、使う資料は全て館長一人で用意したものである、という証言をすることを誓わせていた。
当然、そんな暴挙を館長の意志で行うとは考えられず、その裏に男爵の影があることを職員たちも無言の内に察していた。察してしまったからこそ、彼らは自分たちの上司に何も言うことはできなかった。ただ、何も知らないふりをして、館長が立つ舞台を整えるしかなかった。
「大丈夫だ。何とかする」
アンダーソンは精いっぱいの空元気でそう答えた。
スタッフの肩をポンと叩き、アンダーソンの足はステージ袖へと向かった。頭の中では二日前にこのホールで貰った言葉がこだましていた。
「……どちらの決断の後を生きたい、か」
博物館を解雇され、行く当てもなく彷徨う失業者か、数々の重大資料の発掘を手掛けて華々しい論文や講演をして、学界や世間の注目を浴びる学者か、そう問われれば当然後者の方が良い、と誰もが答える。
だが、それが虚飾に塗れ、実際の事実と違うものを、ただ権力者たちに都合のいい情報を垂れ流すだけだとしたら、とアンダーソンは考える。
それならば――
俯いていた学者の目線が舞台袖にある演台へと注がれた。
暇を持て余していたグレンとセシルは昨日一日を街の中をセシルの装備などを整えることで消費することにした。買い出しがてら、グレンが小柄すぎるセシルを気遣ったのか、やたら食べ物屋ばかりを巡った気もしたが、食べた料理はどれもおいしかった。
朝食の席で顔を合わせた際、グレンは藪から棒に「今日は博物館に行くぞ」とセシルに告げた。
「アンダーソンさんの講演ですか」
「そうだ」
「意外ですね。そういうのちゃんと顔出されるんですか?」
のっそりとグレンは頷き、食いかけのパンを口に放り込んだ。
二人は時間に余裕を見て宿を出たのだが、二人が博物館に到着した時には既に会場である博物館はほぼ満席の状態であった。
グレンとセシルが会場の席に腰掛けることが出来たのは、講演開始の五分前であった。
壁際に立っていた係の者にグレンが何事かを耳打ちすると、係の者は特に驚くようなそぶりも見せず、二人を最前列から三列目の席へと案内した。席はちょうどステージ端に据えられた演壇の正面であり、内側ではなく通路側に面していた。そのおかげでグレンは既に着席済みの客を押し退けずに済んだ。
グレンは一人がけの椅子に腰かけたため窮屈そうにしていたが、体を半分近く通路側に飛び出させて解決した。二人がようやく落ち着いたあたりで、場内にベルの音が響き渡る。
客席の照明が落ち、スポットライトが演台を照らし出す。
すると、舞台袖から司会が現れ、演台の前と立ち開演前の挨拶を始めた。当たり障りのない前置きと講演中の注意事項を述べた後、講師紹介へと移った。
この時初めて、セシルたちはアンダーソンの経歴を知ることになった。
スタンリー・アンダーソンは帝国のある地方出身で貧しい家庭に生まれながらも高い才覚を示して、帝都のデュパール記念大学に奨学生として入学し、同大学考古・歴史学研究室に所属、博士号を取得。研究員として数年務めた中で、いくつかの研究論文を発表し、その功績が認められ帝国歴史学会の最年少会員として名を連ねた。その後、このハドリアンのウタカナ遺跡群の調査発掘の責任者として帝都から赴任し、今年で十年目となる。調査発掘の成果として博物館及び図書館が建てられ、その実績から三年前より博物館については館長を務めている。
そこまで紹介し、司会者は講師であるアンダーソンを呼び込んだ。
壇上に姿を現したアンダーソンは数日前のくたびれ、やつれた印象とは随分変わっていた。ぼさぼさの髪の毛を綺麗に撫で付け、よれた白衣ではなくきちんとした見栄えする濃紺のスーツに着替えていた。顔色はやや悪かったが、分厚いレンズの眼鏡を外すと、髪型も相まって堀の深い精悍な顔立ちが現れていた。
ちゃんとした姿をすれば、中々立派な人相になるではないか、等と失礼なことを思いながら、その姿にセシルは目を丸くした。
アンダーソンが演台の上にあるマイクの位置を調整して、話始めた。
「皆様、急なお知らせにも関わらず足をお運びいただき、大変ありがとうございます。ご紹介に預かりました館長のアンダーソンです。それでは早速ではありますが、今回の講演の題目を発表したいと思います。正面のスクリーンにご注目ください」
正面のスクリーンに文字が映し出された。
スクリーンの中央に『ウタカナ遺跡群から見える古代木工民族国家の興亡』と簡素な字体の文字が浮かぶ。
聴衆がその文字を読み終えるころを見計らってアンダーソンは話し始めた。これまでの研究で判明してきたこの遺跡の特色や謎などを軽妙な語り口で説明する。このハドリアンの地下には少なくとも三千年以上前の木造建築の遺跡が眠っており、出土する資料などからその遺跡がかつては巨大な国家であったこと。当時の地層を調査したところ木工民族の生活土壌としては貧弱な植生という土地柄が判明し、環境と生活の根底での矛盾が発見されたこと。それらを理路整然としながらも、聴衆を飽きさせない抑揚ある説明や、分かりやすい例の比較なども交えながら論じた。
満員のホールにはアンダーソンの声と異様に篭る聴衆の熱気が渦巻いていた。アンダーソンの説明が徐々に新たに判明した、と告知されていた部分に差し掛かってきたからである。
「……ここで、皆様のお目におかけしたいものがございます」
アンダーソンが舞台袖のスタッフに合図を送ると、上手から舞台の中央に台が運び込まれた。その台の上には古ぼけた木簡が一つ置いてある。
「……こちらの木簡は先日新たに発掘されたものです。書かれている内容を確認したところ、この木簡はこの遺跡群に存在した国家の歴史について記したものであることが判明いたしました」
ここでアンダーソンは不意に言葉を切った。
聴衆はアンダーソンの言葉を待っている。その木簡がどんな新しい事実を、どんな新しい発見を自分たちに教えてくれるのだろうか、と期待に胸を膨らませて耳をそば立てていた。
ところが、アンダーソンは何かをしゃべろうと口を開けたまま、しばらく沈黙をした。
「――皆さんは、こちらの木簡が本当に遺跡の中から発掘されたものに見えますでしょうか?」
やがて学者の口から静かにその言葉は流れ出た。
その瞬間、聴衆の息遣いすらなくなったかのようにホールは静まり返った。
「私は皆様にお詫びを申し上げねばなりません。本日皆様にお伝えすると言っていたことは……すべて嘘なのですから」
アンダーソンは聴衆を見据え、そう告白した。
「皆様の目の前にあるこの木簡は出土などしていません。真っ赤な偽物です。巧妙に細工されていますが、書かれている内容も捏造された偽りの記述であります」
アンダーソンの口調は淡々としている。
「皆様もご存じの通り、このハドリアンの街は観光業で成り立つ街です。しかし、近年の情勢悪化に伴い研究費が切り詰められ、研究の進み具合が悪くなり、観光客の減少も目立ち始めたこの状況を打開すべく考えたのが、この講演会でした。講演会で研究の重大発表を行い、それを観光資源の話題として経済振興を促すというのが狙いです」
みるみる内に会場の空気が冷たく張り詰めていくのがセシルには感じ取られた。突然の告白で聴衆の感情が希望から失望に変じていく。
「この企てに加担した時点で私の責任は免れません。今日、この時を以って職を辞したいと思います。しかし、その前にこの事態を企図し、私に指示した人物について告白したいと思います。その人物はこの講演会の主催者にして、この街の領主であるエックハルト男爵、その人です」
その一言で、一気に会場は火が付いたようにざわめき始めた。
聴衆は口々に今の発言の真偽を誰彼ともなく囁き、その声は無数に広がりホール全体に充満する。
囁きが会話に、会話が怒号に変化するまでにそれほどの時間は要さなかった。説明を求める声が一部の客席から挙がり始めた。
アンダーソンはその変化の様子を一瞬たりとも客席から目を離さずに見つめ、その声に応えた。
「私の話を信じられないと思う方も多いでしょう。たった今、捏造を行ったと告白した張本人ですから。私が男爵に責任転嫁をして罪を軽くさせようと考えているのだろう、と。そうお思いになられるのはむしろ自然です。しかし、私は一学問の徒として、先人の知恵と人生を詳らかにする学問に身を捧げた一人の人間として、このまま間違った、いや歪められた歴史を皆様にお教えする、ということに耐えられなかったのです」
アンダーソンの声は決して大きくはなかった。
しかし、その口調やまなざしには確かに学問と市民に対しての真摯な姿勢があった。
「――これは、随分とおかしなことを言うものですね、アンダーソン館長」
ホールに学者の者ではない声が響いた。
アンダーソンが立つ側とは反対の舞台袖に一人の男が現れた。
仕立ての良い礼服で整えられた口ひげを生やしたナマズのような顔をした小男であった。
闖入者の登場にアンダーソンの表情が険しくなる。
あれは誰だろうとセシルは思った。服装や佇まいがどことなく偉そうに見える。
口ひげの男が更に続けた。舞台袖で手に入れたのか手にはマイクが握られているため、その声はホール中に響く。
「どうも皆さん。領主のエックハルトです。それにしても驚きましたなぁ、館長たっての願いということで急遽開いた講演会でしたが、よもや公開での懺悔になろうとは」
エックハルトの声は粘り付く声質で、セシルは微妙に心がささくれ立つ様な感じを覚えた。
「とぼけないでいただきたい。総督閣下もご覧いただいているのです。素直に罪をお認めください」
アンダーソンははっきりとした口調で男爵を糾弾する。一方で男爵は不敵な薄ら笑いを浮かべ、
「罪? 先程から館長が何をおっしゃりたいのかよく分かりませんな。皆様、どうかこの男の言葉に耳を傾けないよう。この男はつい先ほど、皆様を騙そうとしていたことを自ら認めた詐欺師でございます」
「詐欺師? その言葉はそっくりそちらにお返ししましょう。目先の利権に目が眩み、歪んだやり方で街を動かそうとするあなたの方がよっぽど悪辣な詐欺師なのではありませんか?」
「では、どういった証拠があってそのような言いがかりをつけられるのですかな?」
男爵の詰め寄りに、学者は即答した。
「証拠はあります」
「……ほう、お伺いしましょう」
「四日前、あなたが私に指示した不正内容の一部始終を書き起こしました。それ以降の使いの者を通した間接的な指示も含めています」
アンダーソンは演題の上に広げた原稿の中から、証拠書類を男爵と聴衆に見えるように掲げた。
男爵はその紙を一笑に付した。
「ふははは、それが証拠と?」
「何がおかしいのです!」
「四日前? 四日前など私はあなたに会ってなどいませんよ? それになぜそれが、この私があなたに不正を行えと強要した証拠となるのですか? あなたが、私に罪を被せようと用意していた小道具にしか見えませんが?」
男爵が登壇してきた時点で、男爵の魂胆をアンダーソンは見透かしていた。公衆の面前で告発者であるアンダーソンをその場で犯罪者として裁き、大事になる前に処分することを狙うであろうことを。だから、アンダーソンとしては指示の内容や日時などを克明に記した書類を証拠として提出する用意があることをアピールすれば、男爵に握りつぶされる前に監査に来た総督が腰を上げるのでないかと期待したのだ。
お膳立ては充分だろう、とアンダーソンは思った。
もし、総督が動くとしたらこの時しかない。
アンダーソンは貴賓席を見上げた。
貴賓席ブースは幕が垂れており、中で人が動いている様子は見受けられない。
この時点で総督は動いていなかった。
この時、今日初めてアンダーソンの中に大きな衝撃が走った。
相手と同じく総督の動きを確認した男爵は勝利を確信したのか、口の端を大きく歪めて会心の笑みを浮かべた。
畳みかけるように男爵が声を挙げる。
「さァ、悪あがきもそのぐらいにしてもらうとしましょう。私を騙し、講演を開かせ、更にはハドリアンの民たちに自分の都合のいい歴史を講釈して注目と資金を集めようと画策した罪、きちんと償ってもらいましょう! 警備員、この調子づいた詐欺師を取り押さえなさい!」
勝利宣言とも言える号令によって、舞台袖からアンダーソンを拘束すべく警備員が現れた。
会場にいるすべての聴衆はそう思った。
しかし、新たに壇上に現れた男は警備員ではなかった。
その男は小奇麗な身なりの男であり、首の後ろで一つに結んだ長い茶髪を揺らしながら、アンダーソンを通り越し、丁度アンダーソンと男爵の間に割って入るような立ち位置で立ち止まった。
「お、お前は……」
「――書記官、何故ここに……」
男爵と学者の間に立ったバルディーニ書記官は人好きする笑みを浮かべたまま、手に持ったマイクで話し始めた。
「どうも皆さん。私、こちらのエックハルト男爵に仕える書記官のバルディーニと申します。お見知りおきを」
書記官はそう言って、客席に向かって一礼をした。その声は聴衆全体に聞こえるテノールであり、聞く人の耳に心地よい振動をもたらした。突然の登場や爽やかな表情、そして聞く者を惹き付ける声という特徴から、さながら舞台役者である。
「何だか演劇じみてきましたね」
そう感想を漏らしたセシルにグレンが驚きの事実を伝えた。
「あいつ、市場にいたスリ師だぞ」
「えッ⁉」
「――まったく……何がしたいんだ、アイツは」
グレンはため息交じりに呆れたように顔をしかめ、舞台上に視線を遣った。
その視線を書記官は得意げに受け取りながら、話を続ける。
「さて、私が恐れ多くも登壇いたしましたのは、皆様にお知らせしたいことがあってのことでございます」
「どういうつもりだ、書記官!」
怒りをあらわにする男爵に向けて、書記官はわざとらしく仰々しい仕種で告げる。
「一刻を争う事態です、男爵。時に男爵は先程、こちらの館長に対する指示内容の書類について、館長の捏造であると仰りたいように見受けられました」
「何ィ?」
「そう解釈されるのは、男爵の知見によりますから、それもよろしいでしょう。では、これはどのように解釈されますかな?」
書記官はこれ見よがしに一回指を鳴らした。
それが合図であったようで、会場に設置されたスピーカーからホール中にある音声が流れてきた。
『館長、君の学問への忠誠心には感服するがね、我々は真実が欲しい訳じゃないのだよ。重要なのは話題性なのだ。真実で客は来ないが、大きな話題は客を集める。つまり、そういうことだ』
『男爵。どうかご再考ください。この試みは単に証拠捏造という卑劣な犯罪である以上に、歴史という過去の人々が積み上げてきた営みと未来の人々に与えられるべき無形の財産に対する侮辱と汚損です。歴史学や考古学の大きな停滞や後退を招く要因になります』
『私は君の哲学を必要とはしていない。必要なのはそれらしく研究を発表する技術だけだ』
それは誰がどう聞いても、男爵が必死に諫めるアンダーソンに虚偽の歴史を発表することを強いる会話であった。
男爵の顔は音声が流れれば流れるほど、急速に青くなっていった。絶対的に有利な立場があっさりと崩れ去っていくのを男爵は黙って見ている訳にはいかず、ほとんど反射的に叫んでいた。
「やッ、止めろッ! こ、これは……これはッ何の真似だ、バルディーニ書記官! こ、こんな……こんなものは知らん! 私は知らない……そうだ! ね、捏造だ! これこそ捏造の音声だ! どうやって作ったのか知らないが、私と館長に似た声の人間に吹き込ませたホラ話だ!」
取り乱しながらも、男爵は完全には敗北したわけではなかった。混乱する頭をどうにか動かし、額に汗を掻きながら男爵は必死に思考した。
信頼していた書記官からの裏切りは痛打ではあったが致命傷と言う訳ではない。書記官が何を考えて裏切ったのかなんて知らないし、もはやそんなことはどうでもよいことだ。ここから挽回するにはあの
窮地においても、領主として街の運営を担ってきた男爵の目は自分が生き残る道をしぶとく見つけ出した。
しかし、男爵が反論するため口を開く前に、男爵の耳が書記官の声を先に捉えることとなった。
「……そうですか。男爵はそうお考えなのですね。ところで、話は変わりますが、館長の先程のお話は本当に作り話なのでしょうか? こちらの木簡は本当にさっきまで土の中にあったように見えますが?」
そう言って、書記官は自分の隣にある木簡を示した。
「歴史に無知な私などは、大変興味があります。果たしてこの木簡が木工民族国家の歴史について物語るのか、ね」
書記官の細められた深緑の目が妖しく光る。
「フンッ、そんなボロ切れに書かれた
男爵の指摘を受け、初めてバルディーニ書記官の笑みが変化した。それは人好きするような笑顔ではなく、罠にかかった獲物を嘲笑う捕食者の笑みであった。
その笑みを一瞬で元の微笑みに戻した書記官は続ける。
「おや? 奇妙なことをおっしゃいますね、男爵? あなたもこの講演の内容を詳しくはご存じではなかったはずです。どうして、こちらの木簡が
「――ッ⁉」
「ちなみに申し上げますが、男爵が館長と接触したのは今から三日前の総督をお招きしての晩餐会です。その場では確かに木簡についての報告がありましたが、その内容が年表であるという報告まではしていません。館長からの希望で後日領民に向けての講演会の中で詳しい発表をしたい、というお話だったからです」
そうだとすれば、男爵は総督への報告時に木簡の中身が年表であるとは知らなったことになる。
書記官は追撃の手を緩めなかった。
「男爵自身、先程四日前には館長にお会いしていない、とおっしゃいましたね。では、いつ知ったのか。それより前となると、そもそも男爵は別の街へ出張されておりましたから、接触するのは不可能です。五日以前から木簡の中身について知る機会は男爵には無いということになります。そうすると、晩餐会から後の三日間なのでしょうか。いえ、その期間男爵には総督府の監査対応がありました。役場の執務室を離れることはできません。また一方で館長も講演の準備で博物館を離れられなかったので、それも無理です」
書記官はここで一度言葉を切った。
この一瞬の間で民衆は先程の男爵の発言と書記官の発言をそれぞれの頭の中で噛み砕いて理解しようとした。その結果おぼろ気ではあるが、男爵の発言に大きな矛盾があることを理解したのである。四日前には会っていない、と男爵は言っているが、中身が年表であると知るためには不自然に予定が空いている四日前に知った、というのが自然なのではないか。
その矛盾に気づく時間を計算していたのか、民衆の顔に男爵に対する疑惑の目線が出始めたのを見計らったかのように、再び書記官は声を発した。
「――では、いつなのですか? いつ、男爵はこの木簡の中身が年表であるとお知りになられたのですか?」
書記官の声は決して大きくはない。
だが、もはや書記官の声を聞き逃す者はこのホールに一人たりともいなかった。
男爵は全身から冷や汗が噴き出すのを感じていた。ここで答えを間違えれば自分は破滅する。総督の目の前で自身の主導による不正が明らかになれば、終わりだ。
男爵は振り絞るような声で言った。
「……たった今だ。舞台袖にあった木簡の中身を見て、内容が年表であると……知ったのだ」
これであれば、矛盾にはならない。
我ながらいい返しだ、と男爵は心の中でせせら笑った。
男爵はアンダーソンの登壇前の様子を伝え聞いた段階で、不穏なものを感じ取っていた。だから、アンダーソンが登壇したタイミングで貴賓席から抜け出し、アンダーソンが立つ側とは反対の袖で待機していたのである。男爵が舞台袖に着いて間もなくして台に乗せられた木簡が舞台袖に持って来られたのだ。
正確に言えば男爵は舞台袖に置かれた木簡の中身を確認していたわけではない。しかし、その場に誰もいなかったのだから、自分が見た、と言えばそれを見ていない、と証明することは誰にもできない。簡単な理屈だ。証明できないなら言った者の勝ちだ、と男爵は計算したのである。
「そうでしたか、男爵も我慢できずに見てしまったのですね。それでは私も………おや?」
書記官はわざとらしく、首を捻って疑問を呈した。
「ああ、そうだ。私、ついうっかりしてしまいました」
そう言って書記官は木簡をホール中の全ての人間に見えるように開いた。
木簡には何も書かれていなかったのである。
その光景に誰もが息を呑んだ。
「私としたことが、全く関係ない、見た目だけ似た木簡を今回の資料として間違って手配してしまいました。男爵はこちらをご確認されたのですよね?」
勝負あり、とセシルは自然と笑みがこぼれた。
今度は男爵が詰め寄られる番であった。
「何も書かれていない木簡を見て、どうしてこれが年表の記された木簡であるとお分かりになるのでしょう? 是非、納得のいく説明をいただきたいですが?」
「……ぐぬぬっ、クソッ!」
男爵は喉奥に物が詰まったように、食いしばった歯の間から悪態を出すだけであった。
「お認めいただけますか、木簡の中身について知っていたことを」
「……いいだろう、木簡の中身については、確かに私は事前に知っていたとも。だが、いつどこで知ったのか、ということは記憶にない。それにだ、木簡の中身が年表であるということを知っていたところで、私が館長に何をしたというのかね?」
「この期に及んで、自身の負けをお認めにならないのは、粘り強いというより、むしろただの駄々っ子のようなものですよ」
書記官はやれやれと肩をすくめるような仕種で言った。
「黙れッ! 詐術紛いの方法で私から失言を引き出した程度でいい気になるなよ、青二才ッ!」
「あなたが、私を何と思おうがあなたの自由ですが、この方々はあなたの一切の自由について、多少思うところがあるようです」
「なんだ……と」
挑発するかのような書記官の態度に食って掛かろうとした男爵は、己の両脇を固めるように現れた制服の男たちの姿に面食らい、言葉尻がすぼまってしまった。
そして、最後の登壇者がステージに現れた。
その男は聴衆や他の登壇者など誰も見えていないかのように、男爵の目の前まで歩いてきた。男爵の両脇に現れた屈強な男たちと同じ制服を着用し、ぴったりと撫で付けられた髪と二枚貝のように固く閉じられた口の形が見るからに厳格な印象を与える。
男は貝のような口を開き、無感情な声で告げた。
「ハドリアン領主、ヴィルマー・G・エックハルト男爵。これより卿を抑留する。罪状は脅迫・強要罪・贈収賄・横領・脱税・公文書偽造・特別背任、他7つの罪状の容疑である。今すぐ弁護士を呼ぶか?」
「な、なんだと⁉ 脅迫、強要は百歩譲って分るが……他の罪状は一体何なのだッ⁉」
「卿の私邸及び役場の執務室より、先程述べた容疑に関係したと思しき証拠品が見つかったのだ。詳細を本人から聴取する必要がある、と監査局が判断した。手法は巧妙だったかもしれないが、人を見る目は無いようだ」
男の発言に男爵は恨めしそうに若い書記官を睨みつける。
書記官は涼しいすまし顔でそれを受けた。
「き、貴様は何者なのだッ! 最初からこれが目的で私に近づいたのか?」
男爵の問いに書記官はにっこりと笑顔で答えた。
「はい、その通りです男爵」
男爵の顔が驚愕に歪んだ。
その様子を横目で見た書記官は改めて聴衆に向けて己の素性を明かした。
「館長に続きまして、私も皆様に謝らなくてはなりません。私、男爵に仕える書記官と名乗りました。しかし、これは嘘です。大変申し訳ありません。私の本当の職は総督府監査局内部調査室付臨時監査官といいます。長いので正確に覚えて頂かなくとも大丈夫ですよ。要は、私はこちらの男爵の内部調査を担当した総督府の監査官、とだけ思ってください」
「彼は卿の内情を探るために監査局が放った潜入監査官だ。彼を使って色々と好き放題やっていたようだが、それらもすべて我々に筒抜けだった、ということだ」
男爵は何かを言おうと口を開きかけたが、それは声にならず酸欠の魚のようにパクパクと動かすだけであり、やがて己の負けを悟ったのか、がっくりと項垂れた。
「連れていけ」
制服の男の合図で男爵の両脇の男たちは力の抜けた男爵の体を抱えるようにして、舞台袖から捌けていった。
制服の男は書記官とは違い、特に聴衆に説明や挨拶などもせず男爵が捌けた方向と同じ袖に引っ込んでしまった。
こうして、舞台には館長と書記官の二人だけが残る形となった。
会場はすっかり熱を失い、白けた雰囲気が満ちていた。
講演会だと聞かされて集まったが、目の前で繰り広げられたのは学者の不正の告白から突然現れた男爵の糾弾と書記官の逆追及、そして結末は男爵の連行である。
どのような着地点をこの臨時監査官の青年は思い描いているのだろうか、とセシルは訝しんだ。こんな急展開に次ぐ急展開で集まった聴衆を放るような形であっさりと幕引きとなれば、反発は必至であろう、と思ったのだ。
しかし、セシルの思いとは裏腹に講演会は臨時監査官の手によって、しっかりと幕を下ろされたのである。
「――皆様におかれましては、このような事態を目撃されるのは不本意であり、不快であったかと存じます。私どもとしましても、このような形で皆様の街の領主を連行するなどという事態は避けたいところでありました」
バルディーニの声は沈んでいた。
登壇して初めて、得意げな若者の表情は沈痛な面持ちとなり、その豊かなテノールの声は、海の底に沈んだような声音となった。そうして、書記官は聴衆に向けて今回の監査の真実を語り始めた。
「男爵の職務に疑義が生じていたにも関わらず、その決定的な証拠を掴むに至っていなかったことは我々の落ち度であります。皆様に対して何の申し開きようもありません。だからこそ、今回はこのような非常時の手段で対応させていただいたのであります」
淡々とではあるが、この場にいる一人一人に聴かせるように美しい声の説明が続く。
「通常の方法では男爵の不正を暴くことができないと考えた我々は男爵に対し所謂、囮捜査というものを仕掛けました。それが男爵付き書記官である私です。しかし、私一人だけの力ではこの闇を暴くには力不足でした。そこで、こちらのアンダーソン館長のお力をお借りしたのです」
バルディーニ臨時監査官の登場から舞台袖の装飾と化していたアンダーソンは突然話題に出され、おそらく会場にいる誰よりも内心で驚いた。
先程からの展開には聴衆と同じくアンダーソンもほとんど着いて行けていない。しかし、話を聞く限りこのバルディー二という青年は どうやら最初から自分ではなく男爵を標的として暗躍していたらしい、ということは理解できた。自分をダシに使って男爵を炙り出す腹だったようだが、その役目も終わった今になり何をしようというのか、そこがアンダーソンの得心いかぬ部分である。
アンダーソンが反応する前にバルディーニが更に説明を続けた。
「アンダーソン館長にお願いしたのは、もし男爵から脅迫・強要めいたものを受けた時には、それを受け入れたフリをして男爵の油断を誘っていただく、というものでした。これは大変な危険が伴います。事実、館長はこのように公の場で自身の研究に泥を塗るような事をしなくてはならなくなりました。先程館長が全ての職を辞すると仰ったのも、皇帝陛下の代理人たる総督閣下のご指示とは言え、自身が信奉する学問とそれを享受すべき皆様を裏切らなくてはならない、という強い自責の念から発言されたことと、お察しします。そうですね、館長?」
この時アンダーソンはバルディーニの意図を察した。
察することはできたが、何と答えるべきか咄嗟に判断がつかなかった。
まごまごとアンダーソンが言葉を探しているうちにバルディーニはその沈黙を諾として処理してしまった。
「いやはや、相当に決意が固いようです。ですが、元を
バルディーニの説明、というより演説に近いものであったが、この説明により聴衆は完全にアンダーソンに同情を寄せ、男爵を憎むべき悪代官として認識した。
一人、二人と壇上の二人を称えるように拍手が起きる。
やがてそれは夏の夕立のようにホール中が割れんばかりに膨れ上がった。誰彼ともなく、館長や臨時監査官を褒め称える歓声が巻き起こった。
「いかがでしょう館長。ここはどうか、この皆様の拍手によってお気持ちを翻意してはいただけないでしょうか?」
そう言って振り返った臨時監査官の満面の笑みに有無を言わさぬ凄味を感じ取ったアンダーソンは頷くより他になかった。
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