5 それぞれの思惑

 次の日は、昨日と同様に空は抜けるような秋晴れであり、外出日和であった。昨夜、食堂で出された芋の揚げ物をつまみながらグレンとセシルは事態を打開できない以上、素直に観光客になったほうが良い、と決めて、翌日から詳しく街の中を見て回ることにした。


 セシルが身支度を整えて宿の待合室に顔を出すと、グレンは新聞片手にコーヒーを飲んでいた。椅子はグレンの巨体を支えるのに苦労しているようだが、当のグレンは平然かつ器用に自分の尻の面積よりはるかに小さな椅子に腰かけている。


 その様子が面白く見えたセシルは吹き出しそうになるのをこらえつつ、グレンに挨拶をした。


「……おはようございます」

「おはよう」


 グレンは横目で一瞬セシルを確認すると、残りのコーヒーを飲み干し、椅子から立ち上がった。


「じゃあ、行くか」


 はい、とセシルが頷きグレンの後について宿を出た。


 二人が今日行こうとしていたのは市場である。


 街の東にある市場は大通りを中心として、その両脇に食料、衣類、生活用品、資材など様々な物を売る店が軒を連ね、多くの人が行きかっていた。街の入り口にある大通りと似ていたが、こちらのほうが、地元客が多いのか、店員と客が世間話で話し込んでいたり、店番が椅子に座って眠り込んでいたり、という日常的な光景をセシルは目撃した。


 花き市場へと差し掛かると、二人は観光客の一段と出くわした。塊となって動く観光客たちは通行の邪魔であり、観光客を追い越そうとする人々が更に群がるような状態で、とても混雑している。


「あっ」


 雑踏や喧噪でかき消されてしまうほど小さな声を上げたセシルは観光客の向こう側から現れた人物を見つめている。


 観光客たちの間を縫うようにして現れた人物はそのまま早くも遅くもない足取りでセシルたちの来た方向へと去って行ってしまった。


 スリだ、とセシルは気づいた。


 観光客の間を縫って現れた人物は、店頭に置いてある商品に夢中の観光客の後ろから忍び寄り、一瞬の早業で客の荷物から財布や小物を失敬していた。


 人混みが多く、声や物音でうるさいこの市場ではスリのようなコソ泥も動きやすい。しかし、そのコソ泥の巣窟ような場所で生きてきたセシルの眼には、はっきりと若い男が観光客から盗みを働いている場面が映ったのである。セシルの見立てでは今の茶髪のスリ師の腕前は大したものではない。技は早いが、ちょっと目立ちすぎだ。自分たちの側から見れば丸見えである。仕掛け時を誤っている時点で、素人に毛が生えた程度だ。しかも、スリ師は盗んだ物を懐ではなく、外套についているポケットにそのまま滑り込ませている。


 この時、セシルの頭の中では一瞬、二つの相反する考えがよぎった。つまり、スリ師を懲らしめるか否かである。


 セシルは決して自分を善人などとは思っていない。殺人や傷害には及んでいないが、生きるために人様に言えないようなことも幾度となくしてきた。だから、目の前で困った人間がいても自分なら関わり合いがなければ、放っておく。相手が困っても自分には何ら害がないのだから、関わるほうがかえって損だ。見ず知らずの誰かに関わっている余裕など、セシルには無かった。さらに言えば、ここで自分が何か騒ぎ立てて目立つと、総督軍に気づかれる恐れもある。理由は分からないがグレンは総督軍と関わりになることを避けているようだ。グレンの仲間としては、グレンの不利になりそうな立ち振る舞いは避けるべきだろう。


 また、一方でこれまでのグレンとの関わりを考えると、何か一つぐらいは取り柄があるところも見せておきたい、と欲が出てしまうのだ。それと言うのも今までグレンの役に立てた記憶がなかった故である。少しは自分も物の役に立つ、というところをグレンに見せたかったのだ。


 そんな少女の葛藤を見透かしたのか、灰色の大男はセシルにだけ聞こえるほどの小さな声で呟いた。


「――気づいたか?」


 はっ、としたようにセシルはグレンを見上げる。


 肌の色と同じ虹彩はセシルを引き留めようとはしていなかった。

 その時、セシルの腹は決まり、グレンに傍を離れることを伝えて、スリ師を追うために来た道へと足を向けた。


 店の裏道などを通って、スリ師の先へと回り込んだセシルは標的を確認する。百メートル先ぐらいに、茶髪の男が時々後ろをチラチラ見て、こちらに向けて歩いて来る姿が見えた。


 セシルはちょうど立ち話をしている店員と客の二人組の前で品物を物色するようにして、スリ師を待ち構える。


 スリ師が丁度二人組の脇を通り抜けるのと同じタイミングで、セシルは二人組の陰から飛び出した。


 突然人の陰から現れた通行人に驚いたスリ師は一瞬、身を固めた。セシルもぶつかりそうになった通行人を装い、驚いたフリをしながらその脇を通り抜ける。


 しっかりと、その手に握りしめた獲物を外套の下に隠しながら。


 スリ師の脇を間一髪で体を捻って通り抜けた風を装ったセシルは歩調を崩さず、歩き続けた。小柄な体格で目立たない風貌の少女の姿は瞬く間に雑踏の中へと溶け込んでしまった。


 その様子をセシルの後ろ側から眺めていたグレンはスリ師の様子を確認した。


 セシルにスリをし返された、と思ってもいない表情でその男はグレンの近くまでやってきた。そのまま、グレンの横を通りすぎるのかと思われたが、男の手から小銭が零れ落ちた。


 小銭はコロコロと地面を転がり、ちょうどグレンのブーツに当たって止まった。他の小銭を拾い上げた男はグレンの足元にある小銭を見つけて取ろうと近寄ってくる。


 グレンが半歩ほど下がろうとしたとき、男の後ろにあった荷車が突然動き出し、屈みかけた男の腰を突き飛ばした。男はつんのめって踏ん張ろうとしたが、踏ん張り切れず勢いよく、グレンめがけて倒れ込んだ。


 しかし、グレンは男が倒れ込んでくる分の距離も瞬時に判断して少し歩幅を大きめにして一歩下がっていた。そのおかげで、男の手はグレンに届かず宙をむなしく搔き、地面へと吸い込まれた。


 地面に這いつくばった衝撃で男が拾上げた小銭はまたしても飛び散ってしまい、体を起こした男はバツが悪そうに飛び散った小銭を再び拾い上げる作業に従事した。


 全ての小銭を拾上げた男はそのままグレンの脇をすり抜けて、市場の外へと向かっていった。


 その姿が遠ざかるにつれ、グレンは何か得体のしれない違和感が自分の中で増幅するのを感じていた。


 まさか、と思いグレンは自分の旅装の中身を確かめる。


「グレンさん!」


 グレンが自分の旅装の中で起きた重大な事態を把握するのと成果を報告するために戻ってきたセシルがグレンに声を掛けるのは同時であった。


「セシル、大丈夫だったか?」

「はい、ちゃんとやり返しましたよ。ほら」


 そう言って、セシルは男が観光客から盗んだ小箱を見せた。指輪やイヤリングなどの小さなアクセサリーを入れるような箱である。


「開けてみろ」

「え?」

「いいから開けてみろ」


 グレンの声は心なしか鋭い。


 セシルが小箱を開ける。


 中には指輪もイヤリングもなく、花開く前の白いバラのつぼみが一つ入っているだけだった。


「あッ!」


 更に、そのバラのつぼみにはポップな字体で「ハズレ」と記されたカードが差し込まれていた。


 衝撃に目を見開くセシルにグレンが告げた。


「相手の方が上手だったようだな」

「そ、そんな……」


 セシルはがっくりと肩を落とした。 


「スリし返されるってどこで気づいていたんだろう?」

「最初からだろ」

「え、じゃあ最初から私たちに見せていたってことですか?」

「そうじゃなきゃ、こうはならんだろう」


 グレンがバラの入った小箱を指す。


「そういうこともある。そうあることじゃないが、たまにああいう厄介な役者がいる」

「せっかく、グレンさんに私のいいとこ見せられるチャンスだったのに……」


 そう心の底から悔しそうに言って、セシルは更に大きくため息をついた。見るからに落ち込んでおり、先ほどまでのやる気に満ちた表情は空気を抜かれた風船のように萎れ、どんよりと疲れ切った表情になっている。


「まァ、引きずらないことだ。うまいものでも食って忘れるんだな。ほらそこの屋台の串焼きを買ってやる」


 セシルは拗ねた目でグレンをちょっと睨み、「子供扱いしないでください」と言ったが、グレンが与えた熱々の牛肉の串焼きを頬張っているうちに気持ちが多少収まったのか、眉間に寄せられた皺が幾分か緩くなった。


 それから二人は市場を離れ、役場前広場に面した喫茶店で一息入れ、午後は再び博物館へと向かった。一昨日では回ることが出来なかった、残りの区画を見て回るためである。二人は発掘された資料の展示室や研究をまとめた映像を流す映写室などを回った。特に展示室は非常に広く、三フロアに跨るほどの資料展示が延々と続いている。順路を回りきる頃には足が棒のようになり、すっかりセシルはくたびれてしまった。座る場所を求めて博物館の中をさまよっていると、二人は一階で大量の椅子を発見したので、さっさと歩くことを放棄して座面に沈み込んだ。


 その大量の椅子が置いてあったのは展示室に隣接するホールであった。二階席まで用意されている本格的な大ホールで、先ほどまで何か催し事をしていたらしく、正面のステージでは演台や音響機材、横断幕を片付ける作業を行うスタッフたちがせわしくなく動き回っていた。


 観客席には自分たち以外に人はいないと思っていたのだが、通路を挟んだ反対側に一人座っている人物がいることにセシルは気づいた。


 その人物は一昨日、この博物館で出会った白衣の男――アンダーソンであった。


 セシルの視線に気づいたのか、男が声を発した。


「……あぁ、これは一昨日のお客様方」


 その声は再会を喜ぶような響きではなく、単に記憶の中にある人物録にラベリングされている名称を読み上げているだけ、というような力のない声だった。表情の変化も乏しく、疲れているように見える。一昨日初めて出会った時に見た迸るような熱気は見る影も無かった。


 グレンと話していた姿とは打って変わった様子にセシルは少なからぬ困惑を抱いた。


「アンダーソンさん、どうかされたんですか? なんだか、とても疲れているご様子ですが」


「いや……まぁ、ちょっとここ数日、急に忙しくなりましてね。歳なのか、徹夜が体に堪えるようになりました」


 アンダーソンの口から乾いた笑いがこぼれた。


 アンダーソンのくたびれた白衣は更に皺を増やし、まとまりのなかった髪の毛も余計に無秩序さに磨きをかけていた。


「お二人は、街に閉じ込められたクチですか?」

「ええ、まさかたどりついた次の日に監査日とは思いませんでした。ツイてないってやつですね。そういえば、こちらの博物館には監査は入らないんでしょうか?」

「いえ、監査は入らないですね。そもそも監査ってやつは領主の領地運営についてのチェックですから、こっちの業務までいちいち見るほど監査局の連中は暇じゃありませんよ」

「……業務に口を出さなくとも、博物館は領主が領民の教育に資するために設置した施設、という位置づけじゃないのか? だとしたら、何等か監査官たちに見られると思うんだが……」


 グレンの疑問に、白衣の男は一昨日に引き続き驚かされたのか、かすかに目を瞠った。


「あなたは本当によくご存じですね。もちろんおっしゃる通り、この街の博物館はそういう位置づけですから、経理簿やら研究紀要やらは提出してます。しかし、その程度です。監査官を出迎えて、あれやこれやと質問攻めにされるようなことはないですよ」

「監査はもう終わりそうなのか?」

「そうですね。明日には終わるかと思います。総督が監査局の連中をまるごと連れてきたらしく、すごい速さで検査してましたよ」

「えらい気合の入りようだな。される側も大変だろうに」


 グレンは意外そうな口ぶりで言った。


「領主側には事前に通告があったみたいだったので、それほど混乱はなかったようです」

「じゃあ、明日には封鎖が解かれるのか?」


 グレンの問いにアンダーソンは一瞬、言葉を詰まらせた。


「……いえ、封鎖は三日後から解かれるようです」

「明後日に総督は帰るんじゃないのか?」

「総督は三日後、お帰りになられます」

「総督は仕事が終わって、のんびり観光ができるほど暇な身分じゃない。監査を終えたその足でとはならんだろうが、その次の日には引き上げるもんじゃないのか? 視察のような業務がないとしたら、この街に留まる理由がないはずだ。二日後に何かあるのか?」


 グレンの指摘は寸分の狂いもなく、アンダーソンの心臓に透明なナイフを突き立てた。アンダーソンは自分の内臓が冷たくなるのを感じながら沈痛とも言える声で答えた。


「……明後日、このホールである講演を行います。総督はその講演をご覧になられるために、一日滞在を伸ばすとおっしゃったのです」


 フードの奥からグレンはアンダーソンの表情を見つめる。


「……その発表ってのは、あんたがするようだな?」

「ええ」


 アンダーソンはそう言って、言葉を切った。


「正直、その講演を行うのは気が進まないのです。いえ、できることなら私は講演をしたくはない」

「講演をしないといけない事情があるんでしょうか?」


 セシルの質問にアンダーソンは力なく笑った。


 アンダーソンはその問いにしばらく沈黙した。しゃべろうとしている一つ一つの言葉を慎重に選んでいるようだ。


「……例えばですが、生きるための糧を自分の好きなことや大切にしていることで得ている者がいたとして、その糧を提供している者から、理不尽な要求を突き付けられたとします。それは今まで自分が大切にしていたものに泥を塗るような行為です。それをしなくては、もう糧はやらないぞ、とこう迫られる。当然、好きなことや大切にしていることは守りたい。しかし、そういうことが出来るのはそもそも毎日の生活に困っていない、ということが前提条件です。今日食べる物も覚束ないのに、好きなことをやるというわけにはいかないでしょう。その前提条件を崩されるとなっては、最早要求を受け入れるしかないのか、と」


 アンダーソンは自分自身に問いかけるように、静かに話した。


 セシルはその問いについて考えてみる。


 その日暮らしで生きてきたセシルにとって、飯にありつけるなら大抵のことには目をつぶれる。努めていたことと言えば、自分の身体を触らせたり、誰かを物理的に傷つけたりするようなことを避けていた、という程度だ。しかもそれは信念だとか、矜持だとかというご立派な理由ではなく、単にそれらに手を出した者の末路を間近で見てきた恐怖からだった。


 セシルにとって毎日を生きるということは、それだけで必死なことだった。きっと、自分の好きなことをして暮らしていける、というのは幸運なことなのだろう。そう思うと、アンダーソンの悩みは所謂いわゆる、贅沢な悩みと世間が言うやつなのかもしれない。順当に考えるならばアンダーソンの判断が正しいように思える。自分であれば迷うことなく、日々の糧を守るためその泥を塗りこむだろう。


 でも、とセシルは逡巡した。


 この白衣の男にとって、その泥を塗るという行為は本当に耐えがたい行いなのだろう、とも思ったのだ。短い期間だが、グレンと話をしている姿はとても溌剌はつらつとしており、グレンの疑問や意見について真摯に、かつ嬉しそうに答える姿はなんだかセシルにはちょっとまぶしく見えた。きっと、歴史や考古に思いを馳せて研究にふけっている時こそ、この男は無上の喜びや幸福を感じるのではないだろうか。


 そんな人間にとっては、この問いは単純だが深刻な問題なのかもしれない、とセシルは気づいたのである。


「そう思うのなら、そうしたらいいじゃないか」


 セシルが思いあぐねて、うまく言葉が見つからない中、隣に座る大きな男がごく自然に答えた。


「どうするか、なんてのはあんたの自由だ。日常を守るためにあんたの好きなことを売ってしまうのも、好きなものを守るために日常を手放してしまうのも、な。ただ……」

「選んだ後にどちらの方が、よりあんたは納得できる?」

「納得?」


 その問いは今までアンダーソンが考えたことのないものだった。


「あんたにとっちゃ大きな問題だろうが、その決断が終わった後もあんたは生きていくんだろう? だったら、どっちの決断の後をあんたは生きていたいんだ?」

「決断の後……」

「好きなものを売り払い、日常を守って罪悪感と閉塞感の中で生きていくか、日常を手放し、日々の寝食に悩まされながらも自分の好きなことに邁進していくのか。あんたはどっちの現実が納得できる?」

「わ、私は……」


 その問いについても、アンダーソンは即答できなかった。


 口ごもるアンダーソンではなく、スタッフが動き回るステージを見つめながらグレンは言った。


「目を覆いたくなるような現実しか待っていなくても、その先をあんたは歩いていくんだ。だったら、せいぜい自分が納得できる道を歩くしかない、と俺は思うがね」


 グレンはその大きな体を椅子から立ち上がらせる。


 そのままセシルの方を振り向き、出口へと視線を走らせた。


 これは退出を促しているのだろう、と察したセシルは茫然としているアンダーソンを置いて、グレンの背を追ってホールの出口へと向かった。


 博物館を出ると、空は薄紫色に染まり、街灯が点き始める頃合いであった。家々からは今夜の献立を用意する香ばしい匂いが漂っていた。その匂いに腹の虫を刺激されたのか、昨夜とは反対にグレンがセシルを夕食へ誘った。


 十分に腹を満たすと、次に起こる欲として正常なのは睡眠である。午前中の市場での出来事のこともあり、セシルは早めに床に就くことをグレンに告げ、挨拶してからセシルはベッドに潜り込みぐっすりと寝付いた。


 セシルと対照的にグレンはそのまま睡眠を貪ることはしなかった。隣の部屋の灯りが消え、隣人の寝息が聞こえてくるのを研ぎ澄まされた聴力で確認すると、静かにグレンは宿を出た。




 時を少し遡り、二人がすっかり行き付けになった大衆食堂で舌鼓を打っている時、同じように食事をしている人物がいた。


 ハドリアン領主のエックハルト男爵である。


 豪勢な料理を口にしながらも男爵の顔は渋面であった。


 現在、役場は総督府の監査官たちによって監査が進められていた。だが、感情が欠落しているような監査官たちからの質問攻めに合って辟易していたのではない。そんなものは役人たちの仕事であって、男爵が逐一対応しているわけではないのだ。


 では、何が彼の機嫌を悪くしているのかと言えば、それは昨日の総督を招いての晩餐会での出来事であった。


 主賓を招いての晩餐会というのは、普通は行事が終わった最後にささやかに開かれるものである。しかし総督は次の予定が詰まっており監査が終わり次第すぐに街を離れるというので、異例ではあったが総督を迎え入れたその日に行うことにしたのだ。


 晩餐会には男爵と総督の他に、総督府側は監査局と総督の護衛を務める軍、それぞれの幹部数名が出席し、男爵側は書記官を含めた数人の腹心たちを出席させた。もちろん、打ち合わせをした通りにその場にはアンダーソンの姿もあった。


 慎重な男爵は、アンダーソンの出席は本人の希望であることと、遺跡研究における重大な報告事項があることを学者の口から語らせた。あくまでも男爵はその場を善意で設けただけで、発見そのものについては特に詳しくは聞いていない、というスタンスを総督側に見せておくためだった。万が一、企みが総督側に露見した時に言い逃れが出来るようにという対応である。


 男爵はアンダーソンの動きにはよく目を光らせ、監視していた。万が一にも書記官が危惧するような総督への直訴などをされては面倒になる。しかし、アンダーソンはそのような素振りを一切せず、予定通りの内容を総督に報告した。


「素晴らしい成果だ、アンダーソン館長」


 隻眼の若い総督は提出された報告書を読みながら、晴れやかな声でそう言った。


 それを聴いた瞬間、男爵は自分の口がほくそ笑むのを抑えられなかった。これでまた自分に有利な展開が開けると思ったのだ。これを目玉にして更なる観光開発に力を入れれば、もっとこの街に金を落とさせることが出来る。そうなれば、街の財政も自分の懐も潤うことになる。


 この計画が成功した暁には更に様々なをアンダーソンにしてもらうつもりであった。内乱や王家の婚姻など、膨らませるネタには事欠かない。新しく雇った書記官は実に良い働きをする、と男爵は得意げに思った。


 ところが、この男爵の得意げな顔は次に発せられた総督の言葉に固く引きつることになる。


「この素晴らしい成果はすぐにでも領民に知らせた方がいい。卿も早く詳細な内容を知りたいだろう?」


 咄嗟に男爵は当たり障りのない言葉で、話題を流そうとした。


「ははは、確かに驚くべき発見と聞いておりますので、私もすぐに街の皆と共に知りたいと思っておりますが……街の皆に公式に発表するというには少々準備が不足しているかと」

「そうかな? 館長の報告は非常に解りやすく、門外漢の私でもワクワクしてしまうほどだ。論も証拠も充実しているのなら、このまま講演しても十分、耐えられる内容のように感じるが?」


 なまじアンダーソンの報告がほぼ講演の内容として使えるに耐え得るものであったことが、男爵の退路を塞いでしまったのだ。こうなってしまうと、男爵としても断る理由が見つけられず、総督の思い付きで講演が三日後とその場で決まってしまった。


 この展開には流石のアンダーソンも口を挟まずにはいられなかった。


「お、お待ちください総督。お褒めいただいたのは光栄でありますが、三日後に講演と言われましても……第一、それほど急な日程で集客ができるのかどうか、疑わしいのではないでしょうか?」

「集客に関しては問題無いのでは? 監査期間中、街の中では催し事が多く開かれるが、監査明けの三日後は私が出発するまでは街の封鎖が解けない。ということは、私が一日滞在を伸ばせば、その間住民たちにも時間ができる。急な話だが、ことウタカナ遺跡の研究発表と聞けば、住民たちも無視はすまい」

「か、閣下もご覧になられるというのですか?」


 男爵は内心の動揺を努めて冷静に装いつつ、総督に尋ねた。


「私が言い出した、という理由もあるが……実は次に予定していたことが立ち消えとなってしまったこともある。つまり慌てて帰る必要が無くなってしまったのだ。あぁ、滞在費などはこちらで負担するから、そのあたりの心配は無用だ、男爵」


 男爵の心配を先回りして潰したつもりなのだろうが、男爵としては別の部分で自身の思惑がずれ始めることに懸念が募るところであった。


 これほど早くに領民たちに成果を報告するつもりは無かった。もっと帝都や周辺都市の有力者たちに頭出しをしておきたかったのだ。そうして関心を引き付けつつ、注目度も十分に高まったところで大々的に発表するのが理想だ。今の段階で民間のレベルに確定の情報を流せば、民間側に主導権を握られかねない。それだと旨味が減るではないか。そう考えた男爵は歯噛みしたい気持ちをグラスに注がれたワインを飲み干して、腹の底に押し込んだ。


 そんな男爵の思惑など知りもしない総督は、男爵を他所に今回の素晴らしい報告を行ったアンダーソンを労った。


「それにしても、これほどの報告をまとめるとなれば、相当な苦労をしたことだろう。発掘も調査も一朝一夕とはいかないだろうし、細かな資料の比較や検討ともなれば気の遠くなる作業だ。こればかりは単純に労働力を増やせば進むという問題でもあるまい。去年の年次報告からよくぞ一人でここまで進められた。感嘆するばかりだ」


 恐縮しながら礼を述べつつ、アンダーソンは学者らしく一点の修正を付け加えた。


「私一人の力ではありません。閣下がおっしゃった様に遺跡の研究にはたくさんのスタッフたちが関わっております。私一人でこの報告をまとめるとなれば十年あっても足りません。現場で土と岩を掘り起こす作業員や研究室で書籍と遺物に押し潰されそうになる学芸員たち。そういった人々が有機的に結合したチームとして円滑に働いて、初めて研究というものは進むのです。私がやったことと言えば、研究全体の組み立てと各作業の進捗状況の管理、そして幾許かの過去への推察です。ああ、もちろん報告にある内容そのものは私の頭から出たものでありますが……」


 総督は拳で頬杖を突いた姿勢で、その一つしかない鳶色の瞳をアンダーソンに投げかけていた。


「……館長は良識に富んでいる。それでは部下の働きが無ければこの報告もできなかった、とそう言いたいのかな?」

「ええ、彼らがいなければ、決してなしえなかったと自負しております」


 アンダーソンは断言するような強めの口調だった。


 その一方で男爵の顔は益々苦みが広がっていた。


 気取られないように、アンダーソンの顔をちらっと確認した男爵は、そのはっとした表情から自分の手札が一枚失われたことを確信した。


 若造が余計な真似を、と男爵は総督を声に出さずに罵った。


 真面目で歴史バカのアンダーソンは博物館のスタッフたちの処遇を盾にとれば要求を飲まざるを得ないだろうと男爵は踏んでいた。処遇と言う盾が実際に使えるのかどうかは問題ではない。アンダーソンが盾として認識するかどうかが重要なのだ。実際に盾を使う場面が来なくても、アンダーソンが勝手にスタッフたちを盾に取られていると思い込んでいれば、アンダーソンに要求を飲ませるのは簡単な話だったのだ。ところが、この総督はスタッフたちの替えが利かない、ということをアンダーソンに丁寧に教えてくれた。男爵が盾として使おうにも、実際にそれはできないということをアンダーソンは理解してしまったのだ。


 男爵の渋面の原因はこのやり取りであった。


 今思い返しても、本当にあの総督はいらないことをしてくれた、と怒りが湧く。思わず食卓に拳を叩き付けそうになったが、振り上げた手はそのままグラスへと伸ばされた。


 まあ良いだろう、と男爵はその怒りを一旦忘れることにした。

当初の計画からは変更されてしまうが、講演を終えてしまえば実績として今回の発見が世に出る。そうなれば金の流れはもう止められないだろう。アンダーソンの動きについてもスタッフたちを盾にとまではいかなかったが、妙な動きをするようなら用済みになり次第始末してしまえばよい。それまでは書記官や部下たちを使って監視と圧力を強めて動きを封じる。それで問題無いだろう。


 そう結論付けて、男爵はテーブルの呼び鈴を鳴らした。


 隣室に控えていた茶髪の書記官が即座に現れた。


「お呼びですか男爵?」

「バルディーニ書記官、明後日の講演の準備は滞りなさそうか?」


 書記官は丁寧な物腰で答えた。


「大わらわと言った有様ですが、博物館のホールの準備は進んでいるようです。講演の内容については総督への報告内容から考えても問題ないかと思われますが?」

「当日までアンダーソンから目を離すな。ヤツに妙な動きをさせてはならん。それから当日の警備の中に私の私兵を紛れ込ませておけ。講演が終了次第、博物館の館長を解任する」


 冷静沈着な書記官もこの言葉には色めき立った。


「よろしいのですか? そのような急な人事を」

「処理としては栄転だ。帝都の博物館にでも行かせるようにする。実際に帝都に戻れるかどうかなど私は知らん」


 なるほど、と書記官は男爵の言わんとすることを理解したようだった。男爵はアンダーソンを生きたままこの街から出す気が無いことを察したのである。


「承知しました。手配は私にお任せください」


そう言ってさわやかな笑顔のまま書記官は退室した。




 グレンが一人で向かったのは、繁華街のはずれにある飲み屋であった。週末ではないが、店はそこそこ人が入っており、ほろ酔い気味の客たちがしゃべったり、笑ったりするので店の中は賑やかである。店に入ってきた大男にも客たちは目もくれず、思い思いに過ごしていた。


 グレンはホール係にビールの注文を告げ、店の少し奥まったところにある席に座り込んだ。


「お待たせしましたか?」


 注文を待っているグレンに声が掛けられた。聞き手の耳に馴染むテノールの声である。


「いや、こっちもさっき来たところだ」


 そう言いながらグレンは声を掛けた人物に席を勧めた。


 その人物は「では失礼して」と言って、グレンの向かい側に座った。その姿をまじまじと見つめてグレンが言った。


「昼間とは随分と雰囲気が違うな」


 グレンの問いに男はうっすらと笑う。


 グレンが昼間見かけた男の姿は、よれた薄いコートに手入れされていないボサボサの茶髪を頭の左右から垂らした、身なりの悪いスリ師の姿であった。しかし、現在目の前にいる男は昼間の姿とは似ても似つかない。貴族の子息が着るような仕立ての良いフォーマルな衣服を纏い、茶色の髪はきちんと整えられ、頭の後ろで一つに結わえられていた。


「職業上、というやつです」


 男はその笑みを崩さず答えた。


「昼はウチの連れが悪かったな。ちょっかいかけるような真似をして」

「いいえ。おたくのお嬢さんにはご協力いただきましたので、私も柄ではないことをしました。気を落とされていたのなら、こちらこそ申し訳ない」


 男がそう言うと、ホール係がテーブルに二つのビールを置いた。


 グレンはその答えを喉に麦酒を流し込みながら聞き流した。


「それで、連れをダシにして俺からモノをくすねてまで何故会う機会を持とうとした? こんな傭兵崩れに何か用があるのか?」

「一昨日、東門の警備兵から報告がありました。四色契約者フルコンの旅人がお供を連れて入門してきたと。このような辺境でそのような人物と知り合える機会は滅多にありません。ぜひともお近づきになりたい、と思った次第です」


 そう言って、目を細めた男が一枚の古ぼけた羊皮紙を取り出し、グレンに見えるように、しかしグレンの手が届かない位置である自分の顔の横で開いて見せた。


 羊皮紙には四つの紋章と四つの署名がそれぞれ赤、青、白、黒の色で印されていた。それらの色はどれも目が痛くなるほど鮮やかな色彩を放っており、刻まれた紋章は幾何学的な模様や象形した図等を組み合わせた形をしている。


「契約書はよく見ていますが、これほどまでに古い契約書を見たのは初めてです。しかも、署名は一名を除いてすべて君主たちのもの。一体、どこの遺跡から盗み出したんですか、と尋ねたくなるくらいです」


 グレンは男の言葉に無言であった。


「私も子供の時分、いろいろと話を聞かされました。『緋色の闘鬼』と言えば、戦場で見かければまず逃げろ、と。文字通り、命が幾つあっても足りはしない。たった一年で十二の国を滅ぼした『赤の文明』が誇る伝説の英雄だ」


 男は羊皮紙を丸めて、それをしまい込み、ビールを飲んだ。自然な動作であるが、どことなく上品であり、様になっている。


「しかし、何でしょうねぇ。子供のころに寝物語で聞かされていたおとぎ話の主役だというのに。実物を見ると、確かに図体は大きく強そうではあるが、パッとしないというか、精彩を欠くというのか。はっきり言って興覚めです」


 そう言う男の深緑の瞳にははっきりと冷笑の光があった。


「長い間現役を離れてすっかり牙も抜けてしまったようですね。みすぼらしいお供を連れて暢気に観光とは、正直言ってがっかりです。私ごときの動きにもお気づきにはならなかったようですし?」


 男は慇懃な口調のまま、グレンを小ばかにしたような視線を向ける。


「しかも、私の呼び出しにノコノコと非武装で現れる始末です。せっかくいい人脈を確保できるか、と思ったのですが。これではせいぜいが、駒ぐらいにしか使えなさそうですねぇ」

「それが狙いか?」

「ええ。契約書がなければ街から街への移動も難しいでしょう? ですから、契約書を返してほしければ、私の駒になっていただく、そういうお話です」


 脅しとも言える男の言葉にグレンは特に気を悪くした様子もなく答えた。


「何だ、意外とつまらない要求だ。こっちこそ、がっかりだな。あの『手ノ蔵』からモノを盗み出す、なんて芸当ができるヤツなんだから、もっと面白い要求をすると思っていたぞ? それとも、それが『隠密』の流儀ってやつなのか?」


 男はうっすらと張り付けた笑みを崩さなかった。しかし、先ほどまで写っていた冷笑の光が目から失われている。


「何か思い違いをしていらっしゃいますね。私はただの――」

「スリ師ってわけじゃないだろう。魔女の道具に手を出して無事ってことは、その系統の魔導に精通している証だ。腕が立つとかっていう問題じゃあない。加えて鍵開け、潜入、情報収集に分析、操作を息するようにする、となれば『青枝あおえだの隠密』を連想するのはそれほど難しくない」


 グレンが滔滔とうとうと述べる男の身元について、茶髪の男は先ほどから同じ表情で聞いている。


「だが、お前さんが隠密だとすると、一つ解せないことがある。隠密にしては中々乱暴な方法でコンタクトを取ってきたって点だ。あの陰気な完璧主義者の躾を受けているのなら、もっと慎重な方法で近づいてくる。隠密は掟に背くと、キツい罰を受けさせられるんだろう? 確か喉吠のどぼええって言ったか?」

「――いやいや! 参った参った、降参降参!」


 グレンの言葉を遮って声を発した男は、お手上げという意図を示すように片手をヒラヒラと動かした。その仕種は先ほどまでの落ち着いた慇懃無礼な態度からかけ離れ、剽軽ひょうきんで軽薄な印象を与えるものだった。


「まさかそこまで見破るとは、恐れ入ったぜ旦那。『緋色の闘鬼』の二つ名は伊達じゃないってわけだ」

「……それで、本当のところどうなんだ? 俺に接触して何を得たかったんだ? 契約書はもうお前の手にあるというのに」

「先ほどの話の半分は本当っス。弱みを握ってこっちの仲間にできりゃ、こいつは儲けモンだ。オツムはアレだが、腕っぷしは間違いない。投入する時期と場所に気を付ければ、良い働きが期待できそうだ、と踏んでいたもんです」


 そう言って、男は勢いよくビールをあおった。


「――ところが、実物はどうです。パッと見は他のオーガと違わない。むしろオーガにしては若干小柄だ。覇気とか触れる者皆傷つけるオーラとかがムンムンかなって思ってたら、至って普通なんですもん。実際のところどんな人なんだろうって、気になりません?」

「気になるからって、人様のモノを盗って良いなんて、道理はないだろう」

「盗んだことはすみませんでした。この契約書はお返ししますよ。ただし、一つだけオレのお願いに応えてくれたら、ですけど」


 男は素直に謝り、いたずらっぽく言った。


「何?」

「何も難しいことじゃありません。明後日、博物館のホールで講演を行うことは知ってますよね。その講演を是非とも見に来ていただきたいのです。勿論、お連れ様も一緒で」

「学者様の研究なぞ聞かせて何を企んでいる?」

「そちらにご迷惑はおかけしませんよ。ただ、ちょっとおもしろいものが見れるので、是非とも招待させていただきたいのです。講演が終わればちゃんと契約書はお返しします」


 グレンは灰色の目を男に向ける。


 それは男の真意を見極めようとしているかのような目つきだった。


「釣りのエサにされる方もいい迷惑だろう」

「何も理不尽なことはないっス。帝国臣民の一人として良心に従えば、自ずと自分のやるべきことはわかるってもんです」

「エサが食われても、また次のエサを撒けばいいってわけか。お手軽なもんだ」

「最小のリスクで最大の利益を、ってのが師匠からの受け売りなもんで」

「いかにもヤツらしい。相変わらず手広いことだ。他種族まで自分の枝に仕立て上げるとは」

「おっと旦那。わかっていてもそいつは言わないお約束ってやつですぜ?」


 茶髪の男が席から立ち上がった。


「お代はこちらで持ちます。ゆっくりしていってください。あと、明後日の席は特等席をご用意しますので、係の者に『書記官に呼ばれた』という旨を告げてください。案内させますので。それじゃ、良い夜を」


 男はそう言い残すと、そのままカウンターの中の店員に何かを言い含めて、店を出て行った。


 一人席に残ることになったグレンは向かいに空いた席を睨みつけながら、ぐいっとビールを喉に流し込んだ。




 夜も深まり、人通りもなくなった大通りから一本裏道に入った住宅街を茶髪の男が歩いている。人っ子一人いない裏道は秋の夜の深さに沈み、街灯が並ぶ表通りとは違う静けさに包みこまれていた。懐中電灯でも持っていなければ、安全に歩くのは難しいくらいに、裏通りは暗かった。


 夜目が利くのか茶髪の男は特に苦労するでもなく、昼間と同じような歩みでその裏道を歩いている。


「――予定に無い行動をするな」


 男が通り過ぎた家の軒下から、その背中に向けて声が掛けられた。低くも高くもない、特徴のない男の声だ。


「あの男との接触はお前の役目ではない」

「お耳の早いことで」


 茶髪の男は振り返らず、その声の主にポツリと感想を漏らす。


「何のためにお前をこの街に潜り込ませたのか、忘れるなよ。それと私に何か報告はないのか?」


「ああ、諸侯派の暗号文はこのとおり、きっちり入手しましたよ」


 そう言って、男は上着のポケットから小さな箱を取り出す。その箱は昼間、セシルがスリ師からスリ返した小箱によく似ていた。


 男は自分に話しかける軒下の暗闇に向かって無造作に小箱を放り投げた。


 放り投げられた小箱は暗闇に吸い込まれるようにして、見えなくなった。壁や床に当たる音がしないので、声の主がちゃんと受け取ったようである。


「こちらはついで、だ。本命の件は?」

「心配はないと思いますよ。明日中には決着します」

「その根拠は?」


 軒下の暗闇から無感情な声が尋ねた。


「まァ、以前から報告していたとおり彼の為人から言って男爵とは水と油ですからね。いずれはこういう事態になるのではないか、と思っていました。後は彼自身が引き金の役目を果たしてくれますよ」

「必ずそう動くと決まったわけではないだろう。確実を期すために、もう少し誘導した方がいいんじゃないか?」

「勘違いしないでいただきたいのですが、そこまでは私の仕事じゃありませんよ。私はあくまであなた方と臨時の監査官として契約した身です。情報の提供は行いますし、情報を引き出すための工作も行いますが、貴方たちの狙い通りに人を動かすというのは私の職権の範疇ではありません。それに私如きがセコセコ何かする前に我らが閣下ご自身でいいように動かしてしまうじゃありませんか」

「……命令だとしてもか?」


 無機質ながら、聞く者を威圧するような重苦しさが込められた声だった。


「命令とは、発令者と被発令者の間に主従関係が成立する時に有効なものです。私と貴方たちはあくまで対等、共通の目的を達成するための同志です。命令される謂れはありませんね」


 男はグレンに見せた慇懃でさわやかな口調で続ける。


「大きなデスクの後ろでいつも人を顎で使っているんですから、たまには自分の手足も動かしたらいかがですか室長殿?」


 男は皮肉めいた口調で軒下の暗闇に潜む男に問いかけた。


「契約、契約と小うるさい奴だ。だが、いいだろう。こちらも腐っても帝国の狗だ。契約と法律は尊重する、と言っておこう。では引き続き、契約に従い我々への協力を頼むぞ」

「ええ、万事抜かりなく。そちらこそ準備を怠って獲物に網を掛けるタイミングを間違えないようにお願いしますよ」


暗闇からフン、と鼻を鳴らす音が聞こえる。


「わかっている。なんのために大勢連れてきたと思っている。では、また二日後に……」


 暗闇からもう声は聞こえなくなった。


 人の気配が去ったことを知ると、茶髪の書記官はくつりと喉を鳴らした。


「さぁーて、明後日は面白くなるぞ……」


 その独り言は発した本人以外に聞き取られることなく、路地の暗がりへと吸い込まれていった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る