4 監査前日

 その日、スタンリー・アンダーソンは午後よりハドリアンの領主であるエックハルト男爵より呼び出しを受けていた。


 どうせロクな話ではない、とアンダーソンは予想していた。きっとまた予算がらみの話をされるのだろう。そう思うと憂鬱な気持ちになった。


 アンダーソンは男爵が待つ、領主の館へと向かっている。


 街の北側に位置する男爵の館は、小奇麗に刈り込まれた芝とこのあたりには自生しない草花が咲き誇る庭園の先に見るものを圧倒するかのように建っていた。


 わざわざ帝都から運ばせた花崗岩かこうがんを加工した外壁に、何とも華美な彫刻を施した扉と、入館者を出迎えるために迫り出した屋根を支える柱が必要以上に配置されている。


 要はがよくなっただけなのだ。


 何度見ても、金満家の見栄としか思えないアンダーソンはうんざりしながらその成金領主の館の扉を通った。


 館の応接間にアンダーソンを呼び出した人物が待っていた。似合わない口ひげを生やした小男のハドリアン領主エックハルト男爵である。


 実はこの男爵、本来はどこにでもいそうな小金持ちの貴族であるのだが、ここ約十年来でその風向きが大きく変わり、金満家としての一面を持ち始めた。


 そもそもハドリアンの街は長いこと細々とした貴金属採掘を生業に辺境の一都市として存続してきた街であった。男爵家は痩せた小山とそこに暮らす貧しい民を抱えた一地方領主の家系である。明日食べるものとまではいかなくても、民草に重税を強いて自分だけ豪奢な暮らしができる、という身分ですらなかったのだ。


 きっかけは貴金属採集のための削岩用の爆弾が暴発した事故であった。予定より大きく削れてしまった地面の下から、貴金属とは別の物体が顔を出したのだ。それは金属のような煌めく光沢を放つようなものではなく、むしろ光を吸収してしまうような暗灰色をした物体であった。作業員たちは当初はただのゴミだろうと考えて、作業を続行しようとした。


 しかし、周辺の土を掘れば掘るほど、現れるこの暗い色の物体はどんどんとその全容を土の中から垣間見せ始めたのである。それが家の一軒二軒の大きさでは済まなくなったあたりで、作業員たちはこの大きなゴミの処理をどうするか迷い始めたのであった。


 男爵がその土の中から現れた物体群の存在を知ったのは最初の発見からさらに発掘作業が進んだ後の事だ。事の次第を確認しに男爵が現場に赴くと、ざっと街の三区画分に相当する範囲にわたって、古代の街の様相が浮かび上がっていた。


 高等教育を受けていた男爵はそれが、自分たちが居住する石造りの建物ではなく、白の領地内では珍しい木造の建築であることをすぐに理解した。そして、その木造建築の遺跡群の発見を帝都の大学と教育省へと報告したのであった。


 帝都はすぐに調査隊を派遣し、遺跡群の調査にあたらせた。結果としてこの遺跡群は非常に広い範囲でこのハドリアンの地下に眠っていることが判明した。また、その歴史的価値は現在の文明成立以前の建築物である可能性が示されたため、教育省はその発掘を国家規模で行う一大事業として据えることを決定し、発掘のための人員や物資の投資を行うに値するものだった。


 人と物の流入はすなわち帝国の資本の流入であり、同時に資金の流入も意味している。


 男爵は機を逃さず、その流れを一気に自分の領土へ引き込むことに成功したのであった。男爵は統治者としての腕前より金策を扱う腕前に長けていた。研究発掘の動きが一段落し始めると、次の手として用いたのが観光資源としての遺跡群の利用であった。


 男爵は高等教育を受けてはいるが、学問の徒である前に統治者であり、そしてどうやらその前に経営者の肩書も置こうとしているようであった。というのも、このような記録からその為人が読み取れる。


 発掘した遺跡の保存作業が終了する前に男爵は遺跡を観光客に向けて公開してしまい、貴重な資料が踏み荒らされ、散逸してしまったのだ。研究者たちからは重要な初期研究の資料が消滅したことから研究の遅延を招いたと当然抗議がなされたが、当の男爵は「そんなものはもっと発掘が進めば解ることだ」と答えた。こういった所からも彼の中では学問よりも経済が優先されていることが判る。


 アンダーソンの目の前にそんな現金主義の権化がいるのだ。分かっていたことだが男爵のナマズじみた平べったい顔を見ると、反射的に苦みが込み上げてきた。


 思わず顔をそらした時、この部屋にもう一人自分たち以外の人間がいたことに気づいた。


「遅いじゃないか、アンダーソン館長」


 開口一番に男爵はアンダーソンに不満こぼした。


「すみません男爵。観光客の相手をしていて少々遅れてしまいました。それで、私に御用とは?」


 それほど反省した様子もなくアンダーソンは話題を本題へと向けさせることにした。もう一人の若い男についてもきっと男爵から紹介があるだろうから、自分からは特に触れないことにした。男爵も特に遅刻の件をそのどことなく粘り付くような声でネチネチと突く気はないらしい。


「どうかね? 最近の研究は進んでいるかね?」

「研究の進捗は月次の報告でさせていただいているところでしたが……何かございましたか?」


 博物館で観光客を相手に歴史講義の熱弁を揮っているとは思えないほど無感情な言い方である。


「いや、報告書を見る限り最近の研究はどうも手詰まり気味のようだなと思ってね」

「研究がいつでも順風満帆に進むとは限りません」

「しかし君ィ、そのまま暗礁に乗り上げる、なんてことにはならないだろうね」

「失礼ですが男爵。私に何をおっしゃりたいんでしょうか?」


 歴史の研究以外に食指が動かないアンダーソンとしては珍しく、その視線には、はっきりとした煩わしさが浮かんでいた。


「私が言いたいのは近々大きな成果を上げられそうか、ということなのだよ」

「……大きな成果というのは?」


 今度は男爵が苛立たし気に語気を強めた。


「つまりだね、『木造建築技術を持つ祭政一致の一大国家の形跡』という発見以外に、注目を浴びられそうな新たな発見はあったのか、と尋ねているんだよ」


 アンダーソンは心の中でうなだれた。男爵はめでたくも研究というものが、野生のタンポポのように日が経てば必ず花開くことを約束しているとでも思っているようだった。


「男爵、研究につきましては報告書にも記載しておりますが、進んではいます。いずれ、必ずまとまった形のものを報告できるかと」

「では、それはいつなのかね? 待てど暮らせど、報告は近年似たようなものばかりじゃないか。その上、去年は帝都からの調査員が撤収させられ、今では当初来た数の半分にも満たない数しか残っておらん」


 そこを突かれるとアンダーソンとしても痛いところである。考古学と歴史学の研究は手間暇の割に成果が薄く、さらには検証や考察も間違いであることが多い。最も、この手の検証や考察などというものは無数に表れ、都度新たな証拠や論拠でもって修正されていき、定説となっていく。正しい歴史の解明には恐ろしいほどの時間と手間をかけなくてはならない。


 一朝一夕に研究の成果は出ないし、さらに経費の削減で人員を減らされた今となっては、その速度も鈍化せざるを得ないのは当然であった。数年の間成果が出ない、というのは当然起こりうる現象である。


 しかし経済人たる男爵の目にはウタカナ遺跡群にかけた資金と時間に見合うだけのリターンが少なすぎる、という風に見えるに違いなかった。


 アンダーソンの所感としてはそもそもこの手の学問と経済というのは相性が悪い。いわゆる文系学問は早い話が金にならないのだ。


 男爵にも領主という立場がある以上、食わせなくてはならない領民がいる。他にも周囲の貴族や帝都への見栄があるのかもしれないが、本来学問とはそういったものとは無関係でなくてはならない。少なくともアンダーソンはそう思っていた。


「男爵、焦るお気持ちはわかりますが、こういったものは急かしてどうにかなるものではございません。研究員や作業員の数が増えるならまだしも、減らされている今となっては……」

「だからこそ、今ここで何らかの進展を見せなくてはならないのだろう! 観光客が減少に転じて久しい今となってはここらで起爆剤が必要なのだ。このままでは我が街はまた帝国の辺境都市として忘れられていってしまう」


 男爵は困惑を示すように眉間に皺を寄せ、眉尻を下げた。このあたりが男爵の本音なのだろう。


 何と返答しようかと思案してアンダーソンは沈黙した。


「――そこでだ、館長」


 男爵はアンダーソンの言葉を待つよりも自分で埒を開けることにしたようだ。


「下降気味の我が街の経済のために、私は次の策を採ることにしたのだ。ついては君に紹介したい男がいる」


 そして、初めてこの部屋の中で沈黙を保ち続けた男が口を開く。


「初めまして、アンダーソン館長。私はバルディーニと申します。この度エックハルト男爵の要請で、館長の研究のお手伝いをさせていただくことになりました。どうぞ、よろしく」


 そういって名乗り上げた男はその顔にさわやかな好意的な笑顔を浮かべていた。歳のほどは三十に届かないだろう。明るい茶髪にスラリとした手足を持つ若者だ。鼻筋が通り、バランスよく配置された顔のパーツから端正な顔立ちと言える。仕立ての良い衣服で一見すると貴族の子息のように見えた。アンダーソンに向けられた少し眠たげな深緑の瞳に宿る光は、自信と思慮深さを物語るようである。


 バルディーニは優美な身のこなしでアンダーソンに握手を求めた。アンダーソンはそのしぐさにつられるようにその若者と握手を交わした。


「バルディーニ書記官は帝都の様々な企業や団体の事業再生を行ってきた凄腕の顧問官だ。この度縁があって、私の下まで来てもらったのだよ」


 確かに書記官の雰囲気は垢抜けており、この辺境には珍しく都会的な青年だった。若々しい風貌と鋭気に満ちた佇まい。向けられる人好きのしそうな笑顔などは、初対面の人物に対する高評価をもぎ取るだろう。


 しかし、くたびれた白衣の中年男には目の前の青年がどうも男爵の言葉通りの人間には見えなかったのである。


 それはアンダーソンが長年培ってきた『モノを見る目』という観察眼から疑問を呈されたからであった。表面上はうまく取り繕っているが、一瞬その深緑の瞳に写った得体の知れない光を、アンダーソンはビン底眼鏡の奥にある瞳で見逃さなかった。


 書記官は淀みない口調で話し始めた。


 書記官の声は調和と流麗に富んだ音楽的なテノールであった。彼の話に耳を傾ける者はまず内容ではなく、その芳醇な葡萄酒のような肉声で話に惹き込まれるのだ。


「私が提案いたしますのは、館長の報告書にありました『大規模災害の発生による国家の終焉』という意見から遺跡群に存在した古代国家の具体的な年表を作成することです」

「国家の年表を発表するとおっしゃいますが、それはどういったものを考えてのご発言でしょうか?」

「それは主に施政、祭事、経済、環境変化要因の発生や生活様式の変遷等を記載し、この国家の誕生から滅亡までを記載するのです」


 通常、年表を作成する時は時間という画一的な基準を軸として据えるものだ。無数に存在する資料やそれらから推測される事物という点を、時間という線で結びあげることによって、歴史上の出来事の前後関係や各時期の傾向などが視覚的に整理されるようになる。もし年表が他の研究者たちに受け入れられれば、これから更に広く深く研究を進めていく上で基本的なデータとして用いられていくだろう。


「それはもしできるのなら、大変な研究成果となりましょう。しかし、現段階において、そういった総括的な報告ができるような研究状態にはありません」

「だが、これまでの研究から、書記官が言ったようなことは既に判明しているじゃないか。」


 男爵が横やりを入れてきた。


「確かに私はこの遺跡群にかつてあった古代国家においては、今まで報告してきたような施政や祭事、生活が営まれてきたのではないか、と報告しています。しかしそれは見つかった断片的な資料を基にして推測したものにすぎません。また、発見した資料についても必ずしもそういった用途や意味合いで用いられてきた、と保証する物的証拠は見つかっていません。あるいは未だ未発掘の地帯に推測の根拠となりえる証拠があるのかもしれませんが、それでもまだ未発見なのです」

「君の報告書は筋が通っているようにも見えるが……」

「我々の一般的な常識などから照らし合わせれば、辻褄は合うのかもしれませんが、それでもやはり断定はできません。発表するとなれば当然ある程度の論理性とそれを補強する証拠が必要ですが、今の段階ではその証拠がないのです。申し訳ありませんが、書記官の提案には無理があると言わざるを得ません」


「――では、証拠があればよろしいのですね?」


 書記官の眼の奥に熱を持った光が躍った。


「……そうですね。論理を裏付けできる情報を持った物があれば、ある程度の範囲で発表の形にはなるとは思いますが」


 アンダーソンは一瞬のためらいの後、書記官の言葉をがえんじた。


 書記官はそれを言質と取ったのか、アンダーソンの目の前の机に麻布に包まれた物体を置いた。


 アンダーソンがバルディーニを見やると、青年は優雅な手のしぐさのみで応答した。アンダーソンが布地を開くと古ぼけた木簡が姿を現した。少しだけ躊躇してから、ゆっくりとその木簡を手に取って中身を確認した。


 アンダーソンは今度こそ平静を保つことが出来なかった。眉間に皺がより、ビン眼鏡の奥にある眼光が鋭く尖っていく。


「いかがです?」


 アンダーソンは書記官の問いに答えず、木簡を読み終えた視線をそのまま目の前に腰掛ける問いかけた本人へと向けた。それは憮然とした表情の何物でもなく、その視線は明らかに疑惑のまなざしで書記官を射すくめていた。


 その木簡には書記官が述べたような年表の要素がすべて記されていたのだ。まさしく、アンダーソンが推論している時代考証を裏付ける証拠であった。それも重要とならない部分はしっかりと欠損や汚損がされている。当然、木簡の造りにしても長い間土の中で眠り続けた朽ち果て具合であり、末尾の印影も既に出土している印影のものと同じものであった。


 書記官が言った証拠以外の何物でもない。これさえあれば、先ほど書記官が述べたような年表を作成できるだろう。既に論理は構築されているのだから、それを裏付ける物証があれば発表ができる。


 アンダーソンの視線を受けた書記官がうっすらと微笑んだ。


 それを見て、アンダーソンの疑惑は確信へと変わった。


「……よくできていますね。どこから持ってきたんですか?」

「――すぐそこからですよ」

「すぐそこからこんなに都合の良いものが出てくるなら、研究者は日夜泥と紙束に押しつぶされそうになって遺物と取っ組み合う必要はないんですよ」


 そう言って、アンダーソンは手に持った木簡をテーブルに置く。


「ずいぶん腕の良い贋作士にツテがあるようですね」


 バルディーニ書記官は微笑みを張り付けたまま無言であった。その無言こそが、この木簡が真っ赤な偽物であることを雄弁に語っている。


「こんなモノを作ってまで、私に虚偽の研究発表をさせたいのですか? これはまごうことなき虚偽報告ですよ」


 アンダーソンはできる限り冷静たろうと、心得て声を絞り出したが、その声の震え具合からこの学問に誠実な学者が如何に怒りを抑え込もうとしているか伺い知れた。


 しかし、この場にいる二人の人物はそれを理解せず、また無視をするという態度で学者の怒りに応えたのである。


「――言っておきますがね……」


 そんな二人の態度に怒りを通り越し、呆れ果てたのか白衣の学者は力なく立ち上がりながらも、毅然と二人を睨みつけた。


「こんなものを証拠として提出したところで、学界からは一笑に付されますよ。そもそも国家の終焉までも含んだ年表なんてものは、当然その国家が滅びた後に登場することになる代物ですから、そこまで含んだ年表が、滅んだ遺跡の中から出てくること自体が不自然です。そんなことはそこら辺の子供でも分かることですよ!」


 意図せずアンダーソンの声は大きくなった。酷く不快な興奮であった。


「まぁ、館長そう興奮なさらず。我々もそこまで完璧な成果を求めているわけじゃありませんよ。それにたとえ発表したとしてもお得意の『修正』で、どうとでもできるじゃありませんか」


 書記官が柔らかな口調でありながら、その瞳に怜悧な光を浮かべて言った。


「『修正』というのは論理の修正であって、証拠の修正ではありません。発表の後に証拠の解釈を誤ったと指摘される可能性はありますが、発表した証拠それ自体を修正してしまったら、それこそ改ざんや隠匿として非難されます」

「館長、君の学問への忠誠心には感服するがね、我々は真実が欲しい訳じゃないのだよ。重要なのは話題性なのだ。真実で客は来ないが、大きな話題は客を集める。つまり、そういうことだ」


 男爵が顔に似合わない口ひげを弄びながら告げた。


 男爵たちにとっては、遺跡から掘り起こされるかび臭い木切れだの欠けた石像だのといったものに、それほどの価値を見出していないのだ。それがどれだけ学問的に貴重な遺物であったとしても、地味で目立たない遺物などは大して世の注目を集めるようなものではない。男爵たちの関心は掘り起こされた遺物そのものよりも、それらがどれだけたくさんの人の興味を惹く力を持つかであった。 


 それを最大限引き出す可能性のあるものが、館長の研究を年表化する、という話なのだろう。年表それ自体は対して人の興味を惹くものではないが、そこから引き出されるストーリーは様々に派生させられるし、脚色も誇張も思うままだ。それらを根拠にした商品開発や、古代のロマンを追体験すると銘打った観光ツアーでも用意するつもりなのだろう。


 そして何よりも館長をうんざりさせるのは、もはやこの話は既定のものであり、しかも自分はその粉飾の大任を押し付けられようとしている、ということであった。


 アンダーソンは無益なことと分かっていても、言わずにはいられなかった。


「男爵。どうかご再考ください。この試みは単に証拠捏造という卑劣な犯罪である以上に、歴史という過去の人々が積み上げてきた営みと未来の人々に与えられるべき無形の財産に対する侮辱と汚損です。歴史学や考古学の大きな停滞や後退を招く要因になります」

「私は君の哲学を必要とはしていない。必要なのはそれらしく研究を発表する技術だけだ」


 男爵は吐き捨てるように言った。


 それはアンダーソンに必要な措置をとることを命ずる口調であった。研究発表は最初から既定の話であって、アンダーソンの意見や意向を反映させようとは考えていないのだ。男爵はただ、『それらしく研究を発表』するための方法をアンダーソンに一任する、という意思を伝えるために、彼を呼びつけたのである。


「それにだ、アンダーソン君。ここ近年の遺跡の研究発掘においては帝都からの援助も打ち切られ、上がってくる報告にも目ぼしいものが無い。そういう状況が続く中で貴重な税金をこの部門だけに厚くし続ける理由が弱くなってきているというのは事実なのだよ? 街を預かる身分の私としても、これ以上の援助というのは」


 厳しいものがあるなぁ、と嘆息を交えながら男爵は足を組み替えた。


 よく言う、とアンダーソンは心の中で吼えた。


 博物館の運営と発掘作業、研究にかかる費用は確かに街の財政を占める割合は小さくない。今までは帝国からの補助金で賄っていたが、既に帝都が完全撤退の意向を匂わせ始めてきている。どうせ、またぞろ軍事費が足りなくなってきたから、そこに突っ込みたいのだろう。焼け石に水だ、とアンダーソンは思っている。


 街にかかる費用を抑えるためには発掘か研究、そして博物館の運営それ自体を縮小や中止の俎上に乗せるしかない、と男爵は言いたいようだ。言うことを聞かなければアンダーソン自身だけでなく、アンダーソンの周囲で働く人々にも影響を与えるぞ、と暗に男爵は示したのだ。


 それがわからないほど、アンダーソンも学業一辺倒の男ではなかったから、もはや何も言わずその場を辞するしかなかった。


 去り際に男爵がもう一つ要件を告げた。


「明日、総督閣下がお見えになることは知っているな?」

「……それが?」

「明日の夜は閣下をお招きしての晩餐会となる。その場で閣下のお耳にこの『素晴らしい発見』についての報告を行うので、そのつもりで準備をしておくように」


 もはやアンダーソンは息を呑むことぐらいでしか反抗を示せなかった。彼の脳裏では男爵の非行を非難する言葉がいくらでも浮かんできたのだが、口にはしなかった。彼の咽喉が突き付けられた事実の不愉快さと衝撃に固くその門扉を閉ざしてしまい、言葉が舌の上まで登っては来なかったのだ。


「……館長は素直に動いてくれるのでしょうか?」


 アンダーソンが男爵邸を去った後、書記官が男爵に尋ねた。


「案ずることはあるまい。彼も研究の手と金を減らされて、身の振り方を考えていたはずだ。学問するためにも先立つものは必要になる。自分でそれを稼でもらうだけのことだ」

「保身を図って総督閣下に直訴するかもしれませんが」

「そんな大それたこと、彼にできるはずがない。そんなことになれば、彼自身の研究にも疑いの目がかけられ始める。自身で築き上げてきた牙城を自分で泥の中に放り込む真似はできんだろう。せいぜい金の卵を産むガチョウを演じ続けてもらおうじゃないか」

「――卵を産めなくなれば?」

「役に立たない家畜を食わせてやるほど私の懐に余裕があるとでも思うのかね?」


 男爵は口の端を歪めて笑った。


 その様子を若い書記官は人好きのしそうな柔らかな表情でじっと眺めていた。




 夜も深まり、ほとんどの家の灯りが消える頃となっても、博物館にある研究室の灯りは消えていなかった。


 ビン底眼鏡でボサボサの髪をした男が机に向かって何かを書きつけている。


「館長、お帰りにならないのですか?」


 そう声を掛けられて、アンダーソンは数時間ぶりに机上から頭を上げた。部下の男が帰り支度を整えて、研究室に顔を出したのだ。


「ああ、ちょっと急ぎの仕事が出来てしまってね」

「また、男爵とやり合って来たんでしょう? いつも無理難題吹っ掛けて、都合が悪くなればハシゴ外しですからね、あの人らは。私でよければ手伝いますよ?」


そう言って上着を脱ごうとするのをアンダーソンが制止した。


「いや、いいんだ。大したものじゃない……私一人でやるよ。急ぎで原稿を仕上げないといけなくなっただけだから」


 部下の手伝いを拒んだのは、彼をこの企みに巻き込みたくなかったからである。


 部下の男は少し心配そうな顔をした。


「館長、近頃講演の予定なんてありましたっけ?」

「……今のところは無いんだが、もしかしたら降って湧くようなことがあるかもしれなくて、ね」


 アンダーソンがまとめていたのは、明日総督に見せる研究資料であった。報告する内容については忸怩じくじたる思いではあったが、年表の線で進めている。元々、アンダーソンの研究では年表化まであと少しの所まで漕ぎ着けていたため、最後のピースとなる証拠品の木簡を加えれば、まとめ上げるのはそれほど難しい話ではない。


 問題の年表の木簡についても、アンダーソンのまとめた内容は無難な解釈で留められており、専門家が読んだとしても報告そのものに大きな破綻は見いだせないだろう。当然、直接木簡を検証されればその限りでは無い。


 男爵の口ぶりだと既に総督には何らかの頭出しをしている可能性があった。明日の場で下手にひっくり返すような真似をすれば密室で行われることを鑑みて、自分の旗色が悪いだろうとアンダーソンは予想した。総督側の様子を確かめてからでも遅くは無いはずだ。


 部下がアンダーソンの机を見ながら、やっぱりという様子で言った。


「それって結局男爵がらみじゃないですか。もしかして、明日の総督監査にも関係あるんですかね? えらい勢いで原稿をまとめていらっしゃいますけど?」


 アンダーソンの研究机は普段大量の文献や遺物が入った箱が平積みとなって雑然としているが、今は原稿用紙が散乱している状態だった。


 部下はアンダーソンが普段から入念な準備の上で講演や講義を行っていることを知っていた。館長は研究と普及の両方に決して手を抜く人物ではない。そのため、慌てて原稿を準備する姿を初めて見て戸惑ったのである。


 部下の不安げな表情を汲んで、アンダーソンはできるだけ深刻になりすぎないように注意しながら言った。


「何、明日の晩餐会のネタに今までの進捗報告をしろ、と男爵がせっついて来ただけだよ。相手が相手だから準備するのに越したことは無いだろう?」

「やっぱり、男爵の無茶ぶりだったんですね! あんのナマズおやじ、普段いいだけ威張り散らして、税金もチョロまかしているクセに更に総督にまで取り入ろうなんて、何て――」

「科学者が確たる証拠も無い噂話を、論評の基礎に据えるのはどうかと思うがね」


 熱くなる部下にアンダーソンは冷や水を掛けた。


「しかし、あの男爵の行動は目に余るものがありますよ。領民たちも聞こえないところではボロクソ言ってますしね」


 そういう話はアンダーソンも聞き及んでいるところである。


 観光業や飲食業と言った遺跡発掘に端を発する種々様々な事業に対し、細かな手数料やら登録料などを設定して金を吸い上げているそうだ。更には徴収する税の報告も帝都への報告と実際の報告には差異があると聞いたことがある。その差額についてはほとんどが男爵の懐に流れていると言う。


 そういう話に領民は敏感だ。だが、当然と言えば当然だがそれを示す証拠は無い。アンダーソンとしては領主としての責任にかかる発言を不用意に行いたく無かったし、実際のところそれほど興味がある話でもなかった。


 今までは、である。


 最近、遺跡関連は男爵からの風当たりが本格的に強くなってきている。それは今日遂に黙ってやり過ごすには大きすぎる風となってアンダーソンに襲い掛かってきた。だからこそ、アンダーソンは若い時以来の徹夜覚悟で机に向かっていたのである。


 男爵の脅しを受け入れるか、否かという問題は暗雲となってアンダーソンの頭上を覆っていた。我が身一つの事であれば男爵と書記官の提案は当然突っぱねたかった。歴史と考古の世界で生きてきた人間であるアンダーソンには到底受け入れられる話ではない。自分の学者としての良心がその恥ずべき行為を許さないのだ。


 しかし、とアンダーソンは思い視線を給湯室に向かう部下に向けた。


 部下はアンダーソンがこれから遅くまで一人で原稿と格闘することを予感して、せめてもと熱いコーヒーを淹れに給湯室へと姿を消す所であった。


 結局のところ、アンダーソンもその部下の研究員たちも、発掘現場で日々汗水垂らして働く作業員たちも、男爵一人の声で職を追われる可能性もあるのだ。自分が拒否したところで男爵ならば自分に都合の良い人事で館長を挿げ替えることができる。自分が館長でいられるのは、単に自分がこの街の研究員の中では一番古株で、学歴が高く、そして成果と呼べるものをそこそこ出してきたからに過ぎない。もっと言えば、アンダーソンとて霞を食って生きている訳ではないから、職を失うのは単純に辛い。この時世、歴史や考古の学者として食べていくのは簡単なことではないのだ。


 自分の良心がそれだけのリスクを冒してまで、守る価値のあるものなのだろうか、とアンダーソンは自分自身に問いかけていた。


 その答えは、即答できるものではなかった。


 アンダーソンが自問に悩み虚空を眺めていると、鼻腔を目覚めるような温かい香りがくすぐってきた。


「どうしました? さっきから心ここにあらずみたいな顔をしていらっしゃいますよ、館長」


 そう言って、部下が淹れ立てのコーヒーを差し入れてきた。


 礼を言いながら熱いマグカップを受け取り、中身を一口啜る。


「いや、人生ままならないものだな、と思ってね。らしくないことを考えてしまったんだ。私なんて歴史の研究だけやれていれば良かったという口なのに、博物館の館長だなんて柄にもないことをやっていると思ったのさ」


 即答できない問題に、口の中と同じ苦い思いを感じながらアンダーソンはちょっとした現実逃避の内容でお茶を濁すことにした。


「館長の情熱はこの街の皆が理解しているところだと私は思いますけどね。でも、皆そんなもんじゃないですか? 私なんてまさか自分が学芸員やることになるなんて、十年前には思いもしませんでしたよ。結婚とかも考えていませんでしたし」

「そういえば、君のところのお子さんは今年で幾つになる?」

「三つですね。やっと、オムツが取れましたよ」


 そう話す部下の表情は穏やかで柔らかだった。


 その表情が優しければ優しいほど、アンダーソンは内臓を絞られるような痛みに襲われる錯覚を味わった。彼のような職員が博物館だけで二十人近くおり、現場で作業する人々を含めれば優にその数は百を下らない。自分の態度次第では彼らと、彼らの家族の生活を奪いかねないような事態を引き起こしてしまうかもしれないのだ。


 嫌が応にもアンダーソンの気持ちは沈んだ。ただ、沈んでばかりもいられないので、取り敢えずは総督に報告する資料の準備を進めることにした。


「そいつは良かった。それじゃあ、その愛しい家族の待つお家に早く帰るといい。戸締りはこっちでやっておくよ」


 アンダーソンの促しに部下の男は後ろ髪を引かれるような表情で立ち上がり、退勤の挨拶をして研究室を出て行った。


 扉が閉まり、足音が遠ざかるのを聞きながら再び作業を始めた。

それから、時計が次の日の時刻を刻み始めてもアンダーソンの腰は椅子から離れなかった。


 男爵に従うか逆らうか、そのどちらも決められない中でも明日の総督への報告の準備は進めなくてはならない。それが今の自分に出来る最善の手段だと、学者は筆を動かしながら己に言い聞かせるしかなかった。




 次の日、グレンとセシルは町を出ようと、街の西にある門に向かって歩いていた。


 しかし、門の前でその歩みは止まってしまった。


 門前に人だかりができており、それ以上先には進めなくなってしまったのだ。


「何かあったんでしょうか?」


 セシルが尋ねると、群がる群衆より二つほど頭が高いグレンが何かを悟ったように小さく首を振った。


「……しまった。今日は総督の監査日なのか」


 正直に言うとセシルは何のことか分からなかったが、グレンの諦めたような声音ですぐに、街から出る手段が無いことを理解した。


「それは、仕方がないですね……」


 二人は今日からしばらく街から離れることができなくなる事態をこの時知ったのである。


 総督の監査とは何年かに一度、地方領主が治める領地にその領地を含む行政管区の長たる総督が赴き、領地の行政運営を確認することである。白の勢力のうち大部分は帝国が治めており、ここハドリアンの街も帝国の辺境に位置する一領地である。帝国は帝都を中心として大小千を超える都市や街、村に区分されており、それぞれに領主が置かれているが、広大な版図を支配するために、地理的に近い街々を包括して一つの区画としてまとめる総督領が存在する。その総督領を治める機関として総督府が置かれ、総督府の長を総督と称するのである。総督は総督領にある街に対して、一定の影響力を有している。各街の運営はその街を預かる領主に任されているが、皇帝の眼が届かない遠方においては領主たちがその任を蔑ろにする場合があるため、総督には領主たちを監視する権限があるのだ。また、街同士の対立や協力の調停、調整や帝都との橋渡しとしての役割や赤、青といった他勢力からの侵攻についても各領地を守り牽制するための総督軍という抑止力も有している。


 領主は皇帝から領地の運営を任命された身分である一方、総督は総督領内における皇帝の代理人としての身分を有している。その身分についてはあくまで総督の職権の範囲内となっているが、そもそも総督が持つ職権は地方統治という様々な行政分野を集約したものであるため、自然と強い権力を有することになる。


 帝国で暮らす人々の一般的なイメージとして、総督はその街の領主より遥かに偉いという位置づけなのだ。


 そんな総督が街を訪れるのは、数年に一回の一大イベントであり、監査される街の領主は粗を見つけられないように必死になって、自分の領地の治安をよく見せようと取り繕う。何せ総督の監査で査定された結果は帝国宰相府に送られ、翌年以降の地方領地に対する国からの交付金の額に反映されるためである。


 自分たちの懐を直撃するこの事業に無関心でいられる領主はそう多くはない。しかし総督も総督で、一々広大な総督領に遍在する街々を歴訪し監査を行うというのはかなりの手間であるから、監査官のみを派遣して、総督は総督府から動かず監査を行う場合もあった。よってこの事業には、簡単に監査を済ませたい総督と、粗を見つけられたくない領主と、総督の命令一つで領内中を駆けずりまわされる監査官という潜在的な関係性が存在した。そのため、領主が監査官に賄賂を渡したり、監査官が僻地の監査に行かず適当に結果をでっちあげたり、大都市に対する僻みから総督がほとんど言いがかりに近い形で監査結果の中でケチをつけて嫌がらせをしたり、などという状態がこの時期の帝国では横行していたのであった。


 しかし、今回のハドリアンへの監査はこの一連の流れとは異なり、本来の形と趣旨に一番近い形で実施されようとしていた。監査に総督自らがやって来たのである。


 総督自らが出向く監査となれば、監査団の随行やそれらの警護を行う人員などの大所帯が動くこととなる。万が一、総督の身に何かが起きようものなら、領主に責任が及ぶことになるため、総督の訪問時には警備の一環として、人の出入りを街ごと封鎖することが多い。当然その期間は監査が終了するまでの間である。


 街の中では既に通知されていた事態ではあったのだろうが、昨日今日来た観光客や商人たちには周知が甘かったらしく、閉じられた門の前で群衆たちは戸惑い狼狽していた。門を警護している番兵に文句をつける者もいたが、番兵は取り合わず槍尻で小突いて追い払う始末であった。


「どうします? どうにかして脱出しますか?」

「止めておこう。無理やり通ったところで面倒ごとが増えるだけだ。宿に戻るぞ」


 そう言って、グレンはセシルを連れて先ほど引き払った宿にとんぼ返りしたのである。


 先ほど出て行ったばかりの客が再び訪ねてくるのを予想していたかのように宿の主人は訳知り顔でグレンに話しかけた。


「ああ、やっぱり間に合いませんでしたか」

「わかっていたなら、教えてくれてもいいんじゃないのか?」


 グレンの不満に丸顔の主人は悪びれもせずに笑顔で答えた。


「いやぁ、手前どもも今日のいつから封鎖になるのか、わからなかったものですから。下手にお声がけして間違った情報を伝えたらいけないと思ったんですよ。それで旦那様方はもうしばらくご逗留ということで?」


 グレンが無言でうなずくと、主人はありがとうございます、と嬉しそうに二人分の部屋をもう一度手配したのであった。昨日からの連泊という扱いにして費用を抑えてくれるということで、多少なりとも良心的なのかもしれない。


「せっかく滞在期間が延びたのですから、もう少し観光を楽しんで行かれたらいかがでしょうか? 総督閣下のご来訪ということで、街中でもおもてなし行事が多く行われていますよ」


 部屋の鍵を渡しながら、観光という名の支出行為を促す丸顔の主人はやはり商魂逞しい商人であった。


 掃除された部屋に戻ったセシルは一人でベッドに腰掛けていた。


 グレンの予定が狂ってしまったためにできた無為の時間である。


 部屋には表通りに面した窓があり、その窓からは晴れた空の陽光がさんさんと部屋の中に降り注いでいた。


 窓を開けて通りを見下ろすと、馬に跨った灰色の制服を着た男たちが列をなして進んでいるのが見えた。


 総督軍である。


 総督の護衛で来ているのであろう制服の男たちの列の中央に、二頭の馬に牽かれた重厚な馬車があった。総督が乗っていると思しき馬車が通りすぎるのを眺めながら、セシルはこれからどうしようか、と途方に暮れた。


 グレンは宿に戻った後ふてくされたかのように、部屋にこもってしまった。ただでさえ恐ろし気な顔を不機嫌そうにしかめ、腕組みしながら椅子に座っているグレンの様子がセシルには想像できた。


 グレンは急ぐ旅路ではない、と言っていたがどうにも総督という偉い人が出てきた、という点が気に食わないらしい。いや、気に食わない、というより面倒くさそうにしている。


 関わりたくないのだろうか、とセシルはグレンの様子から推測していた。やることもなく、ベッドに寝転がりながらセシルは無聊を慰めるようにぼんやりと考え込んだ。

 

 オーガが帝国の総督とどうして関わりたくないのか。


 単純に考えれば、過去に何か嫌な思い出とかがあるからだろう。例えば、総督軍とオーガが何らかの理由で衝突したりとかすれば、そういうことも起こりえる。そういえば、グレンは自分を傭兵崩れと名乗っていた。そして、あの湖で出会った初老の男は、昔の職場の上司だとも話していた。昔は傭兵をしていて、総督と敵対する者に雇われて戦ったこともある、ということなのだろうか。


 確かに今の帝国は内憂外患で紛争や暴動などがよく起こっているから、傭兵の出番は多いだろう。実際にランカークスにも傭兵崩れは多くいた。


 でも、とセシルは思う。


 それにしてもグレンは


 そんじゃそこらの強さではない。出会った時の多数を圧倒する姿もそうだが、黒衣の男との闘いなどはまるで物語にある聖騎士と悪魔の対決のようだった。あれだけの強さで戦場を暴れまわれば、絶対に有名所の傭兵のはずだ。


 だが、セシルはオーガの傭兵、というものを今まで聞いたことがなかった。少なくとも白の勢力圏ではとても珍しい存在のはずだ。ということは、グレンは少なくともこの帝国の中では傭兵として活動をしていないはずである。そうすると、グレンと総督の接点がセシルにはわからない。もしかしたら、グレンが勝手に権力者というものに苦手意識を持っているだけなのかもしれない。


 では、どうしてグレンは総督に苦手意識を持っているのだろう。


 そんなことを、だらだらと考えているうちに、セシルは眠りこけてしまったらしく、気づくと既に日はとっぷりと暮れており、既に街灯が点く時間になっていた。


 久しぶりに昼寝なんてものをしてしまったセシルは誰も見ていないというのにベッドから起き上がり、バツが悪そうに頭をかいた。随分と気が抜けているな、と自分で思ったからだ。


 ランカークスにいたころは、こんなのんびりとしたことなどしていられなかった。常に危険を回避するように意識を張り詰め、かすかな物音一つで飛び上がるほど眠りも浅かった。


 たった数日前だというのに、ずいぶんと昔の記憶のように感じる。


 ふと、急激に空腹感がセシルを襲ってきた。


 いいだけ昼寝をかましたあとに腹減った、とは我ながら呑気なものだ、と少しだけセシルは自分のことが嫌になった。


 自分の部屋を抜け出て、隣の部屋の扉をノックした。


 扉が開くと、もう一枚扉があった。


 と、思えるほどの巨体が目の前にある。


 ドアの枠をほぼ覆いつくすほどの体躯のオーガは自分を見上げる少女を見下ろしていた。


「なんだ?」

「えーっと……いつまでもそうしてても何も変わりませんから、ごはん食べませんか?」

「む? ああ、もうこんな時間なのか」


 グレンがそういうと、部屋からのっそりと出てきた。


 二人はこれからの旅路よりも、とりあえずは自分たちの腹の虫をおさめることを優先し、昨日と同じ宿にほど近い大衆食堂へと入っていった。


――――――――――――――

※考古・歴史学の部分についての記述は現実のものと相違がある場合があります。

 筆者の勉強不足です、お許しください。

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