遺跡と総督監査

3 遺跡の街

 翌朝、朝もやが朝日に照らされ、煌めくベールのように漂い始めた頃、天幕に戻ってきたグレンの足音でセシルは目を覚ました。


 グレンから貰った薬湯が効いたのか、特に悪い気分もなく、むしろランカークスにいた頃の寝起きよりすっきりした気分であった。


「よく眠れたか?」

「え、ええ」

「動けそうか? 気分は?」

「問題……ない、と思います」

「違和感や不調があったら、すぐに言え。何か、食べられそうか?」


 グレンの言葉にセシルは昨日からあの薬湯の他に何も口にしていないことを思い出した。


 その事実を頭が理解すると、セシルの腹は鈍感な頭の動きを罵倒して、自身の権利を声高に空腹と言う言葉で主張した。


「……もし、何かを頂けるのでしたら、口にしたい、です」

 

 昨日からの一連で忘れそうになっていたが、今や自分はグレンの従者だ。だというのに、それが昨日から主人であるグレンの世話になりっぱなしで、まったく何の役にも立てていない。その後ろめたさから、セシルの口から出た食事を乞う言葉は自然と小さくしぼんでいた。


「よし、ちょっと待ってろ」


 グレンはそれから手早く朝食の支度を始める。


 消えた焚火に薪を足して、もう一度火を起こした。旅装から調理道具と材料を取り出し、テキパキと無駄なく卵や腸詰を調理していく。十分も立たないうちに、温かく柔らかなパンとプレートの食事が渡された。


 パンも卵も腸詰も、セシルは久しく口にしていない。


 一瞬食べるのを躊躇してしまうぐらい、セシルにとっては高級品だった。手を付けないセシルを見かねたのかグレンが食べることを勧めて、セシルはゆっくりとひまわり色のスクランブルエッグを口に運んだ。


 一口食べたら、もう止まらなかった。


 グレンは無造作に素早く作っていたが、火の通し具合が卵、腸詰どちらも絶妙であり、味は勿論ながら舌触りや香りも豊かで、今まで食べてきたどんな食事よりもおいしく感じられた。


 グレンはがつがつと食事にかぶり付くセシルを自分で淹れたコーヒーを片手に眺めていた。


 その顔にはいつもの厳めし表情が張り付いていたが、幾分か眉間の皺が薄まり、口の端が少しだけ上方に傾いているように見える。


 慌てて食べるセシルの様子から察したのか、丁度セシルがむせ込んだタイミングで湯気の出るコーヒーが差し出された。


「すまないが、飲み物がこれしかない」


 そう言うグレンの言葉に問題無いことを言いたかったが、むせてせき込んでいたため、セシルは大きく首を縦に振ることしかできなかった。


 コーヒーを飲み干し、グレンに礼を述べると「それだけ食って飲めれば大丈夫そうだな」と存外気さくな口調で言った。


 その後二人は手早く身支度を済ませ、手分けして天幕と焚火を片付け、出発の準備を整えた。


 二人が道沿いに向かったのはハドリアンという街であった。


 ハドリアンは大きな街ではないが、白の文明の領域の辺境に位置する観光を主産業とする街である。中でもおよそ一二〇〇年前に栄えた人間の営みを良質な保存状態で残すウタカナ遺跡群が有名であった。その遺跡群が残す姿は現在栄えているどの文明にも見られない独特な様式を持っており、杉や樫といった丈夫な材木で緻密に作られた木造建築であったのだ。


 そういう特殊な点から、街の観光に使えると考えた権力者はそれまでの細々とした貴金属採掘から人を呼び込んで金を落とさせる観光業へと街の産業方針を転換させ、結果として大きく街は潤うこととなった。その副作用として、荒く整備されたために一部の遺跡群が破損し、研究は大きな停滞を強いられたが、権力者にとっては痛痒にも感じないことであった。


 こういった背景のある街であるため、当然街としての機能はランカークス跡とは比較になるものではない。というよりも、きちんと行政機能があるハドリアンと、盗賊の吹き溜まりであったランカークス跡とでは比較の対象になりえないのだ。そもそもランカークス跡は一般的な地図の中においても小さな記述でしか載らない場所であり、当時の世間一般の認識では街ですらない。ただし、ランカークスはかつて街であったから、広い世間ではそういう扱いになっていたとしても、その周辺で暮らす人々にとってみれば、舗装された道が繋がる地続きの場所でもあった。道があるということはその道からありがたくもない来訪者が時々現れたりすることを意味していた。


 グレンとセシルが舗装された道が通る木立を抜けると、目の前に小さな丘が見えてきた。その丘の上には砂色の壁がそそり立っている。街への侵入を阻むための壁と門だった。鋼鉄の門扉は遠目からでも閉じられていることがわかる。


 グレンはセシルを伴って門の近くまで近づいた。


「止まれ」


 門の前にいた番兵に呼び止められる。


「お前たちランカークス跡から来たのか?」

「そうだ」


 番兵は鼻で笑って答えた。


「だったらお前たちはこの街に入る資格は無い。さっさと自分のいるべき場所に帰るんだ。この契約失陥者ノーコンどもめっ」


 そう言って番兵は追い払う仕種をする。


 番兵にとって二人は招かれざる客だった。こちらの方面からくる者と言えば、金に困った傭兵か、さもなくば明らかに怪しい荷物を運搬する行商人と相場が決まっているからである。目の前にいるやけに身長差のある二人組もフードで顔を覆っているうえに、お世辞にも品がある装いには見えなかった。


「お前は字が読めるか?」

「何?」


 グレンの問いに番兵は不機嫌を隠さずに応答した。


「字くらい読める。外門警備兵を馬鹿にするのか貴様ッ!」


 グレンに食って掛かろうとした番兵の鼻っ面にグレンはいつの間にか取り出した一枚の紙きれを突き出した。


 色褪せた羊皮紙に見えるが、何と書かれているかセシルからは読めなかった。


 その後の光景はちょっとした寸劇である。


 まず番兵はその羊皮紙を無視して、この大小の差がありすぎる二人組を追い出そうと手に握った槍に力を込めたが、羊皮紙から視線を外す寸前に、ある個所に目が留まった。その瞬間、番兵の顔色が一瞬空白となり次の瞬間には赤くなった。


 視線が羊皮紙の一番上に戻り、書かれている文言を読み取るために左右と上下の運動を繰り返す。


 文言を読み進めれば読み進めるほど番兵の顔色は赤から青に変色していき、おそらく先程目が留まった場所まで視線が帰ってくるころには、すっかりその顔は蒼白から土気色にまで変色していた。信じられないものを見たのか、番兵は小さく首を振ると振り絞るような声で言った。


「……し、失礼、いたしましたッ……ど、どうぞお通りください」


 番兵は言うが早いか、即座に門扉の前に飛び出して、壁の上にいる兵士に開門の合図を出した。


「何見せたんです?」


 門を潜り、幽霊でも見たかのような顔で見送る番兵が遠ざかるのを確認し、セシルが尋ねた。


「……権力ってのは、権力に弱いもんだ」


 グレンはそれ以外何も言わず、さっさと歩いて行ってしまった。


 二人が街の中に移動すると城壁に覆い隠された街の全貌が見えてきた。


 二人の眼前には大きく沈んだ大地が広がっていた。丘だと思っていた場所は丘というよりも坂の頂上であった。坂の頂上から一直線に通る下り道は石畳で舗装された大通であり、その脇を固める形で土産屋や食堂や宿泊施設などが軒を連ねていた。坂道のふもとにあたる場所にこの街の役場があり、そこから左右に分かれた道の先にどうやらそれぞれ別の方面への門があるようだ。役場の建物の裏手側は更に一段と低くなっているおり、掘り起こされた真新しい土の黒黒とした色が、逆に赤レンガで作り上げた庁舎を際立たせている。


 観光街の名の通り、通りには様々な旅装に身を包んだ観光客が行きかい、商魂逞しい商人たちが客を呼び込んでいる。それらの雑踏から生み出される喧噪は活気としてこの街にあふれ、熱でも帯びているかに見えた。


 様々な姿の人々が右へ左へと行きかうので、その雑踏に踏み込んだ二人の姿はあっという間に街の日常の中に溶け込んでしまった。


「この街に何か用事があるんですか?」


 傍らを歩く偉丈夫に少女は尋ねた。


 雑踏に紛れているとはいえ、偉丈夫の頭は雑踏の中から明らかに飛び出している。


「特に無いな。休息と物資の補給に立ち寄っただけだ」


 その言葉で少しだけ、セシルの雰囲気が変化したのをグレンは見逃さなかった。


「どうした? 具合が悪いのか?」

「え? あ、いえ。具合は大丈夫です」


 セシルの体調はすこぶる良く、大きな黒い痣が体にできているとは自分自身でも信じられないくらいである。逆にグレンの心配する姿が申し訳なく思える程、普段通りであった。


「何か、この街でしたいことがあるのか?」


 体調ではないことを確認したグレンが別の可能性を述べる。


 その言葉にセシルは思わず口ごもってしまった。


 物心ついた時からセシルは流浪の身であり、一所に留まることはほとんどなかった。街への逗留というものも、要は次の街への中継地点みたいものであり、セシルにとって腰を落ち着けられた場所は、あの吹き溜まりだけであったのだ。


 見たこともない土地にやってきて、しかもそこが観光地だというのなら、観光の一つでもしてみたい、と少女が思うのは自然なことである。ただ、同時に従者の身分で、しかも病み上がりの自分がそんなことを希望するなど、おこがましいとも思ったのだ。


 その思いは口に出さずとも、態度に出ていたようである。先程からチラチラと、少女の視線が役場の背後にある遺跡群へと向けられていることにグレンは気づいていた。


「遺跡を見に行きたいのか?」

「えっ‼」


 少女はこぼれんばかりに目を見開き、歩を進める足以外の全てを硬直させた。


「――別に、構わないぞ。物資と宿を確保したら、行くか?」


 グレンの急な提案にセシルは言葉もなく、ただ首を大きく何度も縦に振った。


 その後グレンとセシルは町の食料品店で保存食などを補給し、役場のほど近くにある宿に部屋を借りた。荷物を整理し一息ついたところで、グレンがセシルに新しい布地を渡してきた。


「持っておけ。それじゃあ悪目立ちしすぎる」


 それは新しい外套であった。造りが確りしており、値が張ることが一目でセシルは分った。


「こ、こんな良い物受け取れません」


 一体自分の稼ぎの何日分になるのだろうか、とセシルは恐れ多くなりそのオリーブ色の外套をグレンに返そうとした。


「そんな弱くて薄い上着だとお前の方が見世物になってしまうだろ」


 それだけを言って、グレンは外套を受け取らず、そそくさと自分の部屋へと戻っていった。その場には呆気に取られて真新しい外套を握りしめて茫然と佇むセシルだけが残された。


 先ほどの話のとおり、程なくして二人は遺跡群の方角へと繰り出した。返すタイミングを逸した上に、何より本当に寒かったので、セシルは後ろめたさもありながら、新しい上着を羽織るしかなかった。その姿を見てグレンは「ぴったりのサイズだな」と簡潔すぎる感想を漏らすのみであった。


 発掘現場には既に整理され一般に公開されている部分と、進行形で採掘されている部分がある。観光地として公開されているのは前者だ。ウタカナ遺跡群は火山噴火による堆積物によって地表から地下へと埋もれた遺跡群だ。木造の遺跡群は白の文明圏ではここを除いてどこにもない。そもそも、白の文明は岩を削り、石を積み重ね、居住の空間を作り出す文明である。石工の技術はあるが木工の技術は他の文明には劣るのだ。


 むしろ木工の技術は青の文明の得意とするところだ。白の文明圏は基本的には平野の土地と岩山が多い。一方で青の文明は湿地と海、そして深い森林を抱えている土地が多いのだ。中でもエルフは深い森の中を住みかとするため、木工と言えばそちらが一般的である。しかし、青の文明は自他ともに認める秘密主義の本拠地でもある。他文明に自分たちの生活様式をおいそれと公開する気質の持ち主たちではない。この時、詳しい木工の情報を公開した成果物はハドリアンのウタカナ遺跡群しかなく、もともと岩山と平野の地域に突如として現れた木工の遺跡群は、この地域の地理研究に一石を投じるものであった。


 遺跡群の整理された区画には遺跡を補修、復元したジオラマや研究成果を貯蔵、報告する図書館や博物館といった教育研究機関が集中していた。


 グレンとセシルは博物館の一階に設置されたジオラマを見ていた。柱、床、屋根、扉、生活用具に至るまで本物の木材で当時のものを再現していた。ここをかつて使っていた者たちの息遣いが聞こえてきそうなほどの精巧さである。


 展示物に付いている説明書きや補足解説のパネルなどを読んでもセシルには何を意味しているのかは解らなかった。けれども、木切れや土器の破片の一つ一つが綺麗にガラスケースの中に並べられている光景は今まで見たことの無い不思議な景色であった。


 セシルはこういった公的機関、それも教育施設を利用するということ自体が初めての経験なのだ。整然と並んだ資料や人の気配はするのに話し声や怒鳴り声が聞こえない静かな空間。頑丈でありながら、上品さのある木材や石材で装飾されたフロアの内装。この博物館という空間そのものがセシルには全て新鮮だった。


 自分の中の何かが満たされるような感覚をセシルは生まれて初めて味わう。解らないことだらけだが、ここに来なければこういうものがある、ということさえ自分は知らなかった。解らないということが解かったのだ。そう思うともっと自分の知らないものを見てみたいという気持ちが膨らみ、自然とその足は展示室の奥へと向かった。


 セシルが復元された木造家屋を興味津々に見つめている横で、グレンは陳列棚に置かれている物体を眺めていた。


 その物体は一定の幅で切った木片をひもでつなぎ合わせて一繋がりにしたもので、木片の表面には墨と思われる塗料で文字が書かれている。


「それが気になりましたか?」


 聞こえた方向に首を向けると、展示ケース脇から繋がる通路に、よれた白衣にビン底の眼鏡をかけた中年の男が立っていた。お世辞にも整っているとはいいがたい毛髪と、黒髪に多く混じる白いものが余計に男のくたびれ度合いに拍車をかけている。


 男は分厚い書物を脇に抱えながらも、グレンの方にすごい勢いでにじり寄り、グレンが何も尋ねていないのにも関わらず勝手に話し始めた。


「それは『木簡』という木で作られた情報を書き留める媒体です。要は今の我々でいうところの紙ですね。いやー、このフロアに資料は数あれども、コレに着目なさるとは、中々の慧眼です。というのもですね、現在の研究はこの木簡の内容が非常にホットになっておりまして、解読が進めば遺跡の歴史についての大局的な――」


「……何と書いてあるか判るのか?」


 グレンの横で捲し立てる様にして猛烈に解説をする男にグレンは初歩的な質問をした。男はしゃべり続けながらも、グレンの声を聞いたのか、はっとして平謝りし、頭を掻いた。


「好きなこととなると、夢中で話してしまう癖がありまして。我ながら悪癖です。先程の質問ですが残念ながら、まだ完全に解明するには至っていません。言語体系は今の言語とそれほど変わっていないのですが、何分古すぎるのと、保存状態が悪くて、欠損箇所が多く、細かなニュアンスまでは分かりませんな」

「完全、というからにはどのような意味合いの文章であるかは判っているんだろう?」


 男は大げさなほど大きく頷いた。


「ええ、おそらくは報告書だったのだろうと思います。治水工事に関する進捗報告のようなものだったのではないかと。『工事は順調に進んでいるので、運用開始の期限までには間に合いそうです。しかし、想定以上に土が柔らかいため、より安定させるために人員と資材の追加をお願いします』と。まァ、そんな感じだったのではないかなと推測しています」


「あんた、名前は?」

「ああ、申し遅れました。私、この遺跡群の発掘調査をしておりますアンダーソンと言います」


 そう言ってくたびれた白衣の男――アンダーソンは頭を下げた。


「アンダーソンさん、さっきの推測だが……どうして『治水』工事だと判断したんだ? 文面だけなら工事関係の報告書としか読み解けていないようだったが……」

「それは、木簡の最後の部分に時の権力者の印影があるからですね。その権力者は複数の印を用途ごとに使い分けていました。この木簡にある印影は土木工事や治水工事に使われる印影なのです」

「印影の用途からある程度対象を絞れるかもしれないが、やはり『治水』と断定できる材料としては弱いだろう。ほかに何か理由があるんじゃないのか?」


 グレンの質問にアンダーソンは淀みなく、むしろ嬉しそうに答えた。


「地層状況や既に発掘された他の木簡や遺物などと照らし合わせると、当時この辺りでは大規模な水害が起きていたことが確実視されています。確かに断定する決定的な証拠ではありませんが、他の状況証拠から類推するに、まず治水工事の関連の報告書とみて間違いないでしょう」


「水害ね……」


 グレンがいぶかしむ様子でこぼした。


「だがこのあたりの地質的にはそもそも、氾濫するための大きな河川がなかったんじゃないか?」


 この一言に白衣の研究員は目を輝かせて、感心を現した。


「よくご存じですね~。もしや学者の方で? 随分と体格がよろしいようですが」

「だとしたら、そこの説明はどうする?」


 グレンは学者の質問には答えず更に質問を重ねた。学者は自らの質問を遮られたのにも関わらず気分を害した様子もなく、むしろ水を得た魚の如く嬉々とした表情で語りだした。


「だからこそ、やはりこの遺跡群は大いに歴史的な価値がある、と言えるのですな。おっしゃるとおりで、この地はもともと広い平野が延々と続く地質です。人が生活するための河川や水源は限られた場所にしかなく、この地はその水源や河川からは遠く隔絶している。しかし、そうだとすればやはり奇妙なんですね! 生き物は水分無しで生きていくことはできませんから、そもそも水源も何もないところに集落を作る意味がないわけです。さらに言えば、治水用の道具は発見されるのに『水』だけがない、なーんてことは、それこそ説明がつきません」

「事実と事実が矛盾している、ということだな」


 グレンは大きく頷いた。


「それにしても、あなたも随分とお好きなんですね、歴史が。本当に素人さん? やっぱりあなたも研究者なんじゃ」

「いいや、俺は学府の連中の言う『上等な脳髄』なんてものとは対極に位置する。ただの傭兵崩れってやつだよ」


 グレンの紹介にアンダーソンは再び驚きを感じたようだ。


「傭兵さんでしたか! そいつは意外でしたな。まるで木簡の文字を最初から読めていたようにお見受けしましたが?」

「すまなかったな、本職に対して試すような言い方をした。非礼を詫びる」


 グレンは謝罪の弁を述べるとアンダーソンに対して頭を下げた。


「いえいえ! こちらこそ在野の識者とお話ができてうれしい限りです」


 そう言うアンダーソンの目には歴史好きの同志を発見した、と言わんばかりに爛々とした光が輝いている。心なしかアンダーソンが更にグレンとの距離を詰めているようにセシルには見えた。


「識者と呼ばれるような知識じゃない。このあたりのものを適当に眺めて、適当に思ったことを言っただけだ。それにあんたが俺の質問に分かりやすく答えてくれたから、こっちも質問がし易かったんだ」


 グレンの言葉に感じ入ったのか、男はニコニコと人懐っこい笑みを浮かべて言った。


「そう言ってくださると、とても励みになります。あなたの知識は専門家も顔負けですよ。どうか卑下などなさらないでください。すでにあなたはこの遺跡群の最先端の研究事項について核心となる考察をなさっていたのですから。こりゃ、我々としても立つ瀬がありません。あ、決して遠回しに非難しているとかじゃないんですよ。本当に素晴らしい観察眼と論理的思考をお持ちの方に出会えたと私、いい年をして感激してしまいましてね。是非とも詳しくご見解をお伺いしたいのですが……」


 アンダーソンはそこで不意に言葉を切って、今までの喜色から打って変わり、別人のような仏頂面になった。


「大変申し訳ありません。先約がありまして、私はこれにて失礼させていただきます。奥の方にもまだまだたくさんの資料がございますので、隣のお嬢さんと一緒にごゆっくり見学なさってください。それでは……」


 白衣の男はセシルの方にも一礼して、グレンたちの脇をすり抜け、博物館の出口へと向かっていった。


 セシルは今までのグレンと研究員とのやり取りを唖然となって聞くことしかできなかった。やり取りもそうだが、アンダーソンの熱気というか人柄も強烈な印象に残るものであったからだ。


「す、すごかったですね。今の人」

「ああ」


 グレンは表面上何も感じている風ではなかったが、内心ではあの迫力に面食らっていたらしい。セシルに相槌を打つグレンの声が若干引きつっていたのをセシルは聞き逃さなかった。


 それにしても、とセシルは思う。


 一昨日の出会いから、セシルはグレンという男に驚かされてばかりだった。大勢の盗賊相手の大立ち回りや、想像を絶する強敵との対峙、セシルが寝込んでいる間に野営の準備もそつなくこなしている。そしてこの博識ぶりだ。セシルの中に何となくあった、戦闘民族としてのオーガのイメージはこの大男にまるで当てはまらない。理知的で寡黙だ。少しぶっきらぼうな印象はあるが、横暴ではない。と、言うより怪我した自分を親身に世話してくれたその人柄は横暴などではなく親切だ。どうして、彼はここまで自分に親切にしてくるのだろう。セシルの頭に今更と言えば今更な疑問が浮かんだ。


「どうした、俺の顔に何か付いているのか?」


 フードの下から覗く表情は火山岩の岩肌のようにおおよそ愛想というものとは無縁そうな造りだ。けれども、この短い時間の付き合いの中でセシルにも分かったことがある。二つの瞳に宿る光には、どこか懐かしさを覚える温かみがあるようにセシルには思えたのだ。


「いえ、さっきの人じゃないですけど……歴史がお好きなんですか?」


 セシルの問いにグレンは視線を外して、あらぬ方向を向いてあごに手を当てる仕種をした。


 何と答えるべきか思案しているようだ。


「……必要に迫られて、といった所だな」

「必要?」

「趣味と実益を兼ねている、とも言える」


 歯切れ悪く言うグレンに、ますますセシルの中のグレン像は不可思議さを増していくのであった。


 博物館の内部はセシルたちが思っていた以上に広く、午後のちょっとした時間では周り切れないことを二人は悟った。


 セシルとしてはほんの少しでも、今まで見たことのないものを見られただけで満足であった。博物館の隅から隅までを見て回ろうと思っていた訳ではない。だから、頃合いを見てグレンに退館を促し、宿へと戻ってきたのであった。


 自室に戻ってきたセシルの胸の内は弾んでいた。その一方で、弾んだ胸の内が着地点の見えない変な方向へと飛んでいきそうな、妙な緊張を感じていた。


 博物館からの帰り道でグレンから夕飯に誘われたのである。


 グレンにとっては至極当然な誘いであったのだが、セシルは誰かと夕飯を、それも飲食店で共にするという経験が無かったので、軽いパニック状態に陥っていたのだ。


 ものごころが付いた時から流浪の身であり、貧しかったセシルにとって、誰かとまともな食事を摂るという経験は母親以外に無かった。二人で食べる食事は会話も弾み、温かくておいしかった、と記憶している。一人で食べる食事はほとんど必要に駆られてやっていた補給行為だった。味について話す相手も、その不味さに文句を言う相手もいなかった。また誰かと温かな食事ができる、というその一点だけで、セシルは博物館を回れたのと同じくらいの嬉しさを覚えた。その一方で、主人であるグレンと食事を共にしてよいのか、という不安もあった。何を話したらよいのか、何を話したらだめなのか。そもそも、食事中に話すのを良しとする人なのか。


 そういう、グレン本人にとってはどうでもいいことで、セシルは食事までの時間をあてがわれた部屋で悶々と過ごすことになった。

 日も沈み、夕食時となると二人の姿は宿のすぐそばにある大衆食堂にあった。


 テーブル席で向かい合う形で大男と少女は食卓を囲んでいた。


 グレンの体はテーブルの一辺を占領して余りあり、収まりきらない巨体が通路側にはみ出している。


 グレンはフードを外し素顔のままでセシルを伴って入店した。見上げるほどのオーガの姿に少しだけ店の客たちの注目が集まったが、ハドリアンでは異種族が珍しくないのかすぐに無くなった。実際に、角のテーブルでゴブリンの団体客が忙しなく山盛りなった鶏肉に齧り付いているのをセシルは見つけた。


 注文はグレンが行い、セシルの目の前にグレービーソースがたっぷり掛かったポテトや色鮮やかな野菜サラダ、大きな魚のフライと言ったごちそうが次々と並んでいった。


 飲み物はグレンがビールで、セシルは炭酸入りのミネラルウォーターだった。


 好きなだけ食べていい、とグレンに勧められたのでセシルは誘われるように茶色くなったマッシュポテトを口に運び入れる。


 ただポテトを食べただけなのに、セシルはこの店の味が生涯忘れられない味になると確信した。そう思ってしまうほど、彼女の舌に衝撃の美味さをもたらしたポテトを皮切りに、次々と並べられた料理に手を付けた。


 もくもくと食いつくセシルとは対照的にグレンはその大きな手でナイフとフォークを器用に動かし、丁寧な動作で食べている。それでも二人が食事を終えたのはほとんど同じタイミングであった。


 テーブルの料理を食べ尽くして、一息ついたところでセシルはハッと何かに気づき、顔をこわばらせた。


「どうした?」

「いえ、その……」


 セシルが言い淀み、上着の中の体をもぞもぞと動かしている。


「金ならいいぞ」

「あ……い、いいんですか?」


 恐る恐るセシルは尋ねた。


「子供にメシをたかろうなんて思っちゃいないし、自分の分だけ出して帰るつもりもない。そもそもお前は路銀を持っているのか?」


 そう言ってグレンはビールの残りを飲み干した。


「宿代もありません……」


 セシルが自分の寂しすぎる懐事情を吐露する。


「あのな、セシル。最初から気になっていたんだが、お前、俺のことを主人か何かと思っているのか?」

「え、そうじゃなかったんですか?」


 セシルの切り替えしに、グレンは小さく唸って大きな渓谷を作っている眉間を揉み込んだ。


「俺は別に奴隷を拾った訳じゃない。確かに命をもらう、と言ったがそれは旅の道連れとして付いてきてもらうって話だ。あと、子供の面倒は大人が見ると相場は決まっている」

「で、でも私はグレンさんを騙して、身包み剥がそうとしたんですよ? 殺されても文句を言えない立場です。それを助けるだけじゃなく、面倒まで見るって……」


 セシルはグレンの意図が解らない。


 今までセシルが十数年生きてきて分かったことは、世の中自分のことは自分でどうにかするしかない、ということだった。誰かがお金を恵んでくれる訳でもなかったし、誰かが寝床や食事を用意してくれる訳でもなかった。それが当然だとセシルは思っていた。


「お前、あの街で母親と死に別れてから何年経つ?」

「四年です」

「四年間一人で生きてきたんだろう? 誰からも養われず、守られず。死体漁りと盗賊の手伝いをしながら、一日一日を食いつないできた。違うか?」

「そ、そうです」

「大したもんだ、と感心したんだ」


 グレンがセシルをまっすぐ見つめながら言った。


「あんな街で、四年間も一人の力で生き抜くってのは並大抵のことじゃない。大人でも根をあげる。小さいのに中々根性があるな、と思った。お前ぐらいの子供もいるかもしれないが、大体は誰かの庇護下に入っているだろう?」

「そ、それは買い被りです。私は、そうする以外を知らなかったんです。街の外に出ても、行く当てもありませんでした。それに庇護下にあった子たちは色んな技能を持っていましたから。私みたいな、大した能力の無い人間はあの街じゃ誰も価値を見出しません。だから、私は取引関係にありこそすれ、守られるほどの価値は無かったんです」


 あの宿屋の主人には守られたことなど一度もない。小間使いとして使役されていた、と表現するのがせいぜいだ。辛く、みじめな生活だったが街一番のならず者の仲間だ、と周囲に認識されていたおかげで、余計なトラブルに巻き込まれることは無かった。


 だがそんなろくでもない思い出しかない場所でも、セシルにとってはあの街が自分の全てだった。黒く煤けて風化したレンガ造りの建物。そこかしこに捨てられた死体を含む汚物から発せられる悪臭。自分のことだけを考えて、毎日を生きる人たち。なじられ、殴られ、搾取されるだけの毎日をただ過ごしてきたし、それがずっと死ぬまで続くのだと思っていた。


「毎日、精いっぱいだったんだろう?」


 グレンの声はセシルが初めての聴く響きだった。


 それは低く深くも、胸の奥が温かくなる響きだった。


「ならやっぱりお前は大したもんだ。その年で誰の手も借りず、毎日を精いっぱい生きていたんだからな。だから、面倒を見るってのは、お前の今までの頑張りに対しての、ささやかな報酬ってことだ。そのぐらい貰っても誰もバチなんて当てやしない」


 セシルの無言を肯定と取ったグレンはその厳つい顔に似合わない優しい声でそう付け加えた。


「……ありがとうございます」


 セシルはその言葉を絞り出すだけで精いっぱいだった。


 色んな感情が頭を巡ってうまく言葉が出てこなかったのだ。

ただ、自分がとても幸運だということだけははっきりと断言できる、とそう思った。


「そういうことだから変に尽くそうとか、自分を下に見せようとかしなくていい。困ったことがあったら言って欲しいし、解らないことがあれば聞いてくれていい。俺の出来る範囲で対応する。それから路銀や生活用品も俺の持ち物を使え。子供一人増えたところでどうということはないからな。つまり、俺とお前は主人と従者じゃなく、対等な旅の仲間ってことだ」


 賑やかな旅もたまには悪くない、とまるで自分に言い聞かせる風に呟いたグレンに丁度新しいビールが店員から届けられた。大ジョッキを傾けて、彼にしては随分としゃべった口に水分をたっぷり補給してやる。


 対等な仲間、という存在はセシルにとって馴染みのない存在だ。セシルの狭い人間関係は母と娘、雇用者と労働者、主人と奴隷の三つしかない。いずれも強弱や性質の差こそあれ上下関係と呼ばれる代物である。対等な関係ということは、上から下への一方通行的な強要は無い、ということなのだろう。


 戸惑いはあるが、新しい関係の相手が出来たことは素直に嬉しかった。養ってくれるという即物的なことではなく、自分という人間に対して、そういうことを思ってくれる人柄がありがたかったのだ。


 グレンとの関係が一つ変化したところで、セシルは口を開いた。


「あの、それじゃあ、もう少し尋ねてもよろしいですか?」


 対等な関係と言われたのに、敬語が抜けないのは単純にセシルの性格である。対等な関係と言われて、即座に砕けた言葉を使えるほど、面の皮は厚くない。けれども、どうしても尋ねたいこともあるのだ。


「そもそも、グレンさんの旅の目的って何なんですか?」


 出会ったときははぐらかされてしまったが、自分のような子供を連れて何故旅をするのか、その理由をセシルは改めて問うた。


 グレンはその質問にすぐには答えなかった。


 押し黙って、前回と同じように質問を流すかと思われたが、テーブルに目線を落としたまま、口を開いた。


「――お前、九人の隠者の話を知っているか?」

「九人の隠者?」

「世界を造ったお伽噺だ」

「ああ、それって九人の魔法使いの話ですよね? それぞれが空とか大地とか時間とかを造ったっていう」


 それは世界中のどこでも語られ、記されているお伽噺である。


 太古の昔、この世界には光も闇も、時間も空間も、生き物さえ何も無かった。そこにどこからか九人の偉大な魔法使いが現れた。九人は相談して何もないこの世界に恵みを与えようと決めた。ある者は空を、ある者は大地を、ある者は光を、ある者は闇を。そうして九人が手分けして造り整えたのが、自分たちが生きるこの世界であった。九人は世界を造り終えると、各々が抱えていた事情により一人また一人とこの世界から去って行き、最後の一人が大きな祝福を残して去った。


 以上の内容がセシルの知っているお伽噺であった。


 それと、グレンの旅にどんな関係があるのか全く予想が出来なかった。すると、グレンの口からセシルの想像を超える言葉が出てきたのである。


そいつらに会いに行く、と。


「へ?」


 セシルは自分でも相当間抜けな声が出たと思った。


「いや、会いに行くって……昔話ですよね? いるはずないじゃないですか。ずっとずっと大昔の話で、四つの文明が発生するよりも遥か前のことですよ?」

「まだいるぞ、あいつら」


 グレンは実にあっけらかんとした口調で言った。


「まだいるって、そんないつまでも帰らない飲み屋の客じゃないんですから」


 セシルの言葉に、グレンが破顔した。厳つい表情が更に凶悪な面相に変わった。セシルも今なら解るが、これは怒っている顔ではない。


「そいつはいい。帰らない飲み屋の客か。言い得て妙だな。だが、本当にあいつらは今も存在している。何人かには既に会った」


 グレンは酒に弱いのだろうか、とセシルは訝しんだ。今日日、酔っ払いだってこんな与太話はしない。そのぐらい九人の魔法使いの話は有名なのだ。有名過ぎて誰も話題にしないレベルである。


「信じられないのも無理は無い。奴ら俺たちと変わらない姿をしているしな。そうだ、お前の出身地の帝都にも一人いるぞ」

「帝都にですか? そんな話聞いた記憶ないですけど……」

「ほら、あの自称『炎の伝道師』」

「え? ロダンのことですか?」


 グレンが言っているのは帝都で人気の音楽家ロダンのことなのだろうか。今や帝国で知らない人はいない、と言われる程の超売れっ子の人物とセシルは記憶していた。伝え聞いた話だとこのロダンという人物はあらゆる楽器を弾きこなす技量の持ち主で、その圧倒的な演奏に魅了された観客がいつも公演に殺到して満員らしい。聴く人の魂を揺さ振るような演奏からそのあだ名がついたそうだ。余りの人気っぷりからコンサートのチケット入手が難しく、数年先まで待たないといけない、と聞いている。


「ロダンって、普通に若い男の人だったと思うんですけど?」


 新聞に載っていたロダンの顔は若々しくて精悍な顔付の青年だった。どう考えても何千年も生きているようには見えない。


「奴ら年を取らない上に外見も自在だからな」


 さっきからグレンの口ぶりはすこぶる自然だ。からかっているでも試そうとしている風でもない。それともこういうのがグレン流の冗談なのか、とセシルは心の中で眉に唾を付けた。


 今までのセシルであればこういう話は頭から信じようとしなかった。一方で、昨日の湖の一件を経験してしまうと頭ごなしに怪しいとは決めつけられなくなってしまったのも事実である。


 それまでのセシルの常識を粉々に粉砕してしまうような出来事だったのだ。グレンと黒衣の男との激しい剣戟はこの世の出来事とは思えないほど熾烈だった。ああ言うのを超人同士の対決と言うのだろう。速すぎてセシルには具体的なことは分からなかったが、それでも交わされていた死線の凄まじさは目と肌を通して伝わってきた。


 その後のこともだ。


 何が何だか分からない内にセシルはあの男に脇腹をえぐられ、激痛で意識を失い、不気味な夢を見て、気がついたら脇腹に傷は無く、代わりに火傷のような形をした黒い痣が出来てしまった。


 他人からこういう話をされてもすぐには信じられないよな、とセシルは思った。ただ、実際に経験したことも口に出して伝えると、陳腐ででたらめな印象を与えてしまう。もしかしたらグレンの話もそういうことなのかもしれない。


 セシルの思考は徐々にグレンの旅の目的という部分からずれていき、取り敢えずはその目的を理解することにした。魔法使いの存在の真偽については、グレンに着いて行けばいずれ分かるだろう、と思ったからだ。


 旅の目的の他にもう一つセシルは気になることがあった。


 昨日の出来事である。


 何でも聞いていいという言葉に甘えて、昨日の黒衣の人物について尋ねると、グレンの表情が少し曇った。


「ああ、あの爺さんか。あいつは俺の元上司だ」

「雇い主ってことですか?」

「いや、傭兵の領分じゃないことも随分させられたからちょっと違うな。ま、良好な関係ってのからは程遠い。旅をするためにも辞めたかったんだが、辞めさせてくれなくてな。仕方ないから尻尾巻いて逃げ出したら、狩人自らお出ましって訳だ」

「狩人?」

「一部ではそう呼ばれている。『宵闇の狩人』ってな」


 猛禽類のような鋭い視線を放つ黒衣の男は確かに言われてみれば、獲物を狩る狩人と言われれば納得させられるものがある。一方で上等な服装は狩人というよりは、その主人にあたる貴族や、上級役人のようにもセシルには思えた。


 昨日の記憶をなぞる中でセシルはあることを思い出した。


「そういえばあの人、グレンさんに何か返せって……」

「ああ、それはコイツのことだ」


 そう言って、グレンは右腕の袖をまくり上げた。


 表れたのは、金属の腕であった。複数の大小様々なパーツを組み合わせた物で腕の形を作り上げ、それを輝くような銀色の光沢をもつプレートで覆っている構造だ。


「か、片腕は義手だったんですね」


 セシルが驚くのも無理はなかった。


 あの狩人と切り結んでいたグレンの動きはとても義手を付けているとは思えないほど凄まじい速さと正確さがあるように見えたからだ。義手の性能が高いのか、グレン自身の技量が飛びぬけているのか、戦闘の素人であるセシルには判じえないところである。


「そうだ。あいつはこの腕を返せと言ってきたのさ」


 そう言って、グレンは袖を戻した。


「どうしてですか?」

「これは条件付きで与えられた代物でな。正確には俺の持ち物じゃなく、あの爺さんの上司の持ち物だ。だから借りパクさ。コソ泥と変わらん」

「腕って、返せるものなんですか? 代えの腕を付けてもらえるとか?」

「いや、新しい腕なんて付けちゃくれないさ。だからあの爺さんは俺を殺すか捕まえるかして、腕を奪おうとしたんだろうよ」


 料理の感想を述べるように自分の生死を語るグレンを見て、この人も自分と同じでまともな身の上ではなさそうだ、とセシルは思った。


「……グレンさんも、訳アリって感じの方だったんですね」

「長く生きているとな……色々あるもんだ」


 そういえばグレンは幾つぐらいなのだろうか。


 自分と同じヒューマンなら判り易いが、オーガの年齢は外見からは判断がつかない。ただ、言動の端々には重ねてきた年月の厚みを感じさせるものがある。老いて衰える方ではなく、降り積もって山となる、という表現に近い。


「他に聞きたいことはあるか?」


 グレンの促しに、もうありませんと言いかけてセシルの脳裏に浮かんだ物があった。


「昨日あの人に気絶させられた時に……夢を見たんです」

 

 セシルは意識を失っている間に見た、あの真っ暗闇での出来事を思い出せるだけ正確に語った。


 セシルが語り終えた時、グレンは一つだけ質問をした。


「聞こえた声に聞き覚えはあるのか?」

「いいえ、初めて聞いた声でした」


 グレンはふぅむ、と唸って顎に手を当て真剣に考え込んだ。


「夢っていうのは隠れた自分の現れと解釈する考えがある。自分でも押し殺して無自覚になった欲求とか、こうしたい、ああなりたい、という願望。そして、過去と未来の自分自身あるいはその可能性。俺は夢見の専門家ではないから、ただの受け売りだ。だが、お前が受けた痣とその夢が何の関係も無いってことはあるまい。痣ともども注意した方が良さそうだな」


 その回答を最後に二人は食事を終え、宿に戻った。


 それぞれの自室に引き取る前に、グレンから昨日セシルが寝る直前に渡されたキツイ匂いの飲み物を融通しようか、と尋ねられたが丁重に断った。今日の体調はむしろいつもより良かったし、夢見程度でグレンに手間を掛けさせるのも、申し訳なかったのだ。


 お休みなさい、と何年かぶりに就寝の挨拶をして、セシルはベッドに潜り込んだ。まともな寝台で眠ることも本当に久しぶりの事で少し浮かれた気分のまま瞼を閉じる。


 この日、セシルは夢を見なかった。

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