2 邂逅

 ランカークス跡を出た緋色の旅装を纏った男は西へと足を進めた。


 晩秋の頃、吹きすさぶ風は日中でも容赦なく生物の体温を奪う。冬への備えを整えられていない者はこの冬を越すことはできないだろう。この年の冬は長く厳しいものだったと、記録されている。


 男の足取りはランカークスに訪れた時と同じように、旅装の靴で淡々と進む。吹き抜ける風などないかのように、その足取りは確りとしたものだった。


 その後ろに小柄なセシルが続いていた。


 セシルはボロ布のような外套を巻き付け、吹き付ける風に外套を剥ぎ取られそうになりながら、何とか男について行った。その歩調はえっちらおっちらとふらつき気味であり、少し危なげである。男はちらりとも後ろを振り向かなかったが、セシルとの距離が離れすぎそうになると、足を止めて小さな道連れが近づくのを待つのだった。


「疲れたか?」


 男が尋ねる。


「大丈夫です」


 セシルが小さく答える。


「そう言う割には、先ほどから歩幅が減っているが」


 男が静かに事実を告げると、セシルは反射的に謝った。


 男は無言であたりを見渡した。


 セシルは大男に追いつくために足を動かし続けながら、昨夜の事を思い出していた。


 男の手を借り、抜けた腰で震えながら立ち上がったセシルに男はああ、と何かに気づいたかのように呟いた。


 おもむろに男はセシルの背後でかがみ、その岩石のような手をセシルの腰に宛がうと、ぽんと一発はたいた。動作としては軽いものであったが、その巨体から繰り出される力は見た目以上であった。

 

 セシルは前方に大きくよろけて、思わず飛び出した右足で大きく踏ん張って耐えた。


「これで動けるだろう?」

 

 その強い衝撃に抗議しようと振り返った時、腰が抜けて力の出なかった身体に力が入っていることに気づいた。


「名前を聞いておこう」

「……セシルです」

「……そうか、俺はグレンという。ただの傭兵崩れだ」

「わ、私は……えーっと……しがない掃除屋、です」

「掃除屋? 暗殺でもしていたのか?」


 グレンと名乗った男が怪訝そうに問うた。


「いえッ! そ、そんなことはしていません。あ、あの……し、死体集めをしています」

「ああ、それで『掃除屋』か」


 グレンは納得したように、頷きながら言った。そう言いながら、フードの下の視線はセシルの容姿を確かめるように彼女の足元から頭のてっぺんを一流しした。


「……この町の生まれか?」


 グレンが一呼吸入れて尋ねてきた。


「いいえ、元は帝都の生まれです」

「……親は?」

「この街で病に罹って、亡くなりました」


 グレンは感情の籠らない声でそうか、とだけ言った。


 そして、セシルに告げる。


「さっきも言ったが、お前の命は俺が貰う。しばらく俺の旅に付き合ってもらうぞ」


「は、はい。それでご助命いただけるのでしたら」


 セシルとしては何の文句の言い様も無かった。


 金を強奪するために宿に引っ張り込んだ客引きを助命するような理由は、引っ張り込んだ当人でも見つけられない。もし相手が街の他の連中であれば問答無用で殺されていただろう。

 

 そのため、セシルは助命した理由を問わずにはいられなかった。


「あ、あのぉ……こ、こんなことを聞くのは変かもしれませんが、どうして私の命を助けてくれたのでしょう?」


 最底辺の死体漁りである自分を生かして何の得になるのか、弾除けや売買にでも使うのだろうか。けれど、先程自分のことを傭兵崩れと称していたはずだ、とセシルはグレンの目的について勝手に想像を膨らませて、勝手に一人で暗い気分になっていた。


「なんだ、やっぱり死にたいのか?」


 グレンは何でもない様な言い草で、セシルに言った。


「そ、そそそ、そんなことはありませんッ! 嫌です、死にたくないですッ! 死にたくないですともッ!」


 セシルは大慌てで首をちぎれんばかりに左右に振って、否を示した。


「なら、理由なんてそれでいいじゃないか」

 

 セシルの必死の否定を質問の時と同じくらい何でもない様な態度で見て、そう言った。

 

 それ、とは何のことだろう、とセシルは疑問に思う。死にたくない、という命乞いのことだろうか。そんなことで殺そうとしてきた相手を、この男は見逃そうというのか。それではまるで気まぐれではないか。

 

 セシルは自分が助けられた身であることを承知しつつも、奥歯にものが挟まるような心地であった。

 

 もやつく頭を抱えるセシルにグレンが問いかけた。


「このままボーっとしていると、さっきの奴らが応援を呼びかねん。このまま出発するが、持ち物を取りに戻りたいか?」

 

 セシルは一瞬迷ったが、戻らなくてよいと答えた。

 

 戻ったところで、持ち出すようなものがないのだ。この身一つでどこにでも行ける。

 

 そう思った時、セシルはふと気が付いた。

 

 きっと自分はもうこの街に戻ってくることはない、ということである。旅の従者という外付けの理由があるとは言え、出ると決めれば、こんなにもあっさりと自分を縛り付けていた忌々しい場所から離れられる。その認識を得た時、セシルは自分の中で渦巻いていた何かどろどろしたものが、少しだけ薄くなったような気がした。

 

 夜明け前にランカークス跡を出立してから、太陽は中天を少し過ぎた頃合いである。グレンにとってこのくらいの旅程は、休憩など挟むに値しない。ランカークス周辺は険しい山や谷があるわけではなく、なだらかな平地が続く地形だ。グレンの足であれば、休憩を取らずに隣の領地まで歩ける距離であった。

 

 しかし、今は連れがいる。


「このまま街道を少し行くと、小さな湖がある。そこで休憩だ」

 

 グレンはそう告げて、再び歩き始めた。

 

 セシルは休憩の報せを聞いて多少元気を取り戻したのか、ふらつき気味だった足取りがやや持ち直した。

 

 小さな丘を登り切ると、セシルの眼前に湖が広がっていた。

 

 波紋一つ浮かばない湖面は青空と雲を写し取っており、さながら巨大な一枚鏡のように、その地平に横たわっている。湖は周囲を小山に囲まれており、山に生える木々は赤や黄と様々に色づいていた。

 

 セシルの先を行っていたグレンは、湖のほとりにある大きな楓の木の下に佇んでいた。


「火は起こせるか?」

「道具があれば、できます」

 

 グレンは背に架けた荷を下ろし、その中からおもむろに着火剤とマッチを取り出し、セシルの目の前に置いた。


「あたりに小枝が落ちているから集めてくれ」

「……グレンさんは?」

「湖で魚を取ってくる」

 

 グレンはそれだけ言うと、背を向けて湖へと向かって行った。

 

 セシルは言われた通り、周囲から薪となる小枝や枯葉を集めて薪の準備をした。着火剤のおかげもあり、容易に火は起こったので、グレンを呼ぼうと立ち上がり、湖の方向へ顔を向けた。

 

 グレンは湖に設けられた朽ちかけの桟橋の上から釣り糸を垂らしていた。湖面から反射する光で逆光となり、その姿はシルエットとしてセシルの瞳に像を結ぶ。穏やかに釣りに勤しむグレンの姿は、昨夜ならず者相手に大立ち回りしたとは思えない程、穏やかで物静かな印象を与えてきた。

 

 セシルが声をかけようとすると、背後からゴロゴロと何かを転がすような音が聞こえてくる。

 

 振り向くと、湖の横に伸びる街道から一台の馬車が向かってくるところであった。馬から車輪まで何から何まで黒い馬車である。馬車はセシルがいる場所に程近い道の上でゆっくりと止まり、黒服を着た御者が降り立ち、車の扉を開けた。   

 

 中からは御者と同じ黒い服装の人物が出てきた。

 

 背格好から男と思われるその人物はそのまま馬車から離れ、セシルたちがいる湖へと歩み始めた。

 

 セシルはこちら側に向かってくる人の姿から何故か目を離せなかった。嫌な感じがする。何か、不吉なものを見るような感覚だ。

 

 その人物がセシルに近づいてきたので、容姿が見えるようになってきた。白髪交じりの黒髪で、額に古傷のような深い皺が刻まれている。猛禽類じみた鋭い目つきでありながら、その瞳には底なしの暗黒が穿たれていた。手には貴族などが持っていそうな黒い杖が握られている。

 

 初老の男は特に挨拶や会釈などもせず、静かに、ただまっすぐにセシルの方へ向かって来た。ただそれだけの行為のはずなのに、最初に持った嫌な印象は男が一歩進むに連れ、無くなるどころかどんどん膨れ上がった。どうしてか、セシルにはこの男が鬼や悪魔よりも遥かに恐ろしい何かに思えてならなかった。

 

 昨晩味わった、絶対的な強者に射すくめられている感覚に似ている、と思い出した時には初老の男はもうセシルの目の前まで来ていた。

 

 その新月の夜を写したかのような漆黒の眼窩から放たれる視線は、浴びた者をその場に縛り付け、押しつぶすかの如き重さがあるようにセシルには感じられた。

 

 その場から一歩も動くこともできず、かと言って視線を外すことさえ出来ないセシルの耳に声が聞こえてきた。


「こんな辺境まで何の用だ?」

 

 その声は上から降ってきた。

 

 弾かれたようにセシルが振り向くと、さっきまで釣りをしていたグレンがすぐ後ろまで戻ってきていた。


「お前が逃げるから、私がここまで来たのだ」

 

 初老の男が答えた。その声には奈落の底から響く冷厳さが満ちている。


「暇なことだな。あんた一人なのか?」

「暇なわけではない。このような雑務に他の人員は裂けなかっただけだ」

「じゃあ、やっぱりあんたは暇だってことじゃないか」

 

 グレンは一歩前に踏み出した。

 

 それにより、セシルの視界から黒い男の姿が消える。

 

 代わりに、見上げるほど大きな褪せた緋色の背中が見える。


「……お前の遊びに付き合っている時間もない。今日こそは返してもらうぞ」

 

 その声が聞こえた瞬間、セシルの体に怖気のようなものが走った。それは緋色の背中の向こうから発せられる声に乗せて、体の内側に染み込んでくる冬の夜霧のようであった。

 

 その怖気に応えるように、グレンの右手には鈍く光る大剣がいつのまにか握られていた。


「――ほう。抵抗するか。結果は見えているぞ?」

「……やってみなくては分らんだろう――」

 

 一瞬の沈黙の後――

 

 空気をつんざくような、鋭い炸裂音が響き渡る。

 

 グレンは微かに息を呑み、目の前の男の次撃に備えた。

 

 歴戦の戦士でも合わせるのが精一杯の一撃。

 

 初老の男は手にした杖を剣のように一閃振り抜いただけであった。だが、その閃きは達人と呼ばれる者の目すら捉えられない。事実、この黒衣の男と対峙して彼が放つ一閃を凌げる者は世界でも片手で収まる程度しかいない。そのあらゆる防御を無視し、対象を真っ二つにする刹那せつなの一撃を、グレンは自身の頬に一筋の裂け目を入れるのみで抑え込んだ。

 

 その一撃を皮切りに二人の剣戟は始まった。

 

 撃ち合う杖と剣の音がセシルの鼓膜を打つのと、彼女の網膜に映る光景が合致しない。それだけ、この二人の動きが速すぎるのだ。

 

 セシルには大きな赤い塊と黒い塊が猛スピードでぶつかり合い、重く鋭い攻撃を繰り出し合っていることしか理解できなかった。

 

 達人と言われる境地を当の昔に過ぎた二人の撃ち合いは、常人が理解するところの戦闘とは程遠い。一合の撃ち合いの中に、幾つもの起こりと駆け引きの濃密なやり取りがあった。

 

 寸分でも判断や動きが遅れたり、誤れば次の瞬間には首と胴が離れる。その生と死が入り乱れる魔境を、グレンは己の中に備わる限界の先まで鍛えぬいた武技で押し通る。

 

 必殺の一撃や死の暴風雨と化した連撃を防がれても、黒衣の男は表情一つ変えない。あらかじめいつどこにどのような威力の攻撃や防御、回避がなされるか知っているとしか思えない程だ。男は的確に毛の先を万等分したグレンの隙を突いて、その首を狩るように杖を振るった。

 

 グレンは地面を蹴って間一髪で後ろに下がり避けたが、開いた距離を瞬きの間に男は無音で詰めかかり、今度は顔面目掛けて突きを放つ。体躯をひねって鼻先で弾丸のような刺突をかわしたグレンは、すかさず相手の胴体目掛けて岩塊と同じ質量を持つ拳を繰り出す。山のような男が放つ拳はそれだけで脅威だが、黒衣の男は当然のようにその拳を右肘で払って軌道をずらし、逆に姿勢が崩れたグレンの懐に飛び込み、襟元を掴んで投げ飛ばした。

 

 投げ飛ばされたグレンは着地時に転がって大剣を振るい、追撃を牽制しつつ素早い身のこなしで体勢を立て直す。


「どうした、何を慌てる?」

「――ッチ、これだから老いぼれは……」

 

 肘をたたみ、肩の高さで大剣を構え、グレンは半身の体勢を取る。そのまま剣を前に突き出して突進するような構えだ。


「見え透いたことを」

「だったら、受けてみろ!」

 

 通常、重い体重を持つ生き物は俊敏な動きが取りにくい。体が大きければ大きいほど動かす為に必要なエネルギーは大きくなるからだ。ところが、グレンの動きは先程の黒衣の男の一閃と同じものであった。それが杖の一振りではなく、大男の渾身の突進からの突きなのだから、その破壊力は比べるべくもない。


「――」

 

 さしもの黒衣の男もこの速さには反応が寸毫すんごう遅れた。

 

 躱すことができず、構えた杖でまともにグレンの突進を受けてしまった。大剣の刺突を防ぎはしたが、グレンの全体重と勢いを乗せた圧力が男の体躯へと叩き付けられ、その身体を大きく後方の宙に吹き飛ばした。しかし、黒衣の男は吹き飛ばされた空中で宙返りをして体勢に揺らぎなく着地する。

 

 それと同時にその射抜くような視線を前方の敵へと向け、抜かりなく相手の動きを確認しようとした。

 

 その時黒衣の男の目は自分目掛けて振り下ろされる、大剣が放つ鈍色が映っていた。

 

 大剣が地面を割り砕き、次いで周囲の空気を震わせる轟音が鳴り響いた。衝撃で土埃が舞い上がり、二人の姿を飲み込んでいく。

 

 常人の膂力など埒外な、大男の渾身の一撃であった。

幾度の戦場で培われた経験と肉体は相対した黒衣の男の躰を捕らえたと知らせてくる。

 

 ――本当にそうなのか?

 

 グレンの脳裏に、ほんの僅かな己の武技への疑いが霞のように浮かんだ。


「――どこを見ている?」

 

 煙る視界の中で黒い影が光の速さで動くのを視認し、咄嗟に剣で受けた。

 

 それは見事というより他にない、完璧な防御であった。

 

 そして、グレンの大剣は真っ二つにへし折れた。

グレンが自身の左肩に強烈な痛みを感じるのと、折れた剣先が地面に落ちるのは同時であった。

 

 グレンの左肩には初老の男が持っていた杖が突き刺さっていた。土埃が晴れ、その杖の持ち手を確りと握った黒衣の男が現れる。

 

 グレンは苦悶の声をあげたが、黒衣の男は構わず杖を引き抜き、引き抜きざまで鳩尾にその杖の柄をめり込ませ、更に左足を強かに打ち据えた。

 

 グレンはさらに大きな悲鳴を上げて、膝から崩れ落ちた。


「そら、見たことか。お前と私とでは埋めようの無い差というものがあるのだ。例えお前がかつてどれ程戦場で鳴らした『闘鬼』だとしてもな」

 

 初老の男は痛みにうつむくグレンの顎下に杖を差し込み、無理やり上を向かせた。その動きでグレンの頭部を覆い隠していたフードと顔布が外れ、大男の顔貌が白日に晒された。

 

 長年風雨にさらされた岩石のような灰色の肌に厳つい骨格。額からは褐色の角が生え、顎の輪郭はがっしりとしていた。何より目立つのはその右顔面を覆う傷であった。皮を剥がされたように変色し、岩のような荒々しい肌とはまた違う歪な薄く突っ張った肌が覆っている。

 

 その姿を見てセシルは確信した。

 

 グレンは『人間』ではない。

 

 セシルも見たことはないが、話に聞いたことがあるオーガと呼ばれる種族のようだ。

 

 オーガは山岳地帯などの殊更に険しい土地に住む石灰岩のような灰色の肌に発達した骨格を持ち、分厚い鎧のような筋肉と見上げるような体格を持つ、世界でも生粋の戦闘種族である。

 

 昨夜の宿屋での一件からも、只者ではない動きで瞬く間に盗賊たちを蹴散らしていたが、グレンの正体がオーガであれば納得のものであった。

 

 しかし、そのオーガすら特に傷を負うようなこともなく、無力化してしまったこの初老の男は一体何者なのか。

 

 二人の超人の戦闘を見ていたセシルは、戦慄し恐怖で動けなくなってしまった。

 

 グレンは息を荒げ、黒衣の男を睨みつける。


「分かっていたはずだぞ。私と刃を交えれば、自分が負けるということを。無駄な抵抗などしなければ、体に穴が開くこともなかったというに……」

 

 初老の男の声音は、剣戟を交わす前から微塵も変化などなく、粛々と無機質な事実を告げた。


「……何故だろうな……俺にもよく……分からん」

「……下らん」

 

 最早問答は無用と、男は片手で杖を振りかぶり、杖を外されたグレンの頭は支えを失い項垂れた。

それは罪人が罪の重さに耐え切れず、自ら断罪を求めて、処刑人に首を差し出すかのような光景であった。

 

 今まさに刃のような杖が振り下ろされようとしたその時、突然あたり一面に大きな音が響き渡った。


「これは………鐘の音?」

 

 この付近に鐘がある建造物などない。

 

 無いにも関わらず、全身の毛を逆立てるような大きな鐘の音が聞こえるのだ。

 

 その呟きが聞こえていたのか、黒衣の男がグレンの後方で立ちすくんでいたセシルへと視線を動かした。この時、初めて黒衣の男はこの少女を注視すべき存在として見なした。

 

 うろのような視線をセシルへと向け、はっきりと黒曜石の瞳を捉えた。

 

 あ、とセシルが思った時には、既に黒衣の男はセシルの眼前に立っていた。


「あの鐘の音が聞こえたか――」

 

 黒衣の男が腕を振り上げ、その貫手がセシルの脇腹を貫いた。

 

 その衝撃でセシルの身体は弾んだ。痛みよりも驚愕するセシルの顔が苦痛の表情へと塗り替わっていく。止めろ、とグレンが叫ぶが、その声は虚しくあたりにこだまするだけだった。

なおもグレンが立ちあがり、二人に駆け寄ろうとすると地面の下から突然黒い鎖が無数に飛び出し、その頑健な肉体を縛り上げた。


「セ、セシル……ぐッ!」

 

 両手両足を全身の骨を砕くような力で縛り上げられたグレンは、受け身も何も取れず、顔面から地面に叩きつけられた。

 

 グレンの救援は間に合わず、少女の体は今まで受けたものとは桁違いの苦痛に蹂躙されていた。肉と内蔵に穴が開く感覚は想像を絶するほどの激痛をセシルに与えた。脇腹から脳天を一本の灼熱した槍が貫き、視界が大波に揺さぶられるいかだのようにグラグラと揺れる。余りの痛みによって反射的に肺がしぼみ、体から酸素が抜けていった。

 

 薄れそうになる意識の中で痛みの発生点である脇腹から、何かが自分の身体の中に注ぎ込まれていくのが判った。それは嵐のような苦痛とは別のものであった。黒衣の男の眼と同じように黒くて冷たい。セシルの細胞すべてを這い回るように蠢き、広がった。


 広がるにつれ、肉体がバラバラに喰い散らかされ、その喰われた箇所に恐怖が形を持って埋め込まれていく。

 

 血が、肉が、内臓が、恐怖で凍てついた。

 

 最早、助けも、悲鳴も彼女の口は発さなかった。

 

 少女の意識は成すすべなく、網目のように広がる形ある恐怖に絡め取られ、底の無い暗闇へと落ちていった。

 

 処置を終え、黒衣の男はセシルの身体から腕を引き抜いた。

 

 不思議なことに、男の右手首までが沈み込んでいたセシルの肉体に傷はなかった。外套にすら穴は開いていない。

 

 力なく倒れ伏した小柄な少女を一瞥して、黒衣の男は旧知のオーガを振り返った。

 

 その光景を見て、男は久しく味わったことのない、感覚を味わった。

 

 驚愕である。

 

 小山のようなオーガの周りには自身を縛り上げていた鎖の破片がゴミのように落ちている。巨大な怪物をも磔にし封じる漆黒の鎖を、解いた訳でも抜け出した訳でもなく、紙切れのように引きちぎったのだ。

 

 縛を脱したオーガは先程までと同一人物とは思えない姿となっていた。服の下からでも分かる分厚い筋肉の体躯は今や、二回り以上膨れ上がり、怒気と殺意を持って蒸気していた。その手にはかつてこのオーガが神を殺す為に振るったとされる無謬結晶オリハルコンの剣の柄が握りこまれている。

 

 その貌は――鬼であった。

 

 顔面を構成する筋肉と言う筋肉が、標的への激烈な殺意によって歪み、凶悪という言葉が陳腐に聞こえるほどの悪相を成していた。角岩と遜色ない硬質で重厚な歯がむき出しとなり、灰色の瞳は見据えるもの全てを焼き払ってしまいそうな烈火の光芒を浮かべている。

 

 その怒気によって大気が、地面が震えていた。それは怒りの矛先が自分に向かわないことを弱弱しく祈るようであった。振動によって湖面に無数の波紋が広がる。

 

 直接怒りを向けられない物がこうなのだから、向けられる当の本人に充てられる重圧は次元が違った。空気が対象を文字通り圧し潰すように放出される。常人であれば睨まれただけで失神し、脆弱なものならその生命を手放しかねないほどだ。

 

 悪鬼羅刹すら裸足で逃げ出すその重圧を受けても、男の態度は何も変わらなかった。その光景に驚愕はしたが、揺らぎもしない。


「禁固の鎖を破り、無謬結晶まで持ち出すか。この娘と何があったかは知らんが、お前にそこまでさせるのか、この少女は」

「コイツに何をした」

 

 地獄の果てから響く声も、ここまでの害意は含まれないだろう。

 

 そう表現するしかない程の怒りが、その声には籠っている。憤怒の気色と声に震えた空気が黒衣の男を逃すまいと包み込んだ。


「我が主からの贈り物だ。案ずるな、この娘に害を与えるものではない」

「ふざけるなよ代理人アゲント、お前の狙いは俺だったはずだ。コイツをお前らの思惑に巻き込むんじゃねぇ」

「それは出来ない相談だ。鐘の音が聞こえるのは『旧種エルダー』と『黒の勢力』のみ。どちらでもないというのは不可解だ。何もこの娘やお前を破滅させようという訳ではない。お前たちの旅の助力となるものだ。素直に受け取っておけ」

 

 黒衣の男の淡々とした説明にグレンは行動で否を示した。

 

 その手に握り込んだ鉛色の柄を引き抜いていく。

 

 剣が引き抜かれていく動作に合わせて、金切り声のような甲高い耳障りな音がする。誰かが壮絶な痛みで泣き叫んでいるのかと錯覚するほどの音であった。

 

 その剣はおおよそ剣と呼べる形をしていない。

 

 現われる刀身は明らかに旅装の内側の空間容量を大幅に超過していた。外気に晒される刀身はその表面が艶めかしく輝き、赤みがかった色を放っている。刀身全体に植物の蔦に見える細長いものが多数巻き付いており、まるで抜刀を封じる戒めであるようだった。

 

 その戒めを物ともせず、引きちぎっていく。

 

 グレンは絶叫のような音を響かせながら更に剣を引いた。抜刀が進むにつれ、周囲は昼でありながら光と色を失っていき、耐えがたい苦悶にのた打ち回るように風が吹き荒んだ。剣に鍔はなく、持ち手部分から上部は全て一本の柱のような太さを持ち、刃と呼べる部分はなかった。

 

 到底、人間が扱える代物ではない。今見えている部分だけでもその質量が人型の生き物が振り回す重さでないことを察するには余りがあった。そもそも、どんな生物も使える武器ではないのだ。ただの人間がもし触れれば、誤差なく発狂する代物だ。

 

 グレンが全ての刀身を抜き放つ前に、黒衣の男がまたしても瞬時に移動して剣を握るグレンの右腕を掴んだ。


「落ち着け。今ここでそれを抜刀すると、取り返しがつかなくなるぞ。お前とこの娘一人のために、この世界を血で血を洗うあの地獄に戻したいのか?」

 

 すると、グレンの発する怒気に陰りが生じた。

 

 灼熱する溶岩が空気に晒され温度を下げていくように、少しずつだが加速度的にその重圧が減少していく。

 

 やがて、グレンの右腕は引き抜きかけた刀身を再び旅装の中に押し込み始め、刀身から手が離れる頃には明るさや風も先程までの穏やかさを取り戻していた。

 

 グレンの容姿も元の姿に戻り、その体に込められていた満身の力も解けていった。


「俺の負けだ。腕でも何でも持っていくがいい。だが、もうこれ以上アイツにちょっかいをかけないでやってくれ」

 

 黒衣の男より頭一つ大きな男は力なく呟いた。

 

 黒衣の男は小さくため息をつくと、手にした杖で地面を突いた。


「それは保証しかねる。だが、今はもうあの少女には何もしない。それは約束しよう。それにしても、呆れるほどの悪運だ。こんな時に時間切れとは。何もかも中途半端な幕切れではないか」

 

 男は忌々しそうに、それでいて少しだけ感心したような口ぶりで言った。


「……持って行かないのか?」

「言ったはずだぞ。私も暇ではない。次の指令を受けてしまえば道草など食ってはいられん。せいぜい、次に会う時までにその腕を磨いておくのだな」

 

 グレンの疑問に黒衣の男はそう言い残し、踵を返した。

 

 男はもうグレンたちに用は無いとばかりに来た道を来た時と同じように静かに戻っていき馬車の中へと入る。馬車の御者が扉を閉め、御者台へと戻り鞭を振るい馬車を進ませ始めた。黒衣の男を乗せた馬車はゴロゴロと車輪の音を鳴らしつつ、グレンたちから離れていった。





 明暗さえ不明瞭な光の無い空間に声が響く。


 ――苦しい。


 ――どうして、こんなに苦しいの。


 それを聞いて、セシルは響く声が自分の物だと分かった。


 自分が呼吸しているのかも、セシルには判らなかった。


 上も下も、左も右も、方向感覚から時間の感覚さえ失ったセシルにとって、この空間は劣悪な牢獄よりも辛く、苦しいものに感じられた。視覚も触覚も嗅覚も役には立たず、唯一聴覚のみが機能していることが救いである。


 別の声が聞こえた。


 ――それはキミがそう選択し、行動したからだ。


 ――誰?


 セシルは尋ねた。


 ――誰でもいい。


 ぼやける記憶と思考の彼方にその声は鐘の音のように響き渡る。


 声は続けた。


 ――行動とは選択の実行であり、実行することは自他に対する選択の証明である。何かの行動をするということは、何かの行動をしなかったということだ。


 ――何を言っているの?


 セシルには声の言っている意味が良く理解できない。


 ――行動には責任が伴う。他者に対しては社会的道理を。自己に対しては認識の観測点を。


 ――彼らの行動の責任は彼らに、キミの行動の責任はキミ自身に。それ以上でもそれ以下でもなく。責任は常にキミを監視する。時にヒトはこれを呪いと呼ぶだろう。だが同時に呪いは祝いと成り得る。


 ――それもまた、キミの行動次第だ。


 声は聞こえなくなった。


 声が聞こえるような気配はもうしなかった。


 この無限の暗闇のような場所に取り残されるような気がして、セシルは叫んだ。


 ――待って、置いていかないで!


 ――こんなところに、一人にしないで!


 矢も盾もたまらず、セシルは駆け出した。


 手足を動かしていると思っているだけかもしれない。

 

 地面や風を切る感触、腕や足が動いている感覚がしない。

 

 それでも、この何にも無い空間に漂っているだけよりかはマシに思えた。

 

 徒労とも思い始めた頃、セシルの視界が何かを写した。


 何でもいい、とセシルが近づいていこうとすると、その物体は少しずつセシルの視界の中で大きくなっていった。


 ――あの姿は。


 あれは、お母さん?


 随分前に死に別れた母の後ろ姿だ。背格好も着ているものも同じだ。見間違うはずが無かった。


 母の手を掴んだ。


 懐かしい、母の面影が振り返った。


 母の顔面には虚のような大穴がぽっかりと開き、その吸い込まれそうな暗い穴がセシルを見つめ返した。





 意識が覚醒し、飛び起きたセシルは激しく呼吸を乱していた。


 肩で荒く息をしながら、自身が大量の冷や汗をかいていることがわかった。


 あの光の無い世界と違い、眼も耳も鼻も手足も舌も全てちゃんとあると感じた。


 オレンジ色に照らされたテントの中、焚火がパチパチと燃える音が聞こえた。テントの幕に掛かる影が外の時間が既に夜であることを示している。自分の身体は分厚い毛布とクッション材で作られた立派な寝床に寝かされていたらしい。


「起きたか」


 セシルが声の方を振り返ると、焚火の向こう側に胡坐をかいて座り込んだグレンの姿があった。フードと顔の布を外していて、石のような灰色の肌の素顔が見える。


 セシルはもやがかかったような頭を無理やり動かし、意識を失う前の最後の記憶を呼び起こそうとした。


 最後に見えたのは、あの夜の闇より尚暗い黒衣の男であった。


 あの人は、と言おうとして肺に息を吸い込むと、脇腹に痛みが走った。

「――ッ!」

「痛むようならまだ喋るな。アイツはもういない。時間切れで帰って行った」


 グレンは静かに危機が去ったことを告げた。


 セシルはその言葉に安堵して、ふと肩の力を抜きかけたが、何かを思い出したのか、そのまま固まった。あの黒衣の男が自分に何をしたのか思い出したのだ。ゆっくりと首を下げ、服を捲って自分の脇腹を恐る恐る見る。


 左の脇腹から肋骨にかけて、焼け爛れたような黒い痣が見えた。


 慎重に触ってみると、通常の肌より若干ざらつきのある手触りとなっている。触れても痛くはないが、指先に脈打つような熱を感じた。


 セシルが自分にできた痣をまじまじと見つめていると、グレンが声をかけた


「――すまなかったな」


 その声は、先程よりもずっと近くで聞こえ、グレンが自分のすぐ後ろまで来ていたことに気付かされる。慌ててセシルは捲っていた服を降ろし、膝までずり落ちた毛布を所在なさげに手元に引き寄せた。


 グレンは何を言うでもなく、セシルにマグカップを手渡した。


 セシルは反射的にそれを受け取る。中には湯気が出る液体が入っており、鼻を抜ける草の香りがした。


「飲めそうか? 飲めるのなら飲んでおけ。気休め程度にしかならないだろうが、うなされることなく眠れるぞ」


 液体の表面に浮かぶセシルの顔はキョトンとしており、よく状況を飲み込めていない自分を写していた。


 ゆっくり深呼吸をしてみると、今度は特に痛むようなこともなく、きちんと胸いっぱいに空気を吸えた。


「ありがとう、ございます」


 口を動かし、声を出してもセシルの身体は痛みを訴えなかった。


「――介抱してくださったんですね。ご面倒をおかけしてすみません」

「連れが怪我をしたのなら、面倒を見るのは当然だろう。礼はまだ分かるが、謝るようなことじゃない」


 セシルにはグレンの口調がどこか沈んでいる風に聞こえた。


「で、でも私の不注意で怪我をしたようなものですし――」

「もしあれを注意してかわせるのなら、俺は今すぐにでもソイツに弟子入りしたいね」


 グレンは乾いた声でそう言った。


 近くで見るオーガの表情はかなり険しく見える。もともとの顔の造りが厳ついせいで、怒っているのか、さもなければ不機嫌そうな仏頂面に見えるのだ。大きな傷や眉間の深い皺、への字に結ばれた口などの特徴が余計にその印象を助長させている。ところが、注意深くその灰色の顔を観察すると、微かに眉が下がり気味であり、彫りの深い眼窩にある瞳は地べたに座るセシルの足元に向けられている。


 人の顔色を窺って生きてきたセシルは目の前の大男が心底から申し訳なく思っている、と感じた。


「俺の判断ミスだ。まさか、ここであの男に出くわすとは、な」

「あの人は、何者なんですか? それにあの鐘の音は……」


 セシルの問いにグレンが口を開くまで少しの沈黙があった。それは話すか話すまいか、グレンが少しだけ逡巡したためである。


「――昔の同僚、いや上司だな。俺が昔に借りパクした物を取り返しに来たんだ。鐘の音はそうだな……まぁ、次に行けっていう合図なんだろう。お前、本当にあの鐘の音が聞こえたんだな?」


「はい。すごい大きな鐘が鳴ったような音でしたけど」


 セシルははっきりと、鐘の音を耳にした。


 どこから聞こえたのか分からないが、聖堂や鐘楼などにある大きくて、腹の底に響くような音だった。


「……そうか」


 グレンの声は隠しようもない沈痛さが滲んでいた。


 やがて、グレンは何かを決めたのか、小さく頷いた。


「セシル。お前が聞いた鐘の音は、誰彼に聞こえるものじゃない。この世界の大半の奴らには聞こえない音だ」


「え? それはどういう――」


 セシルの反応をグレンは遮った。


「何故聞こえるのか、それは俺にもわからん。だが、聞こえてしまうことが誰かに知られるのは、はっきり言って危険だ。それは断言できる。いいか、俺が許可する相手以外にはこの話を絶対にするな。分かったな」


 それははっきりとグレンがセシルに発した言い付けであった。


 少なくとも、セシルはそう受け取った。長い貧民生活で染みついた目上に対するおもねりから、少女は自身の行動を制限されることに慣れ切っていたし、疑問も持たなかった。


 だから、これ以上セシルはグレンに鐘の音について尋ねなかった。

「痣は痛むか?」


 グレンが眉間の皺を深めながら尋ねた。


「いえ、起き抜けは少し痛みを感じましたが、今は特に……」

「……そうか。その痣についても俺には分からないことが多い。ただ、そいつが直接お前に何か害を与える、ということはなさそうだ。取り敢えずは安心していい」


 そう言って、グレンはその深い渓谷となった眉間に込めた力を少しだけ緩めた。少しだけだが、頬の力も緩んでいるように見えた。それがグレンの笑みなのだと気づいたセシルは、何故か自分でも良く判らないくすぐったさを感じて、思わず目線をずらした。


「……色々あって疲れただろう。うなされている時に汗をかいていたから寝る前に拭いておくといい。そこにあるタオルを使ってくれ。あと、そいつは忘れずに飲んでもう休め」


 ぶっきらぼうにそう言うと、グレンはテントから出て行こうとする。


「あ、あの! どちらに?」

「見張りだ」

「いや、あの、グレンさんも怪我をされていましたよね? お休みになられた方がいいんじゃ……」

「オーガはヒューマンよりはるかに丈夫だ。多少の傷は飯を食えば治る。寝ずの番だって何の支障もない」


 グレンはそれ以上セシルに何も言わせず、テントから出て行ってしまった。


 残されたセシルはしばらくグレンが出て行った先を見つめていた。まだ色々と尋ねたいことがあったが、目を覚ました時からずっと頭が重く、尋ねたいこともうまく言葉にならなかった。やがて、諦めがついたのかグレンに言われた通り、おずおずと寝床の隣に置いてあったタオルに手を伸ばし、汗でべた付く肌を拭った。


 香りがキツいカップの中身も飲み干す。


 喉の奥に体に良さそうな薬草をしこたま詰め込まれたような感覚を味わいながら、セシルは横になった。


 グレンが用意した寝床は温かく、柔らかかった。


 すぐに瞼が重くなり、セシルは眠りについた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る