1 ならず者の街で
その少女にとっての日課は、街中に転がる死体を医者の家まで届けることであった。
その日も少女はいつもの様に野垂れ死にした死体をかごの中に押し込む作業に従事していた。
少女は黒い髪とその頭の色と同じ色の瞳を持ち、ボロ布のような外套を体に巻き付けている。年の頃十代の後半と見られるが、生きてきた年月に対してその体は相応に発育しているとは言い難く、酷く痩せて小柄であった。
その小柄な体で少女は路地裏や街路脇で死んでいる『人間』だったものを拾い上げる。
物言わぬ骸は脱力していてひどく重い。生きていないのだから当たり前だが、脱力していると人型の物体というのは本当に持ち上げ難くなる。
少女は既に死体に対して生理的な嫌悪感はなかった。毎日触っているうちにそう言ったものは薄れていった。逆に運び難くかさばるという物理的な非効率性に辟易することの方が多かった。
重心が腰部にあるくせに頭部や腕などが大きく胴体部から突き出しているため、単純に腕だけを持つと自分自身がグラついてしまう。小柄な少女には当然に酷な作業であった。
苦労しながらも死体を収集して運ぶのは理由がある。
これが彼女の大きな収入源であるからだ。
無法者の吹き溜まりで少女が生きていくには、このような最底辺の仕事しかない。
少女は幼い頃にこの街へ母と流れ着いた。
生まれは帝都であったが、経済的に困窮した母子は帝都を離れざるを得ず、転げ落ちるように生活が荒んでいき、気が付けばこの街に流れ着いてしまった。
母はこの街で病を得てあっけなく死んだ。
その時から少女はこの街で、一人で生きなければならなくなった。頼れる者も、街から脱出する方法さえも知らず、今日食べる物さえ覚束ない少女は生きるために何でもした。
食い物を盗み、人を騙し、時にバレて殺されかけたことも一度や二度ではなかった。
そういう時期を過ごす中で少女は考えた。
安全に食べ物を得るためにはどうしたらいいだろう。
そう考えた少女が思いついたのがこの生業であった。
治安が皆無のこの街では死体には事欠かない。
酔っ払いの喧嘩からならず者同士の抗争、たまたま訪れた旅人など殺傷事件などはこの街では日常風景である。
当然、野盗たちには遺体を弔うなどという余裕ある者はいないため、遺体は服飾品が装備された生暖かい人形ぐらいにしか思われていない。身ぐるみを剥がされた死体というのは、その場に打ち捨てられるか、街外れの川に捨てられるかのどちらかである。身に着けた物さえ失った『人間』だったものなど、この街ではもはや何の価値もなく、誰も関心を払いはしなかった。
だから、死体そのものは安全だった。
正確に言えば病気や何らかの魔導的処理が施されていると危険ではある。しかし、少女にはその危険が判らなかったため、殴ったり蹴ったりしない死体は、かえって生きている人間より安全に見えた。
服飾品も剥がされ、もう利用価値もない死体を漁る人物を見かけたのは、少女が母と死に分かれて四年経った冬の夜であった。
その男が街外れに住む医者であることは少女も知っていた。
母が病を得た時に診てもらったからだ。
そのずんぐりむっくりの男の後ろ姿を見た時、少女は前回この男と話した時を思い出した。
医者は栄養不足と診断するだけで薬も治療も施さなかった。医者は母子に金がないことを知っていた。
――金が無い奴に治療はできねェ。こっちも慈善事業でやってるわけじゃないんだ。
医者にそう言われた時、母は診断だけでも無料でしてくれたことに感謝した。帰り際、母は少女に医者を責めるな、と言った。
「この街で医者が食べていくにはああするしかないのよ。誰かを無料で見たなんて聞かれたら、お金を払って診てもらう人たちが納得しないじゃない」
母の言葉に娘は納得した。
少女は母を助けてほしい、という当たり前の願いを口に出さなかった。既に少女は自分たちの命がどれほど軽いものであるかを、この街で生きていく中で理解していたからだ。
力ある者、頭の良い者、金のある者、人脈のある者は強い。だから生き残る。そうじゃないものは弱く、脆い。だから死んでいく。
それが現実であり、この世界のルールなんだ、と幼い少女は心の底で思い知った。
少女は「お母さんを助けて」と言いたくても言えず、悔しさと悲しさと怒りで身を震わせながら、瘦せ細った母の青白い手を握ることしかできなかった。
あの時の医者が死体をゴソゴソと収集している。
少女は医者に尋ねた。
どうして死体を集めているのか、と。
医者は答えた。
――死体には利用価値がある。死体にはまだ骨、内蔵、血液が残っている。こいつを使いたいって連中がいるのさ。
少女は医者に言った。
死体を集めるのを手伝います、と。
その作業の代金を求めた少女を医者は申し出通りに利用することにした。
今日も寒さが厳しくなる秋の夜だというのに、少女は汗だくになりながら死体をかごに詰め込んで、街外れまで運んだ。
やや傾いた煙突のある背の高い家が医者の家であった。
「今日も大量だな、セシル」
階段の上にある汚い木のドアを開けて姿を見せた医者は、全身にどす黒い返り血を浴びており、鼻が曲がりそうな腐敗臭を漂わせていた。
「そっちも相変わらずの切り刻みっぷりですね、先生」
と、セシルと言われた少女は答えた。
「まぁな。そいつらはいつもの場所に入れておいてくれ」
そう言って、医者は階段下にあるシャッターを示し、よたよたと家の中へと消えてしまった。
セシルは言われた通り、階段下にあるシャッターを開けてかごを中へ運び入れた。
シャッターの奥は棺桶部屋と呼ばれる死体の安置室であった。
晩秋の寒風が吹きつける屋外よりなお低い温度が設定されており、壁一面に死体を安置する台が収納されている。壁に対して垂直に死体を収納していくので、正面から見ると正方形の小さな扉が規則正しくマス目状に並んでいた。
セシルはその扉の取っ手を引っ張り、台を引き出し、その上にかごから死体を取り出して置いた。
死体を収納する作業は急がなくてはならない。
部屋の温度が寒く、もたもたしていると手がかじかんで、握力がなくなってくるのだ。
医者は収納作業を手伝わない。
死体を回収しここに収納するまでがセシルの仕事だからだ。仕事を終えないことには報酬は貰えない。セシルは額やこめかみを垂れる汗を拭いながら、慣れた手つきで死体を収納していった。
セシルが最後の死体を収納し終えて、報告のため階段上に行こうと部屋を出ると、医者が階段を降りてくるところだった。
「終わったのか? 今日はまた随分と早いな」
医者はそう言いながら、セシルに報酬の銀貨とマグカップを渡した。カップの中には温かな飲み物が入っている。セシルは礼を言って受け取った。
「この次があるんですよ」
「あいつのところか?」
「……はい」
セシルの声は沈んでいた。
「俺が言える義理じゃねぇが、あいつはイイ奴とは口が裂けても言えねぇわな。まだ手、切れないのか?」
「貸しが返されていないって」
「貸しねぇ……この街で生きていくのに貸しも借りもないと思うがね」
「そんなこと言うのは先生ぐらいなもんですよ」
セシルはそう言って、マグカップの中身をあおり、喉に流し込んだ。食道を熱いものが流れ落ち、体の内側がカッと熱くなるのを感じた。
医者の家を出たセシルは足早に次の目的地へと向かった。
足を止めずセシルは懐の銀貨を指で数え上げて、今日の稼ぎを確認した。
懐には銀貨が十一枚あった。これがセシルの全財産である。
朝から死体を集めて運んでを繰り返し、夕暮れまで働いても少女はこれだけしか稼げなかった。『掃除屋』とも言われる死体集めは粗野な野盗たちからも肉体的にも精神的にもキツく倦厭される仕事である。この街の相場では一週間を過ごすのに最低でも銀貨が五十枚程度を要する。一週間働き詰めた上に、生活も切り詰めてようやく足が出ない程度であるため、少女は死体運び以外の仕事も夜に行っていた。
向かったのは街の大通りに面した宿屋である。
宿屋と言っても、こんな街の宿屋など粗末な木賃宿であり雨風を避けて、横になることができるという程度の施設であった。
宿屋の裏口から中に入ったセシルを見つけた宿屋の主人が怒鳴りつける。
「遅いじゃねぇか、このグズ! いつまでノロノロしてやがんだ。客が来ちまうだろうが」
「す、すみません。前の仕事が詰まってしまいまして」
「ああん? 仕事ってあの医者の死体集めだろ。いつもやってるやつじゃねぇか。何が遅くなる理由があるんだよ」
そう言って、宿の主人は肩を怒らせてセシルを睨みつける。
「近頃は気温が下がって、宿なしの食い詰め者がパタパタ死んでいくんで死体が多くなるんです」
「ほー、それじゃあ暖を取るためにもウチを使う連中が多くなるってもんだ。こっちの懐も温かくなるぜ。屁理屈言ってないでとっとと働きやがれ、せっかくの客を逃したら承知しねぇぞ」
主人が追い払うような仕種で退出を促したので、セシルはこれ幸いと出ていこうとすると、「あぁ、そうそう忘れるところだった」と主人が呼び止めた。
セシルが心の中で毒づいて振り返った。
「どうしました?」
「どうしましたー、じゃねぇだろう、セシル」
そう言って、宿の主人は椅子から立ち上がり、セシルに近づいてきた。
酒を飲んでいたのか、足元はふらつき一歩セシルに近づくごとに酒の匂いが強くなる。
主人は少女を見下ろしながら右手を差し出した。
「ほら、いつもの出せよ」
「四日前にも払ったと思うんですが……」
「はぁ? んなこと覚えちゃいねぇな。帳簿にもそんな入金書いてねぇぞ?」
そう言いながら主人は懐から汚くよれた帳簿を取り出しペラペラとめくって見せた。さも正当な取り立てだと言わんばかりだが、セシルはその帳簿に何も書かれていないことを知っていた。
セシルの目線に己に対する嫌悪を汲み取ったのか、主人は気に食わないものを見る目で言った。
「おい、セシル。誰に向かってそんな顔しやがる。ガキで食い詰め者のお前を、誰が今まで面倒見てきてやったと思ってるんだ? 聞いてんのかァ、おいッ!」
主人がセシルの頬を平手で打った。
それは聞き分けのある大人が聞き分けない子供に対して振るう威力ではなく、力任せで粗野であった。
頬に走る鈍い痛みと衝撃でよろけたセシルは壁にぶつかり、尻もちをついた。背中と腰にも鈍い痛みが走った。
「――あなたのおかげです」
体勢を崩しはしたが、セシルの言葉に淀みはなかった。
内側で出血して熱を持つ顔と反比例して彼女の心は冷めていた。この男に暴力を振るわれたのは一度や二度ではない。酒が入って気に食わないことがあると、真っ先に自分がぶたれる。このままだと更に興奮して殴られかねないので、一発殴れてスカッとしたであろうところに、この男の一番欲しい言葉を出してやる。それが、この場を収める一番簡単な方法だ。
セシルは頬を打たれた瞬間にそう考え、実践した。
「そうだよな。俺のおかげだよなぁ。いい子のセシルはちゃぁんとそこが判ってるもんな。だったら、今まで世話になった分はきっちり返すってことも、判るよなぁ」
猫撫声で主人はそう言って、セシルの前にしゃがみ込み、酒と興奮で赤くなった顔でセシルを覗き込んだ。
セシルはできるだけ目線を合わせず、男の要求に従った。
懐から銀貨を取り出して、主人に差し出したのである。
「ッチ、シケてやがる。たったこれっぽかしかよ。オラッ、いつまでもボーっと座っていないで、さっさと行け」
その言葉を捨て台詞にして、宿の主人は奥へと引っ込んでしまった。セシルは立ち上がって汚れを払い、再び外へと歩き出した。
セシルは彼らから世話など受けた覚えはなかった。彼らはセシルに食べ物の一つも与えてなどくれなかったし、今彼女が寝起きしている場所も彼女が一人で見つけて整えたものであった。
強いてあげるとするなら、ネームバリューである。
こういう街で生き残る方法としては強い者の仲間に入れてもらうことが手っ取り早い。縄張り意識が強い者が多いので、他のグループにはおいそれと手を出さないのが暗黙の了解なのだ。
仲間に入れてもらう代わりに、セシルは自身を労働力として提供し、身の安全を図ろうとした。
母を亡くし、己のみで生計を立てないといけなくなったセシルは食べ物だけではなく身の安全にも気を使う必要があった。
母が生きていた時はそんなことは考えもしなかったが、一人でこの街を歩いていると投げかけられる視線や態度が今までとは違うものに感じるようになったからだ。
あれは、獲物を見る者の眼であった。
後ろ盾を失った少女など、この街では格好のエサである。だから彼女は真っ先にこの街で一番力の強いあの宿の主人を頼ったのである。宿の主人は表向きには木賃宿の親父だが、その実この街を牛耳る野盗の頭でもあった。他にも高利貸しや売春、人身売買なども手広くやっている男である。彼がセシルのどのあたりに価値を見出したかは定かではないが、彼はセシルを傘下に向かい入れた。
しかし、宿の主人はセシルが提示した条件だけでは足りないと言った。
体は小さく男衆がやるような力仕事などには耐えられず、かと言って男に体を売る仕事などもその需要の無さから期待はできない。俺たちの身の回りの世話をする小間使いくらいがせいぜいだ。そんな人間を迎えて俺に何の得がある、と主人は言った。だから金を稼げるようになったらその金を寄越せ、と言うのが主人の出した条件であった。
少女に選択肢などなかった。
ただでさえ少ないセシルの収入はああいった形で更に巻き上げられ、彼女を果ての無い困窮に押し込んでいた。
宿の主人は気の向いたときに、セシルから取り立てを行う。その待遇は精々が雑用であり、有り体に言えば奴隷のような扱いであった。
少女は身の回りの安全の代わりに、自身の自由と僅かばかりの収入さえも供出させられていたのである。
客引きのために、セシルは日暮れの大通りへと向かっていた。
吹き付ける寒風から少しでも体温を奪われないようにするため、粗末なボロ布のような外套を改めて自分の身体に巻き付ける。
セシルは冷たくなる自分の手に息を吹きかけた。
口を覆うようにして吐いた息は、手の平で作った囲いの中に溜まり、その熱を冷たくかじかむ手に伝える。しかし、それはほんの一瞬であり、雨粒が乾いた土に吸い込まれるように消えてしまった。残ったのは物足りなさそうに白ばんだ自身のひび割れた掌だけである。
年の割に節くれ、掌の皮は厚かった。
彼女が必死に今までを生き抜いてきた証でもある。自身に残ったたった二つの財産である肉体と時間を使って、日々の糧を稼ぎ彼女は今まで生きてきた。ならず者の街で生きるため、盗み、騙し、死体漁りをしてでも生き延びてきた。そこに彼女は何の疑問や罪悪感も持ってはいない。いや、そう思うようにしていた。そうしなくては生きられないのだから、仕方なくやったのだ、と。
でも、と彼女は思う。
自分は一生、この街でこういう生活をして生きていかなくてはならないのだろうか。
朝から晩まで働き尽くし、最低限の衣食住のみで、ただ生きる。
毎日毎日死体を集め、ならず者になじられ殴られ、せっせと自分の物にもならない金を稼ぎ、疲れた体で泥の様に眠るだけ。
セシルはなるべくこの問いをしないようにしていた。
一回問いだすと、止まらなくなるのだ。
どうして、自分はここで生きているのだろう。
どうして、自分は汚れた格好で、腹を空かせているのだろう。
どうして、自分は殴られ、蹴られるのだろう。
どうして、自分は自分のものにならない金を必死になって稼いでいるのだろう。
どうして、毎日がひどく虚しいものに感じるのだろう。
そんな虚しいだけの明日なら、いっそ来なければいいのにと思ったこともある。
そこから更に思考は別の方向へと進んだ。
薄らぼんやりと残る母と過ごした記憶の自分は、今から振り返れば随分幸福だったと分かる。何の心配もせず、ただ純粋に毎日を貧しくはあったが母と過ごせれば、それでよかったのだ。
その記憶と今の自分を比較してしまう。そうすると、みじめな気持ちになるのだ。痛ましい少女が、毎日毎日扱き使われているだけ。体を壊そうものなら医者にかかる金すらない。自分もいずれは、漁っている死体のようになるのかもしれない、とセシルは暗澹とした気持ちになった。
物思いに耽るには、冷たい風が吹く大通りは適さなかった。
だが、それが彼女に幸いした。吹き付ける寒風が物思いでいっぱいになった頭から、余計なものを吹き飛ばしてしまったからだ。
身震いを一つして、彼女の思考は現実へと戻ってきた。
客を見つけないといけない。
そう思ってセシルが街の大通りを見ていると、見慣れないものが目に飛び込んできた。
それは見上げるほどの大男であった。
色褪せ傷ついた緋色の旅装に身を包んだ男は背中に荷物を背負い、フードと布で顔を覆っている。頑丈そうな黒い小手までつけているため、その見た目から生来の特徴を見つけることはできない。全身を覆う服装の上からでも分かるほど、男の肉体は赤の戦士のように筋骨隆々であり、服を着た岩石が動いているのかと錯覚させるほどであった。
男の異様な姿にセシル以外の住民たちも遠巻きに盗み見しつつ、どこの素性の者だろうか、とよそ者が来た時には必ずなされる会話をひそひそとしていた。男は特に気にする素振りを見せず、そのまま大通りを歩いてきた。
セシルも声をかけようか迷った。
明らかに普通の容姿ではないし、この街の人間でもない。ということは、よそから来た旅人だろう。いくらならず者が多い街でも、あれほど大柄で異様さを放つ人間をセシルは見たことがなかった。
下手に近づくと何をされるか分かったものではない。
だが、セシルはこの大男に近づいた。
セシルのさびしい懐事情が彼女に危険な選択をさせたのである。
セシルは精一杯の愛想のある声で大男に話かけた。
「――こんばんは、旅のお方。今日は随分と冷え込みますが、もう宿はお決まりですかね?」
セシルはやたら擦れた声であった。
女であると分かると、余計なトラブルを呼び込みかねないので、誤魔化すようにしているのだ。
大男は歩みを止めず、そのまま歩き続ける。
「ウチはこのあたりじゃ、一番いい宿ですよ。外から襲われる心配もありませんし、何よりベッドがあります」
小山のような男の歩みは止まらず、セシルは食いつくためにほとんど小走りで男の横に張り付いた。
「旦那! それなら、一泊でいい。割引もしましょう! どうですかね?」
それでも男の足は止まらない。
「ま、待って。待ってくださいよ、旦那! 相当腕に自信があるとお見受けしますし、実際そうなんでしょうが、この辺りは夜になれば野盗、盗賊がはびこる危険地帯ですぜ。悪いことは言わない。一晩だけでもいいから泊まっていくと良い」
どうにか話を聞いてもらいたくて、セシルはとうとう大男の目の前で両手を広げて立ち塞がった。
すると、大男の足が止まった。
男はセシルを見下ろすように、少しだけ首を下に傾けた。
二人の伸長差は優にセシルの頭が三つ分ほどある。
セシルが男の顔を見上げると、フードと布の隙間から石灰色の瞳が見えた。
「――いくらだ?」
響きは深く、それでいて地下水のように澄んだ声だった。
剣呑な見た目と裏腹にその声はいっそ理性的であり、静かで安定した感情が込められているようである。
「わ、割引して、一泊三千ルノーだよ」
値段設定は低くはない。逆に低すぎると怪しまれるので、そこそこの値段で言うのがポイントである。
男は少しだけ考え「案内してくれ」と言って、宿を取ることを決めた。
よし、とセシルは口に出さず快哉を胸の中で叫んだ。
確かに異様な風体だし、色褪せた外套はかなり古そうだ。しかし、その下に付ける腰帯や靴や小手といったものは、使い込まれているがよく手入れがされており、造りが確りとしている。
懐の具合は正直分からないが、客としても獲物としても申し分ない。宿の主人も満足するだろう、とセシルは値踏みした。
セシルはくすんだ外壁の木賃宿へと男を案内し、受付の主人へと引き合わせた。
「ご利用ありがとうございます。そいつから聞いてるかもしれませんが、一泊三千ルノーになります。寝酒なんかのオプションもありますが、いかがでしょう?」
男は懐から一泊分の硬貨取り出し、カウンターの上に置いた。
「部屋だけでいい」
主人は愛想よくそれを受け取り、カウンターの下から鍵を取り出し、セシルに渡した。
「お客様を部屋まで案内して差し上げろ。ごゆっくり」
そう言うと、主人はカウンターの奥へと引っ込み、セシルは無言で宿の奥へと進み始めたので、男もセシルに付いて行った。
男が通されたのは、二階の通りに面した部屋であった。
何とかベッドを押し込みました、と言わんばかりの狭い部屋で、部屋の中にはベッドと、燭台が置かれた小さな台しかない。光源になり得るのはその燭台とベッド際の壁にある嵌め殺しの窓から差し込む月の光だけである。
「……これが部屋の鍵です。宿を出るときには返却してください」
そう言ってセシルは、燭台に灯を点け、鍵を台の上に置いて扉を閉め、出て行った。
男は何をするでもなく、旅装を解き、ドアノブの鍵を閉めた。スプリングも何もない萎びた干し草をシーツで包んだようなベッドに横になると燭台の灯を消し、そのまま横になった。
「……奴はもう寝たのか?」
カウンターの奥で主人が呟くような小さな声で尋ねる。
「隣の部屋で聞き耳を立てていたら、寝息が聞こえました」
セシルも同じように小さな囁き声で応えた。
「よし、お前はいつものように鍵を開けろ。他の者は鍵が開いたら、やれ」
真夜中となり、男が寝静まるのを待ち、主人は彼を襲撃するようにあらかじめ宿の中に潜ませていた手下たちに指示を出した。
主人は宿に泊まりに来る客を値踏みし、金を持っているかどうかをよく観察している。宿泊客からは当然宿代を頂戴するが、その際路銀以外の金をどのくらい持っているのか、注意深く見るのだ。その結果で、この宿に泊まる者は客か獲物かに分けられる。
結果として今夜の客は獲物だった。
あの大男が懐から宿代を出すとき、主人はその財布を覗き見て、かなりの実入りを見込んだのである。
主人はセシルに「お客様」と合図を送り、両隣の部屋に手下を仕込ませた部屋に案内させ、客が寝静まるのを待つ。そうして、客が寝込んだところを襲い有り金を頂くのが、この宿の流儀であった。
手下たちは思い思いに短刀や棍棒を持ち、そろりそろりと男の泊まる部屋の傍まで忍び寄る。足音でバレない様に、床材に消音の素材を用いたおかげで、この宿の収益は中々に悪くない。
小柄なセシルが盗賊たちの間を縫って歩き、男の部屋の前に立った。
今のセシルの役目は獲物を見つけて宿へと案内し、仕掛けのある部屋へ通して、扉を開けるだけだ。ただ、それだけの仕事だが、それは言わば殺人の片棒を担ぐことと何も変わらない。盗賊たちも好んで殺しを行うわけではないが、相手が抵抗したり、暗さで手元が狂ったりして、結果的に獲物を殺してしまうことがある。セシル自身はそれが終わった後に、部屋から死体を運びだし、掃除をして、部屋を元に戻すことが役目であった。もっと言えば、それがセシルの役目の大半である。
セシルとしては殺人に手を染める訳ではない。だから、自分は殺人者ではない、と認識している。だが、目の前のドアの鍵を開けることによって他人を死に追いやる、という事実が彼女の胸に黒い影を投げかけた。開け放った後、盗賊たちが獲物を殴り、撃ち、斬り付ける音や、獲物の悲鳴などが聞こえてくる。耳を打つその音が例え臓腑を凍えさせるような恐怖や嫌悪感を彼女に覚えさせるようなものであったとしても、それを聞こえないフリをして受け流していた。
しかし、セシルが感情面をコントロールしていたとしても、肉体に伝わる緊張と動揺は制御できなかった。彼女はしばしば開錠する際に手が震えるのだ。
これは自分が生きるためにすることだ、いつも彼女は最後には自分にそう言い聞かせるようにしていた。それが、彼女にとっての魔法の言葉であり、自身の行いへの免罪符だった。
いつもどおりだ、とセシルは自分の心を落ち着かせようと一つ、息を吐いた。
始めろ、と小汚い盗賊がセシルに手で合図を送ると、セシルは震えそうになる指を必死に制御しながら、マスターキーで部屋の鍵をぎこちない手つきで開けた。この宿の扉の鍵は全て音のなりにくい造りであり、セシルの手付きが多少ぎこちなくとも、耳を澄まさない限り鍵の開く音は聞こえない。
盗賊たちが雪崩打って男の部屋へと流れ込もうと、先頭の盗賊がドアノブへと手をかけた瞬間だった。
部屋の内側にしか開かないはずの扉が、とんでもない力で外側へと開いたのだ。
轟音とともに先頭の盗賊が吹き飛ばされた。
他の盗賊たちが反応するよりも早く有り得ない方向に開いた扉は、盗賊たちが控えていた廊下の階段側へと叩きつけられ、盗賊たちはもんどりをうって階段下へと転げ落ちていった。
その光景がセシルにはひどく緩慢としたコマ送りのような速度で見えた。
「――ヤロウッ‼」
その光景を見ていた階段と反対の廊下に控えた盗賊たちは、殺気立って勢いよく部屋の中へと飛び込む。
ところが、最初に飛び込んだ盗賊は男を見つけられなかった。
飛び込んできた盗賊は部屋の男に後頭部を砲丸投げのようにして捕まれ、飛び込んだ勢いのまま窓に叩き込まれたためである。
ガラスが砕けて嵌め殺しの窓が破られ、盗賊が悲鳴をあげながら、人気のない通りへと放り出されると、その破れた窓から泊まっていた男は外へと飛び出した。
ぐえっ、と背中から落ちた盗賊がうめき声をあげた。
その声を着地音として、大男は宿が面する大通りへと降り立った。
「ちくしょうッ! おい、外だ‼、追え!」
壊れた窓から外を見やった盗賊の一人がそう叫ぶと、内部にいた他の盗賊たちは我先にと階段を駆け下りて、宿の外へと飛び出していく。
目の前で繰り広げられる事態がセシルには飲み込めなかった。今まで、こんなことは起きたことがない。いくら大男とは言え、徒党を組んで一斉に襲い掛かられれば、ひとたまりもない。今までセシルはそう思っていたし、実際に盗賊たちも問題ないと考えていた。
だが、獲物は捕食者たちの予想を上回る抵抗を見せ、大通りへと逃げてしまった。このままでは盗賊たちも終わることはできない。セシルも抜けかけた腰を立たせて階段を降り、大通りに向かった。
そうして、真夜中の大通りにわらわらと殺気立った人影が増えていった。
対して男は何をするでもなく、宿から飛び出してくる盗賊たちを平然と眺めているだけである。
「テメェ、よくもオレたちをコケにしてくれやがったな‼」
「今度は逃がさねぇぞ」
盗賊たちは口々に悪態をつきながら、男を半包囲するように囲み始めた。
「お前ら、絶対に逃がすんじゃねぇぞ。こんな大物、逃したら向こう半年分の稼ぎがおジャンだぜ」
盗賊たちの頭である宿の主人が数名の手下を引き連れて出てきた。
「テメェ、どうしてここがこういう場所だってわかったんだ? お前を部屋へ通した時には、オレと案内役にしか会ってねぇはずだぜ?」
主人の疑問に男は夜の闇に良く響く深い声で答えた。
「木賃宿にしては床材と部屋のノブに消音材を使うのは不自然だ」
「何ぃ?」
「こういう所ではそういう宿の典型的な造りだ。それと、部屋の鍵を開ける時、かすかだが音が聞こえた」
「チッ、バレてんじゃねぇか‼」
主人は悪態をついて、横にいたセシルに蹴りを入れた。
セシルの薄い肉ではその衝撃を殺しきれず、骨が軋む音を聞きながらよろめきか細い声で「すみません」と謝るばかりであった。
「へへ、だがこの人数をどう相手するってんだ? え? こんな広い所で、だ。しかもテメェは一人だぜぇ。さぁ、さっさとその懐のモノを寄越しな。今だったら、まだ命だけは助けてやる」
そういうと、主人は下卑た笑い声をあげながら、盗賊たちに合図を出す。
一斉に盗賊たちは武器を構える。中には銃やボウガンを構える者もいた。
男はその場を見渡し、自分を囲む盗賊たちの数を数えた。全部で十五人以上いる。
「――これで全部か?」
男は武器を構える盗賊たちを一切気にも止めず、口を開いた。
「何だと?」主人が訝しんだ。
「これで、お前の手下は全部か、と尋ねた」
「そうさ。これがオレのカワイイ手下たちだ」
主人の勢力はこの街一番である。夜中の大通りに少しの時間でこれだけの人数をそろえられるのが、その証拠だ。主人は得意げにして顔を醜く歪めた。獲物を確実に仕留める包囲網が出来上がったことを内心で確信したのである。
「そうか、では良かった」
「あ? 何が良かったってんだ?」
「数が少ないから、処理する時間が短くて済む」
男の声はどこまでも静かで、深かった。これだけの人数に囲まれながら、少しも怯む様子は見受けられない。
「テ、テメェ、余裕コキやがって‼ 腕が立つのか知らねぇが、調子づいてんじゃねぇぞ‼ 構わねぇ、やっちまえ‼ 死体は川にでも撒いて魚のエサだっ‼」
その声を合図に盗賊たちは一斉に襲い掛かってきた。
男をめがけて発射される矢玉が、夜の闇を切り裂いた。
しかし、放たれた矢玉は、その影を掠めることなく、男のいた場所を素通りする。
その光景を盗賊たちが頭で理解するより早く、彼らの目の前に男が出現した。
闇夜に聳え立つ男の姿は縦にも横にも異様に大きく、月明かりに照らされた男の影に盗賊たちはすっぽりと覆われてしまう。
「そうだな。始めるか――」
男が動いた。
無造作に右手で二人を一度に殴りつけ、路地裏まで文字通りに吹き飛ばしたのである。
殴られた盗賊たちは紙切れように宙を舞い、地面に叩きつけられた。
「――なに⁉ ックソ――」
ボウガンの矢を外した盗賊が次の矢をつがえようと、矢に手をかけた時には、男は既にその盗賊の下まで移動していた。盗賊のがら空きの胴に男の左拳が鈍い音を立ててめり込む。盗賊は苦悶の声すら漏らせずにその場に崩れ落ちた。
男は続け様に、離れた場所にいる銃を構える盗賊にたった二歩で近づき、その勢いのまま蹴りを入れ、盗賊を宿の壁へとめり込ませる。続けて躍りかかった二人の盗賊たちを肘撃ちと裏拳で弾き飛ばした。その内、片方の盗賊が巻いていた腰帯に指を引っ掛け、直線状にいた別のボウガンを持つ盗賊へと投げつける。
すっ飛んできた仲間の体がぶつかり、きりもみしながら倒れる前に、男は近くにいた武器を持った別の盗賊たちへと猛烈な速度で近づいた。峻烈な拳を見舞い、瞬く間に二人の盗賊を伸してしまった。
その無駄のない、流れるような動作は獰猛そうな容姿とは真逆で、まさしく機械的に処理する、という言葉がふさわしい。男はほんの数十秒で半分近くの盗賊たちを片付けてしまった。
「な――」
主人が目の前で繰り広げられる光景に絶句するうちに、男は再び動き始める。
動きを止めた隙を付いて撃ち込まれた銃の鉛玉を、半歩踏み込んで射線から身を逸らし、そのまま弾丸を放った盗賊に岩石のような肩からの当て身を繰り出した。
凶器と化した男の体と建物の壁に挟まれた盗賊は湿った呻き声を出して、動かなくなり、その当て身に掠められた盗賊もバランスを崩して倒れてしまった。
男はすぐさま、倒れた盗賊の武器を持った手を踏み潰し、盗賊の武装を解除すると、地面に転がっていた壁材の一部を蹴り上げた。壁材は砲弾のように飛び出していき、吸い込まれるようにして棒立ちしていた別の盗賊の顔面へ激突した。
「ち、ちくしょうッ‼ 殺せ、一斉にかかれッ‼ こ、こんなことがあってたまるかッ‼」
主人は脇を固めていた手下たちに命令して、後退さる。
セシルは目の前で繰り広げられる蹂躙を呆気にとられて見ることしかできなかった。もしこの状況を伝聞されていればセシルは出来の悪い冗談だ、と取り合わなかっただろう。そんな現実離れしたことが、自分の目の前で繰り広げられている。
包囲した盗賊たちが、麦の様に男に薙ぎ倒され、小石を放り投げるように空中を流れて行く。出会ったときにお世辞として腕が立つ、なんて言ってしまったが、腕が立つ所の騒ぎではない。これではもはや物語の騎士が悪者を一方的に退治しているようなものだ。
主人を含め盗賊たちは明らかに狼狽していた。
今、目の前にいる大男は今夜の自分たちの獲物ではなく、もっと得体の知れない何かであり、自分たち如きが敵うような相手ではない、と今までの動きで分かってしまったのだ。
一人対十五人以上という圧倒的な数の差を、体格に分があるとはいえ、傷一つ付けることができない。何の破綻もなく、流れ作業のように叩き潰される仲間たちを見て、何人も手にかけた野盗の経験が彼ら自身に告げた。
この男が、手練れの戦闘の専門家であると。
本来であれば、この時点で逃げるべきである。すでに自分たちの半分以上は戦闘不能にさせられ、この戦いとも呼べないような争いは一方的な展開を見せているからだ。
しかし、彼らはこの一方的な展開を恐怖と屈辱をもって理解したくはなかった。それをすれば自分たちは獲物を狩る側なのではなく、自分たちこそが狩られる側である、ということを理性と本能で理解しないといけなくなるからだ。
自らに残ったちっぽけな正気を守るため、雄叫びなのか、断末魔の金切り声なのか分からない声をあげ、四人の盗賊は得物を振り上げて襲い掛かった。
四人の渾身の一撃が男に目掛けて一斉に振り下ろされるのと、男の右腕が閃くのは同時であった。
銀色の弧を描いて、男の右腕が振り抜かれると、盗賊たちはもはや一歩も動けず、ガタガタと震えることしかできなかった。
どこから取り出したのか、その光景を見ていた誰もわからなかったが、その手には刀身百七十センチはあろうかという大剣が握られている。男はその大剣で盗賊たちの粗末な武器を小枝のように叩き折ったのだ。
武器だったものが地面に散らばり落ち、勝負はついた。
「ぅぅう、うわあああぁぁぁッ‼」
武器と心を折られた盗賊たちは、転びぶつかりながら、クモの子を散らすように、逃げ出していった。
「お、おい⁉ お前ら‼ オレを置いてどこに行く‼」
主人は子飼いの手下たちに一人置いて行かれたことに焦りながら、自分も逃げ出そうとした。だが、男は主人を逃さなかった。山のように主人の逃げ道に立ち塞がり、主人を壁際へと追い詰める。
「お前で最後だな」
男が深い声で言った。
最後の守りも無くなり、丸腰となった主人は恐慌状態となった。
「い、いや、ちょ、ちょっと待ってくれ! オ、オレじゃあねぇよ。あんたを襲うよう指示を出していたのは、オレじゃあねんだよ。そう! そ、そう、コイツなんだよ。コイツがあんたを襲えって、俺たちに指示してたんだ。こ、殺すんならコイツにしてくれ。オレは何も悪くねぇんだよぉ!」
主人はしどろもどろになりながら言い訳を並び立て、隣で
セシルは引きずり込まれた勢いで態勢を崩し、跪くように岩石と見紛うほどの大男の目の前に倒れこんだ。
セシルは倒れこんだ拍子に腰を抜かした。立ち上がることもできず、一歩ずつ距離を縮めてくる男から少しでも離れようと、倒れ込んだ姿勢のまま腕で後退さるしかなかった。
男が握る大剣の刀身に、心底怯える自分の姿が見えた。
男はセシルの目の前で立ち止まり、フードの奥からその灰色の双眸を小柄な少女へと注いだ。
「お前は死にたいのか?」
それは絶対的な強者から、絶対的な弱者への問いであった。
「――ぇ?」
セシルにはその質問の意図が判じ得なかった。
男がその気なら、自分など一瞬で捻り殺される。単純にその巨木のような足でこの薄っぺらな体を踏みつければ、剣を使うまでもなくそれで終わりだ。
自分という人間の命はそれで終わる。たったそれだけのことで、自分は死ぬのだ。
そう思った時、セシルの頭の中には毎日集める死体たちの顔が思い起こされた。病で、怪我で、空腹で、血まみれであったり、血の気がなかったり、腐乱していたり、干からびていたりと様々だが、今からそれに自分がなる。
自分の虚しい一生は、こんなあっけなく、突然終わる。
それは、とても――
「二度は言わん。答えろ――」
男が一歩踏み出した。あと一歩踏み出せば、確実にセシルの頭を踏み潰せる距離だ。
「――わ、わたしは……」
少女のフードの中から覗く黒曜石の瞳に青白い月光が差し込む。
「し、死にたくないッ! 死にたくないです!」
――嫌だった。
何も自分はしていない。
自分には何もない。好きなことも、将来も、何ができるのかも、何も無いまま、虚しいままただ死んでいくということは、たとえ自分がどん底をはい回るだけの薄汚い人間だとしても、嫌なのだ。
心の底から、嫌なのだ。
それは母を失い、一人でならず者の街をさまよう少女の心からの叫びであった。
ふり絞るように、ありったけの力で叫んだ瞬間――
造作もなく大剣が振り下ろされ、鈍い音を立てた。
少女が瞬きもする間もなく、大剣は主人の顔面のすぐ横の壁に突き刺さった。
主人の脆弱な神経ではもはや次の展開を正視することはできなかった。ひっ、と主人は息を呑み、失神しズルズルと壁沿いに崩れ落ちたのである。
男は腰を抜かしたセシルの横を通り過ぎ、壁に突き刺した剣を引き抜いた。倒れ伏した主人には目もくれず、男は静かにセシルへと近づく。
月光に照らされた白銀の剣を無造作に抜き身のまま手に持ち、巨大な影はセシルの前に聳え立った。
セシルはがばっと、地面に顔面をこすりつけるように平伏し、この巨大な男に自分が取りうる唯一の行いであろうことをした。
命乞いである。
「い、命だけは助けてください‼ な、なんでもします‼ 盗みも、騙しも、やれることは全部やりますから、ど、どうか! 命だけは……た、助けてッ」
必死の懇願に男は最初に出会った時と同じ深く澄んだ声で応えた。
「……何でもするから命だけは、か――」
男はどこからともなく取り出した大剣を、旅装のどこかへと仕舞い込んだ。
「では、命だけは助けてやろう。その代わり、今からお前の命は俺のものだ」
男はそう言って、腰の抜けたセシルを立たせるために手を差し伸べた。
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