7 三人目

 講演会から一夜明け、セシルはこの数日ですっかり魅了されてしまった居心地の良い寝床から抜け出すのに苦労していた。やはりきちんとした寝室のベッドはいいな、と寝ぼけながらもしみじみと思う。


 身支度を整えて待合室に顔を出すと、昨日と同じようにグレンはその大きな体で器用に椅子に腰かけて、新聞を読んでいた。


「おはようございます」

「おはよう」


 グレンはそっけない挨拶をして、新聞に目線を戻していた。新聞の一面には『総督監査、領主の大罪を摘発か』という見出しで連行されていく男爵の写真が大きく掲載されていた。


「もう新聞に出てるんですね、それ」

「それはそうだ。監査局の連中はここまで織り込み済みで動いていたんだろうさ」


 グレンは何気なくそう言って、テーブルに置いてあったコーヒーを一口飲んだ。


 昨日、割れんばかりの拍手の中、アンダーソン館長とバルディーニ臨時監査官が降壇した後、会場の熱気冷めやらぬうちに総督軍がホールへとなだれ込んできた。


 そこではまず今回の一件はまだ正式な起訴となる前の段階であること、その段階で大きな騒ぎとなると今後の捜査に影響が出る可能性があること、ハドリアンと関係のある街や組織などとの関係が悪化する恐れがあること、などの説明をした。


 その後聴衆の身元の確認をするという話になり、ホール中に集まった人間の調査が開始された。


 軍としては不審な人物の洗い出しや、その場に紛れている外部の人間の洗い出しを進めつつ、領民たちに下手に騒ぎ立てないようにという圧力を加えたかったようだ。


 しかし、聴衆は簡易な検査とはいえ、そこまで付き合うつもりはなかったようで、一部の聴衆が官憲たちに食って掛かり、会場は騒然とした。


 そこからのグレンの行動は素早かった。


 検査をされるという話が出て、会場がざわつき出すとセシルに小さく耳打ちをしてきた。


「すぐに出るぞ」


 セシルもその意図を汲み、素早く席から立ち上がると塞がれていなかった最寄りの出口からホールを脱出した。


 そこからグレンたちは人目が少ない裏手口から博物館を後にしたため、官憲たちに見つかることなく、宿へと帰還を果たしたのであった。


「総督府の人たちは大事にするなって言っていましたよね? でも、今日の朝刊ではもう大きく取り上げられているわけですから……あ、もしかして総督の狙いはむしろ大事にするってことですか?」


 セシルの思考を覗き見たかのように、グレンが新聞を見たまま口を開いた。


「そうだ。連中としては領主の逮捕でハドリアンの力を削ぐと同時に大きく騒ぎ立ててくれれば、他の辺境領地やまだ残っている男爵派閥への牽制ができる。好き放題やっている領主なんてのはどこにでもいる。まともな運営をやっている領主の方が少ない」


 当然のことを説明するようにグレンが無感動に説明し終わると、その武骨で大きな指を起用に動かして新聞を綺麗に折り畳み、テーブルの上に置いた。


 グレンという男は見かけによらず結構な几帳面である。


「朝飯は食ったか?」


 セシルが首を振ると、グレンが宿の主人に朝食を頼んでくれた。


 セシルは朝食が来るまでの間に今日の予定を尋ねることにした。


「今日はいつ頃発ちますか?」

「総督が午前中に発つから、一般人は午後から受付だ」

「次はどちらに向かわれます?」

「そうだな……行きたい場所はあるんだが、問題はどうやって見つけるかだな」


 グレンは窓の外を眺めながらそう言った。


「見つける? 行きたい場所はあるんですよね? その場所が見つからないって言うのはどういうことですか?」


 セシルはグレンの矛盾した発言に素直な質問した。


 セシルの問いに自分の発言が、他人が聞くと変な言葉であることに気づいたグレンはセシルに向き直って言った。


「あぁ、あれは常に移動しているからな。そのくせ移動しても場所を一々知らせてはくれないから、探すのが面倒ということだ」

「それって、行商人とかですか?」

「近いと言えば近いな」


 セシルの質問が面白かったのか、グレンは小さく鼻を鳴らした。


 丁度会話が途切れたタイミングを見計らっていたのか、丸顔の主人がモーニングを運んできた。カリカリのベーコンが香ばしく、空きっ腹のセシルの食欲をそそった。


 朝食を済ませて、宿を引き払ったが午後まで足止めを食らってしまったので、例によって二人は時間を持て余してしまった。


「少し寄り道をしていいか?」


 どのようにして時間を潰すべきか思案していたセシルにグレンが声をかけた。特に断る理由も無かったので、セシルは首を縦に振った。


 グレンはセシルを伴い、先日訪れたウタカナ遺跡の発掘現場へと足を向けた。


 博物館を通り過ぎ、舗装された道沿いに進むと開けた丘陵地帯が見えてくる。グレンはその丘の頂上付近で足を止めた。


 丁度役場の裏手側に当たる部分だ。ここから丘陵の斜面が主な発掘現場となっている。


 グレンは何を言うでもなく、その発掘現場を眺めていた。


 フードに隠れてしまったグレンの表情をセシルは窺い知ることはできない。グレンが何を考えてここに来たかったのかは分らないが、別の場所に行く素振りもないことから、とりあえず寄り道とはここが目的のようだ。セシルはグレンの少し後ろに控えて、発掘現場を見下ろした。


 土が掘り返され、黒々とした地面の内側がむき出しとなっている。その中を作業員が通れるように細い通路が迷路の如く張り巡らされていた。黒々とした土の中に質感の異なる大きな建造物のような物が埋まっているのが見える。


 あれが本物の遺跡というやつか。


 はっきり言ってほとんど土と見分けがつかない。


 最初からああいう色合いというわけではないのだろう。


 長い年月を土の中でゆっくりと朽ちていくうちに汚れや水を吸い、腐食が進んでああいうくすんだ色合いになるのだろう。


 意外となくならないものなんだな、とも思った。


 人間がいなくなった建物というのはあっという間に朽ちるものだ。ランカークスでは手入れされていない建物などは不用意に使うと壁や天井が崩落する危険があるので、慎重になったものだ。


 だから、セシルは人が捨てたものはいずれ無くなってしまうのだと思っていた。死体なども一時は残るが、回収すればその場から無くなるし、医者に渡せば原型が無くなるまで切り刻まれて、不要な部分は焼き捨てられていた。そういう場面を見ていたから人も建物も時が経てば形を失い、いずれは痕跡さえ残さず消え失せていくものなのだろうと思っていた。焼却炉に放り込まれる人間の残骸が入った袋を眺めながら、いつかは自分もああいう風になるのか、と想像することもあった。惨めに生活して、あっさり死んで、ゴミとして捨てられる。そして誰の記憶にも残らず、忘れられていく。そんな無価値なものが人生とかいうやつなら、一体私は何のために生きているんだろう、と偶に不安がよぎるのだ。


 だが、この場にはかつて遠い過去の誰かが今の自分たちと同じように暮らして、生きていたという痕跡がたくさん残っている。


 そう考えると、セシルは少しだけ安心できるような気がした。人は何も残せない訳じゃない、と知ることが出来たからだ。


 どんなに小さな痕跡でも、生活を賭けてまでその痕跡を見つけ出そうとしてくれる人は確かにいる。その人たちがそこから何を学んで、どのように活かしてくれるのかは知らないが、役に立つというのなら無駄ではないと言える。


 自分のような最底辺の人間でも誰かのためになれる人生を送れるのかもしれない、そう思った時セシルは自分の心が少しだけ軽くなるような感覚を覚えた。


 そんな事を考えながらセシルの目は発掘現場で働く作業員たちへと向けられた。


 作業員たちには昨日の博物館の騒ぎなど無関係なようで、忙しそうに重機を動かしたり、土を運び出したり、埋まった家屋や木切れから慎重に土を削る作業などをしていた。


「お二人もいらしていたんですね」


 背後から声を掛けられセシルが振り向くと、くたびれた白衣を着たアンダーソンが立っていた。昨日の整えられた髪ではなく、元のボサボサに戻っている。


「街の英雄殿がこんな場所に来ていていいのか?」


 グレンがそう言うと、アンダーソンが苦笑した。


「やめてください、英雄だなんて。あのまま監査官に捕まって真夜中まで事情聴取ですよ」

「昨日の今日で外に出られるということは、やっこさんはあんたを標的にはしなかったようだな」

「ええ、そのようですね。お二人はご存じないと思いますが、昨日の講演会でバルディーニさんが私を協力者だと言ったのは、あれ嘘なんです」


 アンダーソンはあっけらかんと言い放った。そして彼には次にこの大男が言う言葉も分かっていた。


「だろうな」

「やはりお分かりになりますか?」

「前に会った時のあんたの様子からじゃ、あの若いのが言っていたこととかけ離れすぎている」

「え? それじゃあアンダーソンさんはあの時本当に辞任する気でいたんですか?」

「はい、そうですよ。男爵の脅しに屈して総督に報告まで済ませてしまっていたんです」


 セシルはてっきりあの発言があらかじめ打ち合わせていたもの、と思っていたのでアンダーソンの潔い告白に心の底から驚愕した。


「総督にも虚偽を報告したってことか?」

「結果から言うと、その件は黙殺されたようです」


 昨日の取り調べの中で、その件には不自然なほど触れられなかったのだ。恐らく、あの臨時監査官の青年が手を回したのだろう、とアンダーソンは思っている。


「講演会を開くように言ったのは総督か?」

「ええ、よく判りますね?」

「奴ならやりかねん」


 グレンの声には苦々しさがにじんでいた。


「――それはそれとして、あんたは晴れて無罪放免になったってわけだ」


 その苦みを振り払うように、グレンにしては少し砕けたような口調だった。


「そのようですね……やっと終わりましたよ」


 アンダーソンはそう言って、大きなため息を吐いた。


 たった数日程度のことであれ、アンダーソンの周囲で起きた陰謀はこれでようやく終息したのであった。肩の荷も降り、ため息の一つでもつきたくなるのは彼がこの数日で被った様々な苦労からも見ても責められるものではない。


「実を言うと、木簡が出てくるまで真実を話すべきかどうか、迷っていたんです」


 アンダーソンは更に重ねて告白した。


「いざ木簡が出てきて話そうかと思った時、座席にお二人が座っているのが見えましてね。その時に腹が決まりましたよ」

「私たちを見て、ですか?」

「はい。お二人を見て、自分がより納得できる未来はどっちなのか、改めて自問したんです」


 以前、人のいないホールの中で話したことが本当にこの学者の人生を変えてしまいかねない内容とは、その時セシルは露程にも考えていなかった。


 ただ、思い返してみればああいう質問というのは見ず知らずの他人に気安くする内容ではなかったように思える。セシルは自分の人生というものをそれほど深く考えたことはないから、誰かに相談した経験などもないが、きっとそういった話はもっと気心が知れた家族とか友人にする話なのだろう。


 それを先日知り合った、ただの来館者の二人組にする、という心理状態は相当に追い詰められていた、ということなのではあるまいか、とセシルは推し量っていた。そうだとすれば、アンダーソンが気の毒だったし、結果として彼に咎めが出なかった、ということは本当に喜ばしかった。


「グレンさん凄いですね。あれだけのことで、この街を救ってしまったんですから」


 セシルからすると、アンダーソンが罪を告白し、男爵を追及するきっかけを作ったグレンのことも誇らしかった。


「ええ、本当にそう思います。私はあなたの言葉によって救われました。本当に感謝しています。ありがとうございました」


 そう言って、アンダーソンは礼をした。


 グレンはぶっきらぼうに言った。


「礼をされるようなことなんか、してはいない。確かにきっかけは俺の言葉だったのかもしれないが、あの場で告白をするという決断をし、実際にそうしたのは他ならぬあんたじゃないか。褒められるのはそっちの方だと俺は思うぞ」


 頭を挙げたアンダーソンはグレンの言葉が思いもよらなかったのか、その顔に疑問符が浮かんでいた。


 それを汲んだのか、グレンは続けた。


「実際に男爵から脅されて圧力を加えられていたんだろ? 権力者に逆らってまで自分の信条を守り抜くってのは、口では簡単だができる奴はそういない。正しいことをあんたはやったんだ。誰に文句を言われる筋合いはない、そうだろう?」


 グレンの言葉は昨日の講演会からアンダーソンの胸に去来していた一抹の不安を拭い去るものであった。


 自分は本当に正しいことをしたのだろうか。


 告白をすることによって、自分だけでなく可能性が少ないにしろ博物館のスタッフや関係者にまで影響が及ぶことも考えられた。男爵は失脚するだろうが、その余波が博物館側に何の影響も及ぼさないという保証はない。罪の告白と男爵の弾劾は結果として、自分自身だけでなく周りも巻き込んで不幸にするところだったのかもしれない。


 そういう不安が昨日からずっとアンダーソンの両肩にずしりと重く寄りかかっていたのである。だが、グレンの言葉はあっさりとその不安の重りを払いのけてしまった。


 お前は正しいことをしたのだから、誰にも文句を言う資格はないのだ。本当にその通りだ。他の誰かが自分と同じ立場だったとして、同じようなことをしたとしても、やはり文句なんて言えないだろう。その人は脅しに屈せず、良心と法を持って立ち向かったのだから。


 それを自覚したとき、本当にアンダーソンの中で今回の一件が落着した。アンダーソンは自分を救ったこの街の本当の英雄を見上げて、答えた。


「――はい」


 それは、憑き物を吐き出すような力強い声であった。


「ところで、お二人はどうしてこのような場所にいらっしゃっていたんです?」


 セシルが聞きたかった質問をアンダーソンがした。


「多分、あんたと同じ理由だ」


 グレンの答えにアンダーソンは納得するようにあぁ、と相槌を打つ。


「私もここからの景色は好きですよ。息抜きがてらよくここでぼーっとしています。ここから街を一望できますし、特に夕焼けが綺麗なんですよ」

「昔から変わらない。街が変わろうとも、人が変わろうとも」


 グレンの声は懐かしむような響きがあった。


「前に来たことがあったんですか?」

「――ずいぶん前にな」


 セシルはもう一度丘の上から見える景色に顔を向けた。


 眼下に広がるのは土の色をむき出しにした黒と、人々が行きかう街を形作る石の灰色や黄土色だ。砂色の城壁を超えた先には一面に草原の緑が続き、地平線の先が空の青さと交わるまでその緑野は続いていた。その地平線に沈む夕日はさぞ見栄えするだろう。


 自然と人工物の境界がはっきりしていると、足元に広がる街並みが人間の領域であることを如実に物語る。一面に広がる緑野に比べその範囲はとても小さい。それでも、その狭い範囲の中で人々が活気強く、ともすれば騒々しく生活する様は人の力強さを率直に表しているようでもあった。


 背後の丘の下から声が聞こえてきた。


「館長ぉおーー‼、監査局の方がお見えですぅーー‼」


 丘の斜面の下で、アンダーソンと同じような白衣を着た人物が手を振っている。


「アイツらも熱心なことだな」


 グレンが苦笑気味に言った。


 すぐ行く、とアンダーソンが大きな声で伝えると白衣の人物は博物館の方へと去っていった。監査官に報告をするのだろう。


「すみません、それでは私はこのあたりで。お二人はもう出発されるんですか?」

「ああ、もうそろそろ城門の交通許可が出るだろうさ」


 そうですか、とアンダーソンは名残惜しそうに呟くと、おもむろに右手を差し出した。


「いつまたこちらに来られるか分かりませんが、是非またいらしてください」


 その時セシルは、一瞬グレンが差し出された右手を奇妙な物を見る目で見ているような気がした。ほんの少しだが、グレンがたじろいだように見えたのだ。握手というものに不慣れなのだろうか。


「……ああ」


 そう言って、グレンはゆっくりと右手を差し出し、アンダーソンの右手を握った。握ったといっても、二人の掌の大きさは大人と子供ほどに違うので、半ばグレンがアンダーソンの右手首ごと掴んで握手する形となった。


「あなたも」


 そう言って、アンダーソンはセシルに手を差し出した。


「アンダーソンさんもお元気で」


 セシルが握った学者の手は細くはあったが、表面が固くがさついていた。


 握手を終えたアンダーソンが丘を降りようとした時、その背中にグレンが声をかけた。


「――あんたが言っていた水源と治水工事の矛盾の話だが」


 白衣の学者が振り返った。


「事実と事実の矛盾が発生する時は、その整合を取る論理にこそ常識はずれな視点が必要になるのかもしれない」


 アンダーソンはかけられた言葉の意味を理解しかねているようであった。


「研究、うまくいくといいな」


 そう言って、グレンは自分でも気づかなかったが、頬が僅かながらその硬さを緩めていた。


「私もあなた方の旅の無事を願っています」


 そう言い残し、白衣の学者は自身の職場である博物館へと戻っていった。




 二人が連れ立って丘を離れるのと同じ頃、街の西門では正に総督が馬車でこの地を離れようとしていた。総督は馬車の入り口で見送りに来た今回の監査の責任者である二枚貝のようにぴったりと口を閉じた男に後事の内容を手短に指示した。


「男爵派の片付けは任せる。貴方の職権で領主陣営の影響力をできるだけ削いで欲しい。軍も多少残していくから、うまく使ってくれて構わない」


「承知しました総督。――恐れながら一つお伺いしたいことが」

「……貴方の言いたいことは分かるつもりだ」


 総督は男の発言の趣旨を察したのか、男の言上を理解した態度で答えた。男は総督から発言の許可を得たものとして、更に総督の考えを問うた。


「では何故あの男を手放されるのです」


 男の表情は長年監査官として積み上げた経験からなる何らの感情を匂わせることない鉄面皮であった。淡々と事実のみを告げて標的を締め上げる尋問官としての顔も併せ持つ男である。それが例え仕える目上の人間であっても、この男は愛想笑いの一つもこぼさないのが常であった。鉄面皮から発せられる冷徹な視線に晒されると、対した人は後ろめたさがないのにも関わらず、ひどく緊張させられるのである。


 誰に対してもこういう態度であることもあって、並みの人間では彼の能力を十全に扱いきれないが、この若い隻眼の総督は職務に実直すぎる内部調査室長の実力を評価し、使いこなせる数少ない人物であった。


「便利ではあるが我々にとっては劇薬に過ぎる。手元に繋いで飼い殺すのは逆にリスキーだろう。貴方も彼の手法の巻き添えを食っていたじゃないか」


 不用意に自分の考えを披歴ひれきしない総督であるが、伝えるべきことやその時期を逸するという失敗もまた少ない。


 二人が話していたのは今回の監査の立役者についてであった。確かに標的を落とすことには成功したが、派手に立ち回り過ぎである、というのが二人の所感だ。監査局のやり方とは根本から合わない。しかし、たった一人で辺境地の実力者を落とす能力は評価に値した。


 男爵失脚までの計画の立案、実際の潜入、計画の臨機応変な変更、標的の収穫までを全て卒なく、しかも片手間でこなす能力、流石は青の勢力が誇る『青枝の隠密』であると言わざるを得ない。


 だからこそ、と室長は考えた。


「重ねて恐れながら、劇薬であるからこそ手元に置いて監視するべきではありませんか。万が一こちらの敵に回れば、厄介な手合いかと」

「不浄卿と青側の確執は骨肉を相食む次元だ。彼らが裏で手を組む可能性が無いとは言えないが、かなり薄い。それに例え監視を放とうが、何らかの手段で飼い殺しにしようが、奴ほどの腕前であればきっと逃げられる。そうなるとせっかく彼との間に繋いだパイプが途切れてしまう。人脈は大いにくはない。また利用できる時に利用しようじゃないか」


 そう言って総督は室長との会話を打ち切り、馬車の中に乗り込んだ。


 室長もそれだけで心得たようで、再びその口を貝のように閉じ、馬車の御者に合図を出した。


 御者が馬車の扉を閉めて、前方の御者台の上に乗り込んだ。


 総督の馬車は前後を連れてきた軍勢に守られながらハドリアンの地を後にした。


 総督は賢明だ、と室長は表情筋を微動だにさせず内心で感心した。目先の危険因子の可能性よりも、この先の展望においての有効活用に重きを置いている。自分の敵の巨大さをよく心得ているようだ。


 室長はその場で行列が通り過ぎるのを眺め、総督の馬車が見えなくなると踵を返し、監査局が拠点として陣取った役場の方へと戻っていった。


 総督より仰せつかった任務を徹頭徹尾、正確無比に完遂するため、その頭脳は既に高速で回転を始めていた。




 総督が去った後、一般人の通行が可能になった西門へと続く大きな通りにフードを被った山のような体格の男と少女の姿があった。


「どこかで情報収集とかしてみますか?」


 石畳で舗装された道を歩きながら、セシルはグレンの背中に問いかけた。朝、宿で言っていたどこにいるかわからない、というグレンの言葉を踏まえての提案であった。


「交易が大規模な街がいいだろう」

「情報も集まりますしね」


 二人の意見は概ね一致していた。


 交易が盛んということは、人と物が行き交うということであり、それは必然、形を持たない情報という資源も激しく行き交うものである。


「その行きたい場所っていうのは、何て言うところなんですか?」

 セシルは今後の情報収集のため、グレンから目的地の情報を少しでも聞き出そうと、努めてさり気なく尋ねた。


「『極星の天幕』という場所だ」

「キョクセイ? 聞いたことないです……」


 セシルは自分の頭にある記憶の収納棚をひっくり返してその響きの言葉を検索したが、一件もそれらしい結果は見いだせなかった。

 更にセシルはその『キョクセイの天幕』なる場所の特徴を聞き出そうと口を開いた。


「『極星の天幕』をお探しなんですか、旦那?」


 セシルの口が音を発する前に、男の声が前方から聞こえてきた。


 行き交う雑踏の中から忽然と現れたその男は明るい茶髪にスラリとした体躯の若い男であった。少し眠たげな深緑の瞳は整った顔のパーツと合わさり、芸術品と言ってもよい造形である。


「あ! あなたは……昨日の講演会にいた――」


 見間違えるはずはない、とセシルは確信していた。昨日の壇上での大立ち回りで男爵を追い詰めた臨時監査官である。


 相変わらず、自信ありげで不敵な笑みを浮かべており、またそれが妙に様になるのが、セシルの癇に障った。


 セシルとしては単に容姿や立ち振る舞いが腹立たしいのではなく、その腹立たしさの大部分は先日、グレンに良いところを見せようと張り切ってスリを仕掛けたら、見事にスカされたという苦々しい失敗に集約されるのだが。


 バルディーニ臨時監査官は昨日の壇上に現れた時に着ていた仕立ての良い服ではなく、青っぽい身軽そうな旅装であった。


「ようやく来たか。いつまで経っても来ないから、西門で待ち構えているのかと思ったぞ」


 バルディーニの出現を予期していたかのような言葉である。


「グ、グレンさんはこの人を待っていたんですか?」


 グレンはセシルの驚きを特に意に介すことなく、突如現れた臨時監査官の旅装を見て言った。


「役者の次は旅人か? お前の仕事場はこの街だろう」


 グレンの疑問にバルディーニは人好きのする笑みで清々しく答えた。


「ああ、それなんですけど――オレ、仕事辞めましたんで」


 バルディーニの口から出た言葉はグレンとセシルの耳を通り抜け、頭上でたっぷり三周ほど愉快に踊りながら、通りを歩く人々の足音に掻き消されていった。


「っつー訳で、オレ、今、無職です」


 この人は何を言っているんだろう、というのがセシルの最初に抱いた感想であった。


「――別にお前が何の仕事をしていようが、どうでもいい。それよりも、俺から盗っていった物を返してもらおう」


 いきなり現れて無職宣言したことは忘れ去ろうとしたのか、グレンはバルディーニに本題を告げた。


 先日、グレンから盗み出した契約書を返すよう要求したのである。


「旦那ってば薄情だなー。オレがこういうことになっちゃったのも、元はと言えば旦那にあるんですからね」

「盗む?」

「市場ですれ違った時に俺もやられたんだ」


 何が何だかわからない、という顔をしているセシルにグレンが手短に状況を伝えた。それでも、セシルはまだ完全に状況を飲み込めてはいないようだ。ただ、目の前の男がグレンに対して随分な言い掛りをしていることは分かったので、問い糺した。


「盗みもそうですが、そもそもどうしてグレンさんのせいなんですか!」


 いきなり現れて、グレンの物を盗んだ挙句、失業の責任までグレンのせいだと言い張るこの男に、いよいよセシルは我慢が利かなかったのである。


 セシルが食って掛かってきたところで初めてバルディーニはセシルの存在に気付いたかのように振舞った。


「おや、これはこれはお嬢さんシニョリーナ、ご機嫌いかがですか? お会いできて嬉しいですよ」


 バルディーニは白々しくそう言って、貴族の令嬢にするような恭しい一礼をした。


「たった今、最悪になりました」

「おや、ご機嫌が悪いと? もしや、この間の市場でのこと、根に持ってる?」


 図星を突かれたセシルは一瞬、言葉に詰まったが気にしていない振りをすることにした。


「……そんなことはどうでもいいです。さっさとグレンさんから盗った物を返してください」


 セシルがムキになって言い返している間、グレンの肌と同じ灰色の瞳が射殺すような視線でバルディーニの顔に注がれていた。


「いやいや、返さないとは一言も言っていないじゃないですか。ちゃんと返しますよ。旦那ともそういうお話でしたし」


 山のような男からの害意を感じたのか、バルディーニはあっさりと懐から古びた羊皮紙を取り出し、それをグレンに向けて差し出した。


「それって!」


 セシルが驚くのは無理もなかった。バルディーニが差し出したのは先日、東門からこの街に入場する時に門番に示した羊皮紙だったからだ。セシルは詳しい中身について聞いた訳ではなかったが、街に入る時に使ったということは、出る時も使うのだろう、と何となく予想していた。自分たちは通行証を失っていた、という事実にセシルはこの時初めて気づいたのである。


「な、なんてもの盗んでるんですか、あなたは!」


 危うく自分たちは街から出られなくなるところだったし、このまま西門まで行ったらこの羊皮紙を出せずに怪しまれて、警備兵たちに拘束されかねないところだ。セシルは当然に怒った。


 すると、さっきまでグレンたちをおちょくるような態度だったバルディーニは眉根を寄せ、真面目そうな顔で答えた。


「盗んだことは大変申し訳ありませんでした。本来なら昨日、ホールでお返しする予定だったんですが、予定外の事態が多く起きまして、旦那にコレをお返しする段取りが飛んでしまっていたんです」


 グレンは受け取った羊皮紙の中を確かめて、細工や破損がないか確認していた。


「一刻も早く返さなくてはと思って、仕事の引継ぎをして、鉄面皮の室長殿の鼻っ面に辞表を叩き付けて、二人を追いかけて、何とか捕まえたってわけです」

「それなら、俺たちの前から出てくるのは変じゃないか?」


 何気なく言ったグレンの一言は的確であった。


「ま、ぶっちゃけると二人が泊まっていた宿に顔を出したんですが、もう発たれた後だったわけで……それでもう西門に向かっていると思ってすっ飛んで行ったら、まだ来てないじゃないですか」

「俺たちが西門から出ると何故わかった?」


 羊皮紙を仕舞い込んで、グレンが尋ねた。


「監査日の前日に西門まで行って、一度出ようとしていましたよね? 通れるようになればそこから出ていくと考えるのが自然かと」


 バルディーニにはこの街での二人の行動は筒抜けであった。


「そうか、それじゃあな」


 そう言って、グレンはバルディーニの真横を通り過ぎて行こうとした。


 バルディーニは再びその前を遮るように素早く立ちはだかった。


「ちょ、ちょっと待ってくださいよ、旦那ぁ」


 その声は昨日の壇上で発していた魅惑的な美しい響きではなく、みっともなく弱り切った響きであった。端正な顔立ちの男は今にも泣きだしそうな顔で、グレンが行こうとするのを引き留める。


「大通りで気持ち悪い声を出すな。俺とお前が何かの関係者みたいに思われる」

「あのですね、旦那に折り入って一つお願いがありまして……」


 色々な意味で危ない愁嘆場と思われ始めたのか、二人のやり取りは徐々に周囲の注意を引き付けつつあった。


 片や見上げるほどの大男で片や細身な優男である。二人を見つめる周囲の視線は奇異や迷惑、という感情もあったが、何故か一部の人々の視線がやたらと熱の籠ったものであったという。


 グレンは心底迷惑そうにバルディーニを一瞥し、振り切るかどうか迷った。しかし、目の前の半べその男を実力で振り払うのが実は結構面倒くさいということを理解していたため、渋々諦めることにした。


「……何だ」


 その代わりにグレンの声には不快感が満載であった。


「オレを旦那方の旅に連れて行ってもらいたいんです!」

「何で俺がわざわざお前を旅の道連れにしなきゃならないんだ。付いてきても給料も出んぞ」

「じゃあどうして、そのお嬢さんをお連れになっているんです? こっちが押さえていた情報では一人旅とお伺いしていましたが?」


 その声はグレンの岩よりも固い心臓をチクリと突いた。


 この男は表情と声のトーンをあえてズラして交渉するという技術も習得しているようだ。


 グレンは内心でつくづく食えない男だと毒づきながら、自身の敗北の合図を出すしかなかった。


「……チッ」


 その舌打ちを了承と受け取ったバルディーニはさっきまでの半泣きの表情を嘘のように消し去り、今まで通りの人好きのする笑顔に張り替えて宣言した。


「ありがとうございます。微力ながら、お力添えいたしますよ」

「何が目的だ? それだけ聴かせろ」

「別に大したことじゃありません。あらかじめ言っておきますけど監視とかでもありませんよ。単にお二人の旅の方が色々と面白そうだな、と思っただけでして」

「お前みたいなやつが打算抜きで動くか。まぁ、いい。ここで締め上げてもはぐらかされるだけだろう」

「ご理解が早くて助かります。お二人の邪魔をしようって訳ではないという所だけ、覚えておいていただければ」


 二人の間で話がまとまりそうになっていたので、慌ててセシルは口を挟んだ。


「ちょ、ちょっと待ってくださいグレンさん。こんな得体の知れないヤツも一緒に連れて行くんですか? 止めておきましょうよ。コイツ、グレンさんの荷物盗んだヤツですよ!」


 時にボロをまとったスリ、時に権力者におもねる書記官、時にその権力者を追い詰める監査官、という舞台俳優顔負けの使い分けには薄ら寒いモノをセシルは感じていた。


 普通、あそこまで華麗に己の役どころを変えることが出来るのだろうか、と疑問であったし、それでもなお自身の真意を明らかに隠し通す姿勢がただの多才な無職には見えなかったのだ。


 どことなく、嫌な予感がする。


 先日の湖で邂逅した、あの黒衣の男と似た感触をセシルは持ったため、連れていくことに反対を示した。


 グレンははっきりと反対の姿勢を示したセシルの様子を一瞬ではあったが、注意深く観察した。


 セシルはグレンに対して何事もグレンの意志に従うという姿勢であったが、ここにきて明確にグレンに対して忠告をするようになった。グレンのことを考え、自分なりの考えを伝えてきたのだ。


 セシルの内面の変化についてを考えながら、グレンはセシルに目の前の男の素性を説明した。


「セシル、こちらのバルディーニ氏はお前の見込み通り、ただの書記官でも監査官でもないし、多芸な浮浪者でもない。本当の正体は『青枝の隠密』という青側の工作員、つまり情報操作のプロだ」

「あー旦那っ! そんなあっさり言わないでくださいよ。もっと勿体ぶって遊びたかったのにぃ」


 バルディーニは心底残念そうに言った。


「この人が青の工作員?」

「そうっス。後、オレの名前バルディーニじゃないんで」

「何と呼ばれているんだ?」

「仲間内からはルカって呼ばれています」


 一体いくつ嘘の情報をまとっているんだろう。こうなってくると最早この人物の情報について何もかもが怪しく感じられてしまうセシルであった。


「今言った通り、ルカという名前も本当の名前ではあるまい。エルフはそんな名前を子供につけないからな」

「え?」

「いつまでそんな格好している。見ているこっちが窮屈だから、さっさと擬態を解け」

「いや解けって言われても、オレはヒューマン……イテテテッ!」


 バルディーニ改めルカがグレンの言葉を否定すると、グレンはルカの両耳をむんずと掴み、左右に引っ張った。


 ルカが悲鳴を上げてもグレンは手を放さず更に強く両耳を引っ張ると奇妙なことが起こった。


 ルカの両耳が左右に広がったのである。


 溶けかけたチーズが伸びるようにルカの耳がグレンに引き延ばされていく。


 耳が伸びれば伸びるほどそれに比例して髪の毛のブラウンが実った小麦のブロンドへと変化していった。


「わ、わかりました。参りましたから手を放してって!」


 ルカが身を捩って抵抗をしたためグレンも手を離した。


 セシルの前に現れたルカの姿はエルフのそれであった。


 長い耳に色白の肌、流れるようなブロンドの長髪で少し眠たげな深緑の目を縁取る形の良い柳眉や卵型の輪郭などは、話に聞くエルフの特徴に一致する。


「……ほ、本当にエルフだったんですね」


 先程から驚愕するばかりのセシルにルカが肩を竦めた。


「旦那も人が悪いですねぇ。いつオレがヒューマンじゃないって分かったんです?」

「そもそも青枝の隠密に普通のヒューマンがいるとは考えにくい。契約印もないヤツに隠密の仕事は無理だ」

「なるほど、でも末端だったり、騙りだったりする可能性もあるのでは?」

「騙りや末端に昨日みたいな仕事ができるか。それから、お前酒場でやたらと俺に掌を見せてきただろう?」

「そうですか?」

「いかにも弓とか銃をやっていません、っていう綺麗な掌をそれとなく見せたかったんだろうが、逆にそれが不自然だ。掌ごと擬態していますって言ってるように俺には見えたぞ」


 擬態までも見抜かれたのはルカも予想外であった。


 やはりこのオーガは自分の想像以上に面白い、と内心でルカは小躍りしそうな気持ちを覚えたが、感情を表情筋に伝達させないという隠密の必須技術を使って、その気持ちを気取らせなかった。


「ま、オレの素性もほとんどバレちまったようですし、これで隠し事無しということで、気持ちよく出発ができるってもんですよね」


 ルカの悪びれない態度にセシルは再び食って掛かろうとしたが、グレンが手を伸ばしてそれを制した。


「お前の言いたいこともわかるが、コイツがついて来ようとしているのを力づくで止めるのも、理屈で止めるのも、はっきり言って徒労だ。ま、せいぜいコキ使ってやるか」


 そう言ってグレンは横目でルカを少し睨んで、歩き始めた。


 こうしてグレンの旅に二人目の道連れが加わったのである。


 三人でハドリアンの街を出発したのは統一歴一八七六年十月十九日のことであった。

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クアット・カーラー・エピック 牛尾 仁成 @hitonariushio

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