第32話:傲慢の魔王の三傑が一人のローディ・バットの16の部下にして数多くの妻を持つ者

 その森に響くのは、罵り合いでも、小鳥の囀りでも、木々のざわめく音でもない。

 氷に鉄に、炎と暴風の渦巻く戦闘音だけだった。

 炎があちらこちらで爆発や燃焼を起こし、木々が燃え、揺れ、燃え落ちる。

 その炎を風が煽り、氷の冷気が冷ましていく。


 鉄が重厚な氷に阻まれて防がれ、風で吹き飛ばされ、氷に貫かれ。

 大量に出血しながらも狂気的な笑いをあげる男。

 安全圏などとっくに超えているが、それでも戦い続ける女。

 誰にも立ち入る余地を与えないその戦闘はしかし、既に決着がついていると言っても過言ではなかった。


「は!」

「くっ!」


 女を追い詰める男の攻撃に、女は必死で応戦する。

 フーブ。

 炎を生み出す魔剣使いの男の名だ。その体には致命傷と言える幾つかの傷が刻まれているが、それでも弱る様子はない。

 相対する氷を操る魔女の名はフェル。

 あちらこちらから血は流れていれど、目立つような大きい傷もなく、身体的な異常も感じられない。だが魔法の威力や精度は明らかに精細さを欠き、苦悶の表情を浮かべていた。


 戦闘音が止み、静寂が訪れる。

 攻撃をやめたタイミングはほぼ同時。

 数時間にわたる戦闘で極限まで研ぎ澄まされた集中力は、息を呑むような、演舞と疑ってしまうような完璧なタイミングでの戦闘中止。そして一時中戦しても尚漂う血の匂い、圧迫感を生み出していた。

 フーブが息も絶え絶えに、口を開いた。


「もう諦めろ!お前はよく頑張ったが、絶対に俺には勝てない!はっはっは!」

「うる、さいなぁ」


 お互いに、言葉を交わしたのは数時間ぶりだろうか。

 フーブの論外とも言える降伏勧告と、フェルの言葉。

 会話になっているかは別としても、長く、息の詰まるような戦闘の一時停止は二人にわずかばかり呼吸の安定を与えた。


 フーブはどっかりと腰を下ろす。

 その様子をフェルが、冷ややかに見つめる。


 フーブは胸に穴、腰には深い斬り傷。そして左足の太腿には何かが刺さったような跡が残っている。

 フェルは体のあちこちに小さな火傷の跡や、切り傷。その可憐な顔は健在だったが、それも時間の問題と言えた。

 お互いに格好は満身創痍。

 しかしどちらに余裕があるかは表情を見れば明らかだった。


「奇襲も失敗。魔法も戦闘中に追加で仕込んだ分含め全て使い果たしただろう!」


 事前の詠唱と、条件付きの魔法発動。いわゆる罠型の魔法。

 設置しながらの戦い。しかしフーブは途中からそれを見破ったのか、ほとんど掠りもしなくなっていた。


「うるさい。わかったような口を聞くな」


 詠唱する様子も見せずに、フーブの体を凍らせるフェル。

 しかしフーブは凍った部分に剣を当て、あっさりとそれを溶かす。


「これが最後か」

「ずるいなぁ、君。何者で、なんなの?」

「知らん!人だとは思っていたんだがな!」


 フーブが笑う。フェルも、自嘲気味に笑った。

 お互いにフーブが人で無いことは、もう察していた。

 血鬼。ただでさえ空想扱いされている吸血鬼よりも、更に知名度が低いヒタ帝国の鬼族。

 その中のさらに希少な血族。血を流せば流すほど力が増し、行動の一つ一つが相手を狂気に染め上げる生粋の戦闘民族として恐れられている。

 そして、彼は魔族である。


 あらゆる生物は、魔族として生まれてくる可能性を秘めている。

 魔獣であっても、人であっても、家畜であっても、植物であっても。

 魔族は生まれつき卓越した魔力への造詣と、膨大な魔力。残虐な性質を持って生まれると言われている。

 その、魔族。


 数少ない種族である鬼の中でもさらに希少な血鬼。その魔族として生まれてきた奇跡、戦いの申し子のような存在がフーブの正体であったのだ。


「そちらこそ、一度もうダメだと思ったぞ!威力もこもっていない魔法を撃った時!はっはっは」

「結局あれが一番最後だよね。君を明確に傷つけたの」

「あれから数時間経ったのか!早いな!時間の流れというのは」


 まるで戦闘が終わった後かのような和やかな会話。しかし緊迫感が途絶えることはない。

 分かってはいるのだ。このまま戦闘を続けても、続けなくとも自分の命がもはや長くないことに。

 フェルは自分の胸に手を当てる。

 もう1発、魔法を撃てるかどうかもわからない。

 魔法の仕込みも間に合わない。


 もうこの戦いで、勝ちの目が完全に無くなったのだと、どん詰まりになったのだと分かったから、フーブも戦いをやめ、腰を下ろしたのだ。

 フェルにできることはもう、フーブに隠れて綴ったメモを彼が見て、想定の数倍早くラードが助けに来る。その希望を捨てずに時間稼ぎをする。それだけだ。

 フーブはそれを知らないが、知る必要もないのだ。


 そんな奇跡など、起こりようがないのだから。


 世界は、物語じゃない。

 人は、駒でも人形でもない。


「私、馬鹿だなぁ……。なんで人のためにこんな、命張ってんだろ」

「俺は尊敬しているぞ!なにせ勝ち目のない戦いに勇猛果敢に飛び出してきたんだからな!まあ、飛び出してきて、あいつを逃した時点でお前の勝ちの目は完全に潰えているけどな!はっはっは!」

「随分言ってくれるじゃん」

「まあ、でよくもここまで頑張ったものだ!」


 その言葉にフェルが唇を噛む。

 女ひとり。フェルは十分に理解していたのだ。戦闘従事者として生きていく上で、自分が女であることの不自由さを。

 それでも上級魔狩の仲間の一員として認められる実力を得て、魔法使いとして認知されるようになってきたのだ。

 その努力は並大抵なものじゃないだろう。

 ラードとは違って二つ名は持っていないが、最難関と言われる氷魔法も収めた。天才だと持て囃された。やっと自由を得たと思った。

 が、今。

 フェルの前に立ち塞がった殺人者が言った言葉はなんだ?


 女ひとり。

 だから負けるのか。女だったらダメだったのか。女は自由を得られないのか?


 悔しさに目が潤み、握った拳は血色を失うほどに白んでいた。

 言葉も出ないフェルの様子に失言を悟ったのか、フーブは慌てて訂正する。


「いや、すまない!お前は強かった!俺が殺す必要のある人間を殺すのを躊躇うぐらいに強い!今お前を殺すのが惜しいと思う!だが、お前受け入れるほかないんだ!女男は関係ないな!」

「何、今から殺そうとしてる相手に気なんか遣ってんのさ。うざいだけだよ」

「いや、すまなかっ……」


 ヒュンと音を立ててフーブの鼻頭に突き刺さる氷塊。

 フーブはそれを今までのように即座に溶かすと、炎によって止血した。

 浅く、小さい傷。

 しかしフーブはその傷を人なですると、一滴。こぼれ落ちてきた血の雫を舌で舐め取り、言った。


「俺は、今。お前にどうしようもなく惹かれている!お前が強いからでも、美しいからでもない!お前よりも強い奴らは知っているからな!ならこの感情はなんだろう!分からないぞ!分からない!しかしどうしようもなく胸が高まる!お前を殺したくない!だが、非常に!残念なことながら!お前を殺さなければいけない!」

「……は?」


 一瞬、フェルはフーブに言われたことが理解できなかった。

 フーブは言った。強いからでも、美しいからでもなくフェルに惹かれていると。殺したくないと。


 それはまるで……


「初恋じゃよ、ワシの可愛いフーブ。素直なフーブ。お前はあの女に惚れてしまったんじゃ。愛じゃよ愛、なんと美しい」


 フェルの横から聞こえてきた声は、若々しい声色とは裏腹の老いた口調でそう言った。

 彼女が慎重に、恐る恐る横を見る。その異形の男を。


 小さな蝙蝠の羽は背中でかすかに揺れ動き、口には人間にはあり得ないほど大きな牙。

 吸い込まれるような黒で固められた全身の衣装は明らかに高価とわかるものばかりで、その手に至っては色とりどりな宝石が嵌められた指輪がいくつもいくつも付いていた。

 腰のベルトについた小袋の中にも、宝石のついた指輪らしきものが幾つか伺える。

 全てがまるでのような作り込みをされ、嵌められている宝石の種類、カット。何から何までおそらく全てオーダーメイド品。


「それ、何?」


 恐怖と軽蔑を隠せず、引き攣った声と顔でそう問いかけるフェルに、彼は文句をつける。


「みてわからんかね?これだから若造は、馬鹿というかがくがないというか。美しい顔に見合わずに魔狩なんぞやりおって、親御さんも悲しんでいるだろうに」

「あんた、何者?」


 その問いかけに、男は溜息を付いた。

 そして頭に手をやり首を左右に軽く振ると、顔をあげ、小馬鹿にした顔で答えた。


「名を名乗るなら自分から。常識じゃ。だが、名乗ってやろう」


 男は一拍置くと、姿勢を正した。

 胸を張り、右手を横垂直に伸ばすと、腕を前に差し出す。

 そのまま腕を止めず、優雅に手を胸元まで運ぶと、腰ごと頭を低く下げた。


 完璧な礼法。

 それにフェルが見惚れていると、不意に男が名乗りを上げた。


「我が名はプチン・プチン。傲慢の魔王の三傑が一人、ローディ・バット様の16の部下にして数多くの妻を持つ者であります。端正なお嬢さん、是非お見知り置きを」

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