第18話:暗躍する意図
月の無い夜の事である。
いつも整頓され、書類とインクの匂いのする執務室からは、普通では考えられないような異様な匂いが漂い、その内装は悲惨に変わっていた。
どこか金気臭く、またじっとりとした匂い。腐ったような匂い。俗に言う死臭。
それに加えて、所々に赤黒くシミになっているカーペットと、木の机や書類に残った血の跡。
あちらこちらに引っかき傷が残り、本棚からは少なくない数の本が破れ落ちていた。
そのまさに殺人現場という執務室には、2人の死体があった。
1人はローブを纏った魔法使い風の男。
身長は低く、その顔には老いから来る皺が幾つも刻まれていた。
美しい白のローブは本人の血で汚れ、手足はにはいくつもの傷跡。
その右手に握られている、男の身長よりも大きい杖は半ばで完全に折れており、その顔は恐怖と怒りに染まっていた。
名を、ザルヴァレン・ハッテー。水の都ラピスにて10年以上も魔狩協会ラピス支部の支部長兼ラピス議会の議員を務めていた齢69の魔狩である。
種族は
森に住むことを好み、殆どのホビットは魔法において秀才である。もちろん彼もその1人。
その年にして未だ現役で、雷魔法を好んで使うことから付いた異名が『雷皇』。ロザンには及ばないものの、彼もまた伝説級の人物。
言わば生ける伝説であったのだ。
が、その死に様はあまりに無惨。
部屋には魔法を使った痕跡もなく、おそらく何らかの手段で魔法を封じられ、抵抗虚しく殺されたのだと思われた。
そしてその部屋の死体はもうひとつ。
若い女性のものである。
魔狩協会支部長秘書であるマリア・テングレムという貴族の娘である。
貴族には2つの呼び名があり、ひとつはそれぞれの領地とそれに値する爵位、もうひとつは貴族位である。
これは領地の広さと価値によって決まるものであり、上から公爵、侯爵、伯爵、雄爵、雌爵、子爵の6つに分かれる。
王族も額面上は貴族だが、どの貴族にも当てはまらない所謂例外として扱われている。
複数の領地を持てば複数の爵位が付くその性質上、肩書きが長くなりがちなため、公でない個人的な場では1番上の爵位と貴族位のみが肩書きとして使われるのが常だったりする。
対して貴族位は一人一つしか持つ事が出来ない。上から10段階、1が最上位の王族。2から6位までが領地を持つ上位貴族。
そして7から10位が領地をもたない下位貴族と定め、また8位以下は世襲しない。
これはその人物の功績や、治めている領地の数、爵位の大小など様々な面から王によって認定される。
その中でテングレム家は現当主が貴族位4級という名家であり、主に正テングラム領とハッカ領、モルボド領。他に15程の小さな領地を治めている。
そしてマリアは、そのテングレム家の3女である。
ラピスもテングラム家の治める小さな領地であるラピス・コムリスタ領に位置しているので、その立場は相当のものだった。
言ってしまえば名家のコネで魔狩協会支部長秘書になった訳なのだから反感を買っても仕方がないのだが、市政と民衆の生活をよく知り、人柄も良かったため、就任当時の不満は何処へやら、領民からの期待は高かった。
そして実際にあと1年ほどラピスで経験を積み、つまりマリアが18になった頃に領地をもらい貴族位6位、ラピス・コムリスタ雌爵となってその地を治める手筈になっていたのだ。
が、それが叶うことはなく、彼女は死んでしまった。
「やっぱり男はダメじゃ、悲鳴を聞いてもゾクゾクせんわい」
……逆に、生きている者も、その部屋にはいた。
机の上に尊大に座り、若々しい声と容姿で悲鳴を批評するその男は、ひと目で人間ではないとわかるくらい異様な雰囲気を放っていた。
その小さく蝙蝠のような羽は背中でかすかに揺れ動き、特徴的な犬歯はポタポタと血を滴らせていた。
男は、吸血鬼であった。血を飲み、血で眠り、血によって生まれる悪鬼。
その尋常ならざる様々な能力は、人々の間で伝承として受け継がれている。
が、その絶対数が少なく、一生で出会う人間などひと握り。
出会えたとしても殺されてしまうので噂は広まらない。
唯一
「それに対して女は良い。どんないたぶり方をしても、美しい悲鳴をあげよる。この女なんて特にそうじゃ。顔も美しく、声も美しかった」
興奮したように話し続ける男は、舞台上の俳優のように大仰な身振り手振りで続ける。
「股ぐらに腕を突っ込んだ時なんて最高じゃった!甘美な嬌声と悲鳴と嗚咽!見事な調和だ感激したんじゃワシは!」
男はしかし興奮から一転。酷く悲しそうな顔で俯いて、しまいには涙を流した。
そして男は続ける。
「人間というのは脆くて矮小だと言うのは理解してるのじゃ。が、しかし。ワシがもっと注意していれば、もっと早くワシの血を、勿体ぶらずに分け与えていれば、死なずに済んだのにぃぃぃぃぃぃぃ!!ああああああああぁぁぁ!申し訳ない、申し訳ないぞ私の名も知らぬ愛しの人よォォオ!私は君を10028番目の妻にしようと思っていたのにいい!!」
男は目を掻き頭を掻き毟り、身体中から血が流れるのも構わずに自傷しながら叫び散らした。
目は血走り、口からは血が流れ出ている。
「これでは私が殺したも同然じゃないか!!憎い憎い自分が憎い!愛するだけで人を傷つけてしまう!だが愛しの君よ許してくれ!私は愛ゆえにやったのだ!聞いて欲しい愛しい人。私の女性への行為は常に愛ゆえ、私は本当に純情な吸血鬼なのだ、そんじょそこらの選り好みもせず殺人に明け暮れ太陽にすら打ち負けるような惰弱で卑劣な吸血鬼どもとは違い、正しく愛と正義によってのみ動く心優しい吸血鬼なのだ。私は今この長い生涯において最も深い絶望にいるのだ、君を失ったということはそれだけ私の心に傷を負わせたのだ!なんと傲慢で我儘な女性だろうか!でも私はそれを愛そう。それまでも愛してこそ真の夫というものだ、それを世界中どんなものよりも理解しているのは私なのだ!はああああ!なのに君は!私の愛を受け入れずに、果てにはそこに倒れてるブサイクで老けた若造に向かって心に決めたなどとほざき!果てにはそこの男に抱きついて倒れやがった!」
その言葉の通り、マリアとザルヴァレンは抱き合って死んでいた。
マリアはザルヴァレンを愛したのだ。
老いても強く、美しく、民の為、世の為、そして自分の為に、男に勝ち目のない戦いを挑むザルヴァレンを見て、賢明なマリアは自分が彼に向ける上司としての尊敬が、恋慕に近いものに変わりつつある。
いや、すでに変わっていることに気が付いていた。
そこに年齢差などは関係なく、その愛のカタチこそ、その男の目指す愛の形の理想形であったのだ。
だからこそ妬ましく、疎ましく、目障りに思うのだが、その男はそれらすべての感情を愛と、そう捉えていた。
「私のあふれんばかりの愛が!君を!包み込もうというのに!ああ、悪かったよ。死んでしまった愛おしいあなた。私は君を食べて、君は私の中で生き続けるんだよ!なんてすばらしい愛の調和だろうか!君の愛が、僕への愛が、その男への虚偽の愛が、僕にすべてを与えるんだ!君が浮気性なのも、君が虚偽の愛で人をだますのも、僕はすべてを君をすべてを君を肯定するんだよぉぉぉぉ!だから、ね。僕に、食べられておくれよ。僕は本当は人食なんて嫌いなんだよ!だけれど僕は僕は僕は僕はぁぁあ!君への愛をぉぉぉぉおおおお!示すためええええええええ!君を喰らおう」
刹那、男の姿が肥大化し、人ならざる化け物となってマリアの肉体を喰らいつくした。
変わるのも一瞬なら戻るのも一瞬。
瞬きする間に男は元の姿に戻り、口元をポケットから取り出した真っ赤なハンカチで拭うと、落ち着いた口調で、言った。
「さてと、仕事を終わらせるとするわい。ワシのお楽しみタイムはもう終わりのようじゃしのぉ」
男は書類の束の中から一枚を正確に抜き取りびりびりに破くと、同じようなことが書かれた紙を同じ場所に正確に差し込んだ。
手に残った破いた後の紙くずはすでに無くなっており、手には少しの煤。
そう、一瞬の間に手の中ですべて焼いたのだ。
「仕事終わり。かえるとするかの」
男はどっかりと地面に腰を下ろすと、その姿は掻き消え、そこに残されたのは書類の山と、抱きしめる相手を見失った哀れな老人の死体のみだった。
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