第一章二話 心の結び目

 のったりと目が開き、視界に少しずつ天井が映ってくる。頭上にある台の上の眼鏡を付けて流れ作業で時計を見ると、五時半を過ぎたところだった。いつもより三十分ほど目覚めが早い。そのままベットから降りて、おもむろにパジャマを脱ぐ。どうやら昨日の夜はブラを付け忘れていたらしい。近くの引き出しからスポブラを取り出し着用する。多少なりとも胸があるとはいえ、このブラの仕事量は同年代と比べたら圧倒的に少ないであろう。それでも、今日は特に付けねばいけない理由がある。デニムパンツをはき、下着を着てからTシャツを上から被って身体を覆わせる。梅雨が明けてからというもの気温はどんどんと上昇していき、既に一日中Tシャツ一枚で過ごせそうな状態になっていた。

 

 今日は合気道の演武大会があり、私もそれに参加する。県内の色々な道場から合気道を嗜む人達があつまり、日頃の練習の成果を出す。「演武」というように、あくまで演じるものだ。試合は無く、型や足さばき、受け身といった技の綺麗さを披露する。別にそれに点数が付くわけでもない。一種も芸術とも言えるだろう。

 そもそも、合気道自体が自分から技を仕掛けに行くものではない。相手の出した力を利用し、投げや固めに入るような護身の面が大きいものとなっている。試合が無いのが当然の武道なのだ。

 私の合気道歴は気が付けば十二年になっていた。ずっと稽古だけの合気道の本番は「生まれてから死ぬまで」と言われることもあるので、歴は大した問題ではないとは思う。重要なのは本質の理解や心、そういった部分にある。私自身、それができているかはわからないができる限り心掛けている。


 二階の自分の部屋から出てみると、既に階段下からコンソメの匂いが漂ってきた。それに導かれるように私はリビングへ向かった。

「おはよう」

「ん、おはよう。スープはもうできてるよ」

 台所に立つ母からの返事が返ってくる。今日はいつもより早く起きたのにも関わらず、既に母はスープを作っていた。合気道の演武大会があるから、早く起きてくると思い用意していてくれたのだろう。それに気が付いても感謝を伝えられない自分を少し忌々しく思った。思春期の弊害というものだろうか。

 朝はいつも食パンのトーストとスープ、その他パンを二個ほど食べる。目玉焼きやスクランブルエッグが出ることもあり、そういった時は決まってトーストの上に載せている。スープは毎朝母が作っているのに、それもまた素直に感謝できない。どうにも嫌な気分である。


「道着、帯、袴、全部入ってるね。ゴムとブラシはこっち。財布もここに入れてある」

 一つ一つ指差し確認をして持ち物を確認する。昔、合宿稽古に行ったときに帯を忘れた人がいた。結果、旅館の浴衣の帯を付けて稽古をしていたのを今でも鮮明に覚えている。県の合気会の中ではかなり有名で、今でも語り草だ。流石に演武会会場に浴衣の帯はないだろうが、それでも忘れるわけにはいかない。三回ほどチェックし、ようやく玄関へと向かった。

「じゃあ、いってきます」

「いってらっしゃい。気を付けてね」

 母は玄関先で見送ってくれた。後から会場まで見に来るとは言っていた。来るかどうかは父が起きるか次第とのこと。仕事で疲れているだろうし、起きなくても仕方がない。

「おっはよーちーちゃん!」

 玄関から出ると、既にあやが待機していた。髪の毛もしっかりポニーテールで結ばれており、出かけるのが楽しみで仕方がない様子。

「おはよう文。朝から元気だね」

「そりゃそうでしょ!なんだかんだちーちゃんの合気道やってるところ見れるの、中々ないんだよ。テンション上がりすぎて夜しか眠れなかったよ!」

「しっかり寝れて早起きしたんだね。健康そうでなにより」

 合気道は演武ぐらいしか人に見せる場面が無い。その為、長い付き合いでも文が私の合気道姿を見たのは二回ぐらい、最後に見たのは六年前だった。かくいう私も、文に見せるのが少し楽しみであった。

 会場であり、私の所属する合気会が普段から稽古に利用している県のスポーツセンターは学校と最寄り駅が同じだった。普段から電車通学の為、こういった時に定期が使えるのはありがたい。バイト先もこの駅が最寄りで、私の過ごす環境はほとんどそこに集中していた。

 電車で移動している三十分の間、私達はほとんど喋らなかった。私が演武でやる技を頭の中で反復するので精一杯になっていたのだ。その間、文はそれがわかっていて何も話しかけずにいてくれた。


      *


「おぉ…!数年ぶりに来たけどやっぱり広い!」

 県のスポーツセンターには複数の武道場がある。剣道用の板張りのものや、マットが敷かれているもの。その中には無論、畳のものもある。私達が足を踏み入れたのはその畳の武道場。三面あり、主に演武は真ん中の面で行う。人数が多い合気会は他の面を使うこともある。

 文が目を見張りながら入っていったのを横目に、私は入口で一礼した。

「え、何!?礼とか必要だった?」

「観客は知らない人もいるだろうし、しない人の方が多いと思うよ」

 私は道場に入る時、いつも礼をしている。それは昔からの習慣で、周りの大人を見て私もやるべきだと思ってやり始めただけだった。今では稽古や演武に向かうための心構えの一つになっている。

 一般人や観客は稽古をするわけでは無いしやるべきだろうか。そう悩んでいる内に文が入口のところまで戻ってきていた。

「少なくとも今日は合気道に多少触れるわけだし。それなら郷に入っては郷に従ったほうがいいでしょ?」

 彼女らしい判断だと思うと同時に感心した。合気道に触れる、関わるということならばした方がいいのかもしれない。

「…そうだね。その通りかもしれない」

 それを聞いた文は軽く口角を上げて嬉しそうな表情をする。そして頭を下げて礼をした。

「あそこの椅子に座ってればいい?」

「うん。私は更衣室で着替えてくるから待ってて」

 この武道場には椅子が三列、階段状になって設置されている。二階席などはない小さな観客席だ。その一番後ろの席に文は座り、私は更衣室へと向かった。

 

 更衣室は私以外誰も来ていない。来る時間が早かったので、こうなるとは思っていた。

 軽く息を吐き、呼吸を整えてから着替えに取り掛かる。眼鏡を外し、コンタクトレンズを入れる。合気道をする時は大体コンタクトである。

 今まで着ていた私服を脱ぎ、道着に着替えていく。下履きの紐を縛り、上を着て、帯の紐を縛る。こうして縛っていく度に、気持ちも引き締まっているように思う。何度もやってきた行為ではあるが、着るたびに多少の高揚感を感じる。

 今使っている帯は一年以上使われ、買った当初の硬さは既に無くなっていた。赤帯から始まり、黄、橙、青、紫、茶。そして今結んだ黒。帯が変わる事に購入当初の硬さを実感していたが、今後その機会が来るのはもっと先、完全にこの帯がボロボロになる頃だろう。未だに実感のわかない有段者という立場、その意味が込められた黒帯を締めて私は更衣室の鏡の前に立った。

 鏡を見ながる櫛で髪の毛を纏め、ゴムでポニーテールに縛る。また一つ、気持ちが引き締まる。

 最後に一つ、まだ縛るものがある。これは演武の前に縛ることにして、更衣室から出た。入った時には無かった、いくつかの結び目とその結び目が縛る気持ちを持って。

 武道場に戻り、文のところへ行くと何とも渋い顔をされた。

「うーん。新鮮味がないというか、懐かしいというか…。」

「多分、私の発育状況によるものだね。自分でも変わってない自覚あるし」

 前に私の演武を観たのが六年前、十歳の時の事だ。悲しいことにその時から身長は殆ど変わっていない。成長期など、どこにも見当たらなかった。

「けどポニテは初めて見たかも。すごく可愛い!」

 普段は仙骨の辺りまである髪を下ろしたまま生活している。ポニーテールにするのは合気道の時だけだ。それも中学に入った頃から結ぶようになったので、文は見たことが無くって当然だ。

「ありがとう。けど可愛いっていうのは照れるから…」

 教室での様子を知ってるだろう文。どうにも恥ずかしいからやめたまえ。

「いや可愛すぎるから!なんでそれをもっと早く私に見せてくれなかったの!?」

 まずい、と心の中で思った。

 このモードに入ると文は止まらない。過去にも何度かこういった経験があった。中学に入学する時と高校に入学する前、始めて制服を着たところを見られた時には写真を五十枚ぐらい撮られた気がする。

 照れて何も返事が出来ずにいる間に、文の手にはスマホが構えられていた。

「写真撮ってもいい?」

「待って、まだ袴はいてないから!」

 最後の気持ちの縛りである袴をはいていない今、かっこつかないからできればやめて欲しい。

 しかし、これが文の心に更に火を付けてしまった。

「この後袴もはくってことは二倍楽しめるじゃん、やったぁ♪」

 もう文は誰にも止められない。

 そう覚悟して、私はその場に縛り付けられるように写真を撮られることにした。

 演武大会開始前に演武の最終確認をするその時まで写真を撮られ続けた。総数百枚。最高記録を更新した。



 七月十一日 合気道演武大会のエピソード その1

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