雪と暗闇



 幸いにも雪は、夜の間に降り止んだ。レオは雪かきを手伝うと言って聞かなかったが、ベルガ家につかえる大切な時間を浪費させるわけにはいかない。「日暮れまでには帰るから、残しておいて構わないよ」と言い、レオはハンスを気にしながらも意気揚々と、ベルガ邸へ出かけていった。


 稜線りょうせんから朝日が顔を出し、反射光が目に痛い。雪を下ろしている間にも、透明なミトラは律儀についてきている。

「聞いたかい。レオがお屋敷で働くんだと」

 屋根に腰を降ろし、ハンスはミトラに話しかけた。早朝の静けさに耳を澄ませていると、霜柱を踏みしめた時のようなかすかな音が耳に届く。これが、このミトラの鳴き声なのだ。

「レオは賢いし良い子だ。上手くやっていけるだろうよ」

 また、霜柱の音。ミトラが何を言っているのかなど勿論分からない。それでもこうして話していると、フリッツが隣で相槌を打っているような気がするのだった。



 朝日が昇りきってから、また雪下ろしを再開する。終わったら次は小屋の周りの雪かきだ。やるべきことは多く、一日中休まず働いても、結局は雪を残したまま夕方を迎えてしまった。まだレオは帰らない。


 一息ついたところで、いつもとは違う騒がしさに気が付いた。大通りの方に人が集まっている。嫌な予感がし、スコップを放り出して、ハンスは人垣に寄っていった。誰もが上ずった声で、早口に話し合っている。

「ベルガ夫人が行方不明になったらしい」「揺れた馬車から投げ出されて、崖から落ちたそうだ」「お供をしていた子供も放り出されたらしい。名前は、レオとかいう――」



 それからハンスは街中を駆けずり回り、詳細を尋ねてまわった。どこで事故に遭ったのか、安否はまだ分からないのか。

 通りは雪かきが行き届いており、ミトラの足跡は大して目立ちはしなかった。しかしそうでなくとも、ハンスの後をついていく足跡に気付く者など、街には一人もいなかっただろう。メラニーは、この街の誰からも愛されていた。彼女が行方不明――死んだかもしれない。街中が大騒ぎだった。



 ハンスが馬小屋に向かったのは、捜索隊に加わろうと思い立ったためだった。メラニーを救い出すためなら、ベルガ家は人手を惜しまないだろう。しかし予想に反し、馬小屋に捜索隊の姿はなかった。どの馬も繋がれたままで、捜索に使われている様子もない。


「何度も言わせるな。捜索隊は出さない」

 低い声が聞こえ、ハンスは咄嗟に表門の影に隠れた。馬小屋の傍で、男が誰かに凄んでいる。

「もうこの街は、俺のものなんだ。職を失いたいのか?」

 声の主に気付いた時、ハンスは生唾を飲み込んだ。結婚式の時、遠目に見た覚えがある。あれはメラニーの夫アントンだ。対して、彼に脅されている初老の女性は、メラニーの従者をしていたヨハンナだった。


「それでも構いませんわ」

 かつて彼女に抱いた弱気な印象とは全く違う、気丈な女の姿がそこにあった。

「あなたを告発します。憲兵があなたの味方でも、街の人々はメラニー様の味方です。正気ではありません。妻を雪山に置き去りにするなど……」

「あれが、浮浪児を雇うなどと馬鹿を言い出したからだ! 妻のくせに、俺の言うことを聞きやしない!」

「妻は夫の所有物ではありません! ベルガ家の財産はメラニー様が相続なさっているのです。それをどう使おうと……」


 その時、アントンの手の中に冷たい光を見て、ハンスは咄嗟に飛び出した。二人の間に躍り出て、ヨハンナの細い体を突き飛ばす。脇腹に、焼けるような熱を感じた。

 予期せぬ割り込みに、アントンはいたく狼狽したようだった。それでもヨハンナを殺さねばまずいと思ったのか、再び刃物を振り上げる。その二撃目すら、ハンスは自らの背で受けた。

「誰か、誰か来て!」

 ヨハンナが叫んだ。傷害の現場を見られては、さすがに言い訳は立たない。アントンはきびすを返し、夜闇の中に逃げていく。それを追う余裕はなかった。


「ああ、なんてこと。酷い怪我だわ……」

 狼狽したヨハンナの手が、ハンスの傷に触れる。その手をしっかりと掴み、ハンスは息も絶え絶えに「どこです」と言った。

「メラニーが置き去りにされたのは、どこなんです」

「北山の滝の近くだと……あ、あなたもしかして、ハンス……」

 言葉の続きを聞かず、ハンスは獣道の奥へふらふらと歩き出す。ヨハンナの止める声も聞こえない。レオを、メラニーを助けなければ。ハンスの頭には、もうそれしかなかった。


 誰の目に見ても、もはや助かりようもない量の血を流しながら、ハンスは森の中へと踏み込んでいった。その後ろ姿を見て、ヨハンナは思わず息を呑んだ。赤い斑点の散る雪の上、見えない何かの足跡が、ハンスの後を追いかけていく……。




 雪が降り始める。ハンスは今や執念のみで動いていた。風雪に叩かれ、血液は失われ、体は氷のように冷たくなっていく。二人を見付けて、連れて帰るのだ……生きた屍のように、ハンスは歩き続けた。

 しかし、間もなく限界が訪れた。体重を支えることすら困難になり、ハンスは雪の中に倒れ込んだ。

「レオ……メラニー……」

 呟く声すら凍りつき、雪の中に埋もれていく。鼻梁びりょうを流れる涙だけが妙に熱い。

 この涙が、体を温めてくれればいいのに。死に侵され始めた頭で、ハンスはそんなことを考えた。そうしたら脚も動くようになって、二人を探しに行けるだろう。でも、俺が泣きながら探しに来たら、二人とも驚いてしまうだろうな……。


 その時、ハンスの鼻を舐めるものがあった。はハンスの周りをうろうろ歩き回ったあとで、懐の中にうずくまる。

「ミトラかい?」

 尋ねると、霜柱を踏むような音がかすかに聞こえた。「そうか、お前なのか」と言って、ハンスは指の足りない手で、見えない何かを優しく撫でた。

「すまないね。お前に一度でも、干しぶどうをあげれば……よかったなあ……」

 そしてそれを最期に、ハンスは二度と喋らなかった。ミトラはしばらくハンスのそばでじっとしていたが、やがて立ち上がり、吹雪の中へと消えていった。

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