雪と体温


「ハンス、ただいま。すごい雪だよ。明日、雪下ろしをしなきゃならないよ」

 吹雪と共に家に入ってきたのは、頭と肩に雪を積もらせたレオだった。ハンスのもう一人の同居人。子供らしい溌溂はつらつとした頬は真っ赤になって、小鼻の辺りには乾いたはなじるがこびりついている。

 馬小屋の隅で死にかけていたレオを連れてきたのは、フリッツが死んだ翌年のことだった。

「レオ。お前はまた、この寒い中に馬具を洗わされたね。気を付けないと、寒さで指が腐ってしまうよ」

「大丈夫だよ。時々息を吐きかけて、指をあっためているから」


 ハンスは指の欠けた右手で、レオの頭を優しく撫でた。レオは賢く人懐っこい。馬小屋スタヴィエの子供でなければ、きっと誰からも可愛がられ、大成していただろうに。それを考えるとハンスの胸中で、とっくに捨てたはずの「悔しい」という感情が、芋虫のように頭をもたげる。

 しかし、ないものをねだっても仕方ない。運命が奪ったものの埋め合わせをするように、ハンスはレオに寝床を与え、愛情を与えるのだった。


「レオ。駄賃にスープを貰ったかい。冷めないうちに飲んで、今日はもう寝ておしまい」

「ハンスは何か食べたの。俺、スープ半分っこでも構わないよ」

「俺はさっき、パンを齧ったよ。良いから全部お飲みよ。子供は身体が冷えやすいんだから」

 いつもならばレオは、ハンスの言うことによく従う。しかし今夜に限って、突っ立ったまま動こうとしなかった。そのくせ妙にそわそわして落ち着きがない。

「どうしたんだい。何か言いたいことがあるなら、俺が寝てしまう前に言っておくれ」

 ハンスが尋ねると、レオは恥ずかしそうにはにかんだ。

「俺、ベルガのお屋敷で働くことに決まったんだ」

 ハンスはぽかんと口を開けて、「ベルガのお屋敷で働くのかい」とオウム返しに言った。ベルガ家は、この街で最も裕福な由緒ある家系だ。それが馬小屋スタヴィエの子供を雇うなどあり得ないことだ。

「メラニー様が、孤児を雇うって言い出したらしいんだ。フクシカツドウのイッカンなんだってさ」

「メラニー様が……」



 メラニー・ベルガはベルガ家の一人娘で、つい最近結婚したばかりだ。

 大病を患っていた故ベルガ前当主は、死ぬ前に娘の花嫁姿をひとめ見たいと、遠い街から入り婿を迎えた。婚儀はたいそう華やかで、ハンスたち馬小屋出身の者たちにも祝い菓子が振る舞われた。


 ――人は誰でも秘密を持つ。誰にも話したことはなく、これからも話すつもりはないが、メラニーとハンスは、かつて共に笑い同じ時を過ごす仲だった。

 ハンスがまだ馬小屋で寝起きしていた青年時代、ヨハンナという気の弱そうな従者を連れ、メラニーはしょっちゅう馬小屋を訪れた。


 ハンスもフリッツも、一回り歳下の彼女を妹のように可愛がった。今になって思えば、置かれた環境があまりに違いすぎたせいで、妬む気すら起こらなかったのだろう。メラニーと話している間だけは、暗い現実から目を反らし、好きな事ややりたい事を自由に話すことができた。

 しかしそれも、たった数年間の話だ。住む世界が違うことを理解したのか、彼女は馬小屋を訪れなくなった。今はもう、顔を合わせることすらない。



「お前、それは素晴らしく名誉なことだよ」

 ハンスが言うと、レオは誇らしげに胸を反らした。

「明日からお屋敷に行くんだ。沢山稼げるようになったら、熱いスープを毎日ハンスに買ってあげる。干しぶどうもいっぱい食べられるよ」

 声を弾ませるレオに親友の面影が重なり、ハンスは乾いた目を何度かしばたたかせた。


「こっちへおいで」

 手招きをすれば素直に寄ってくる子供の頭を、指の足りない硬い手で、慈しむように何度も撫でる。

馬小屋スタヴィエの子供は馬の糞から産まれたなんて嘘だよ。俺はきっと、ハンスから産まれたんだ」

 撫でられながら、レオが呟いた。

「男は子供を産めないだろう」

 ハンスが言うと、レオはハンスの胸に顔を埋めたまま、おかしそうに笑った。


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