スタヴィエの子供たち

深見萩緒

雪と足跡


 寒さのわりに雪の降らないこの街にも、ひと冬に一度くらいは雪が深く積もる日がある。ハンスは雪が嫌いだった。憎悪していると言ってもいい。


 薄暗い夕刻の大通り。ガス灯の明かりの中で、街の子供たちが遊んでいる。

 雪や冬の寒さをありがたがるのは、温かな場所に帰ることが出来る人間だけだ。あの子供たちはどんなに身体が冷えたところで、夕餉ゆうげに呼ぶ母親の声に応じさえすれば、温かな室内で温かな食べ物にありつけるのだ。

 ハンスの家は年中隙間風が吹いているし、部屋を温めるほど燃料を焚く余裕もない。寒さよりも惨めさの方が身に堪えることを、雪遊びに興じるあの子供たちは知らないだろう。


 しかし今、ハンスが人目を避けながら歩いているのは、惨めさのためだけではない。

 ハンスはそっと背後を振り返った。裏路地を続く彼の足跡のほか、その後ろをついて来るように、もうひとつの足跡がある。ハンスが立ち止まると足跡も立ち止まり、ハンスが歩き出すと足跡も歩き出す。これがあるから、雪の日は迂闊に外出が出来ないのだ。こんなものを誰かに見られては、気味悪がられるに決まっている。



 この世にはミトラという不可思議な生き物がいる。決まった形態を持たず、時に世の条理すら無視しうる存在。あの足跡はミトラなのだと、亡き親友フリッツは言った。

「雪の上に足跡が続いていたんだ。ふらふらしているようだった。その先に巣があったから、弱った動物がいるのだと思って、干しぶどうをいくつか置いてやったんだ。そしたら、目の前で干しぶどうが消えたんだよ。目に見えない何かが干しぶどうを食べていたんだ。きっとミトラだよ。俺に懐いたのか、ずっと後ろをついてくるんだ。時々干しぶどうをあげてるよ。目に見えなくたって、可愛いもんさ」

 食うにも困る生活をしているのに、ミトラの面倒を見る余裕なんてないだろうとハンスは呆れたが、フリッツはいたく幸せそうだった。


 しかしそんな愛すべき男は、五年前の大雪の日に死んでしまった。売り物にする氷を採りに行った帰りに、雪崩なだれに遭ったらしかった。

 それからだ。ハンスの後ろを、透明なミトラがついてまわるようになったのは。

 ハンスは干しぶどうを与えたりはしないが、ミトラはそれでも構わないようだった。いくら追い払っても、数歩後ろをついてくる足跡。それはフリッツの言っていたような動物の足跡などではなく、明らかに二足歩行の、人間の足跡なのだった。



 家に到着すると、ハンスは足跡が追いつくのを待ってからドアを閉めた。餌を与えはしないが、外に締め出すのは余りに忍びない。それに最近は、このミトラが親友の化身のような気すらしてきて、ハンスは不可視の生き物に同居を許していた。

 古びた椅子に座り、短く息を吐く。隙間風がひどい。しかし粗末な掘っ立て小屋でも馬小屋よりはマシだと、ハンスは自分に言い聞かせる。

 ハンスはかつて、馬小屋スタヴィエの子供だった。


 この街には大きな馬小屋があり、街で飼っている公用馬が何頭も繋がれている。その馬小屋で寝起きをし、馬の世話やら雑事やらをする浮浪の子供たちが、この街には多くいる。

 幼い頃ハンスは、自分も含め浮浪児たちが一体どこから湧いて出てくるのか、不思議でならなかった。大人たちが口にする「馬小屋スタヴィエの子供は馬のくそから産まれてくる」という冗談を、半分本気にしていたほどだ。


「そうだとしても、馬の糞がこうして立ったり喋ったり出来るようになるんだから、大したものだよ。俺たちは馬の糞の中でも、きっと上等の糞だったんだろうね」

 まだ少年だったフリッツは、そう言って朗らかに笑った。

 フリッツはハンスと違い、楽天的な性格だった。誰のことも憎んでいなかったし、忌まわしい馬小屋ですら、故郷と呼び親しんでいた。ハンスがそれにどれだけ救われていたか、彼は知らなかっただろう。そして、知らないまま逝ってしまった……。

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