雪と獣


 あの日もこんな大雪だった。飢えて死にかけていたところを、一人の男が差し出した、数粒の干しぶどうに救われた。

 ずっとこの人間と一緒にいたいと思った。雪崩なだれに巻き込まれた時も、彼がこのまま死ぬのならば、自分も永遠に雪の下にいようと思った。けれど……

「ハンスの傍についてやってくれないか」

 紫色になった唇で、彼は最期にそう言ったのだ。

「俺がいなくなったら、あいつは一人ぼっちになってしまうから……」


 干しぶどうの恩を返そうと思った。彼が望むのならば、いついかなる時も、ハンスのそばにいよう。気味悪がられたとしても、いつでもそばについていよう。

 亡き親友の言葉を愚直に守った。守っていた……今夜までは……。



 雪を掻き散らしながら、飛ぶように走る。靴の足跡は獣じみた形を取り始め、二足から四足へと変貌する。街へ向かって猛然と駆ける、それは巨大な肉食獣の足跡だった。

 馬小屋の脇を過ぎ、大通りを走り抜ける。ベルガ邸の堅牢な門すら軽々と飛び越え、ガラス窓を突き破る。その奥にいたアントンは、割れたガラスの先にある虚空を凝視した。


「な、何事だ? 一体何が……」

 言葉を最後まで言い切ることなく、アントンは「ゲエッ」と潰れた声を出して倒れ込んだ。首筋には、獣の牙が深々と突き刺さったかのように、鋭利な傷が刻まれている。二度――そして三度。豪奢な部屋に鮮血が散った。何が起こったのか知る間もなく、アントンは死へと引きずり込まれていく。その死に寄り添う者はなかった。


 ミトラは体を伸ばし、大きく咆哮した。まだやるべきことが残っている。全ては、あの干しぶどうの甘酸っぱさ――与えられた幸福に報いるために。

 ミトラはもう一度空に向かって長く吠え、そして黒い森をひとっ飛びに、北山の方へと駆けていった。




 雪山の寒さは、上質な外套すら易々やすやすと突き抜ける。わずかに窪んだ岩の隙間で、メラニーとレオは体を寄せ合っていた。

「大丈夫。朝になれば助けが来るわ」

 レオを抱きかかえたまま、メラニーは夜を睨み付ける。朝になれば助かる。朝を迎えることさえ出来れば……。


 その時、はたと雪がやんだ。大きく風が吹き、黒雲が散らされる。月の光に照らされ、森は昼間のように明るくなる。

 そこに、メラニーは奇妙なものを見た。足跡だ。銀色に光る雪の上に、足跡だけがぽつねんとある。メラニーの視線に気が付くと、足跡はきびすを返し、雪の上を進み始めた。一歩、また一歩と……。

「ハンスだ。あれはきっと、ハンスだよ」

 寒さで朦朧もうろうとしながら、レオが言った。

「ハンスが迎えに来てくれたんだ。メラニー様、行こう……」


 足跡の後を追い、白銀の森の中を歩く。足跡は二人がはぐれないように時おり立ち止まりながら、ゆっくりと街へ向かっていく。夜通し歩き続け、やがて黒い木々の向こうに街の明かりが見えた時には、東の空はうっすらと白み始めていた。

「助かった……私たち、助かったのよ、レオ!」

 喜ぶメラニーに抱きしめられたまま、レオは背後を振り返った。雪の上の足跡は、しばらくそこに立ち尽くしていたが、やがて森の奥へ歩き去っていった。

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