『鳳凰于飛(三)』

 西王母セイオウボは呼吸を整え、両手を下腹部にかざした。その手が徐々に温かな光を帯び出し、ほどなくして裳裾もすそから滝のように流れ落ちていた鮮血がピタリとんだ。

 

「……さて、虎退治の続きと行こうかのう……!」

「当然だろ、まだ始まったばかりじゃねえか」

 

 額に大粒の汗を浮かべた西王母とは対照的に、檮杌トウコツは好物の獲物を発見した虎のような興奮した面持ちである。

 

 西王母の身体がゆらりと動いた時、その背後から何かが視界をかすめた。

 

「————そなたの出る幕ではない、退がっておれ!」

 

 西王母の前に歩み出た女————凰華オウカはゆっくりと振り返り、無言で西王母の眼を見つめた。

 

 その表情かおは穏やかな微笑をたたえており、とてもこの世で最も恐ろしい魔獣を前にした者のそれではない。

 その曇りなきまなこに見据えられた西王母は何かあらがいがたい力を感じ、声を発する事も、身体を動かす事も出来なくなってしまった。

 

 凰華は感謝するように眼をつぶると、檮杌へ向き直り再び歩を進めた。

 

 その歩みは死地に向かうような悲愴感に満ちたものではなく、愛する者を迎えに行くような自然で軽やかなものであった。

 

 凰華は手を触れ合える距離で足を止めた。

 

「……小娘、邪魔をしやがるなら弱かろうが消すぞ」

 

 興を削がれた檮杌が不機嫌そうに言うと同時に、乾いた音が辺りに木霊こだました。

 

 檮杌は一瞬なにが起こったのか理解が出来なかったが、数瞬の後、その眼が驚愕と怒りで見開かれた。

 

 遠目からその光景を眼にした西王母も呆気に取られ声を出せなかった。掌打ですらない、ただの平手打ちを檮杌がもらってしまったのである。

 

(————この檮杌が、こんな小娘に……‼︎)

 

 誇りを傷つけられた檮杌は眼を血走らせて、左腕を振り上げた。

 

 空間すら斬り裂く凶悪な爪が、今にも乙女の柔肌に食い込むかと思われた時、ピタリと動きを止めた。

 

(……う、動かねえ……っ‼︎)

 

 意思に反して、檮杌の身体は金縛りに遭ったかのように全く動かす事が出来ない。まるで肉体が眼の前の女を傷つける事を拒否しているかのように……。

 

月娥ゲツガ……、こいつはてめえの術か……⁉︎」

 

 檮杌は西王母へ眼を向けたが、西王母は眼を丸くするばかりで何も答えない。視線を眼前に戻した檮杌が忌々いまいましげに口を開く。

 

「てめえ……っ、一体なにをしやがった……⁉︎」

 

 うつむいていた凰華が顔を上げると、その眼には光るものがあった。

 

拓飛タクヒ……」

「言っただろうが、あのガキは死んじまったってよ」

「拓飛、聞こえる……?」

 

 凰華は檮杌の声が聞こえていない様子で続けた。

 

「あの時、あなたが言った言葉をあたしは絶対に許さない……‼︎」

 

 

『————もし、俺が心まで……、バケモンになっちまったら、おめえが……、俺を殺してくれ————』

 

 

 凰華は大粒の涙を流しながら、檮杌の胸を幼子のように叩き始めた。

 

 その拳にはやはり氣が込もっておらず、武術の型をしていない。しかし、打たれるたびに檮杌は顔を歪めた。

 

 無数の刀剣に身体を貫かれても全く意に介していなかった檮杌が苦痛に顔を歪ませている。西王母は眼の前で起こっている光景が信じられない。

 

(————胸が、痛え……! なんなんだよ、これは……っ⁉︎)

 

 その時、凰華の手が檮杌の胸の上で止まった。

 

「……お願い、許してあげるから、元の拓飛に戻ってよ……! 口と眼つきが悪くて、ぶっきら棒で意地悪だけど、強くて優しい拓飛に戻って……‼︎」

 

 凰華は懇願するように檮杌の胸に顔をうずめた。

 

「……うるせえ……っ! あのガキは死んだって言ってんだろうがァッ‼︎」

 

 絶叫を上げた檮杌は身体の自由を取り戻し、再び左腕を振り上げたが、その腕は背後から何者かに取り押さえられた。

 

「檮杌よ、もう暴れるのはせ。わらわと共にこうぞ……」

「————月娥! てめえ、まさか……っ!」

 

 檮杌の背にしがみついた西王母の全身が淡く光を帯び出した。

 

「……凰華や、さらばじゃ。そなたは長生きするのじゃぞ……」

「西王母さま……⁉︎」

「やめろッ、月娥! 真っ正面から俺と闘いやがれ! 俺はまだ死にたくねえ! まだまだ闘い足りねえェェェッ‼︎」

 

 断末魔にも似た叫び声を上げて、檮杌は西王母の放つ光に飲み込まれた————。

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