『入門(四)』

 拓飛タクヒが中庭に出ると、周囲には虫と蛙の鳴き声が響き渡り、なんとも耳に心地よい。前を歩く成虎セイコは上着の首元をくつろげた。


「ふう、そろそろ夜も蒸してきたなあ」

「なんだよオッサン、わざわざ外へ連れ出してよ?」


 拓飛が問いかけると、成虎は背を向けたまま掌を己の腰の位置で止めた。


「小飛よお、おめえと初めて会った時は背丈がこんなモンだったなあ。あん時のチビガキが、今じゃこんなにデカくなっちまって……」

「ああ? 急に何言ってんだ?」


 拓飛が口を挟むが、成虎は構わず続ける。


「俺ぁ、てっきり三日くれえでピーピー泣いて逃げ出すと思ってたんだがなあ」

「誰が逃げ出してたまるかよ」

「妖怪の出る山ん中に置き去りにした事もあったし、重りを付けて湖に落とした事もあったなあ。おお、そうだ、解毒術を覚えさすために寝てる間に猛毒を飲ませた事なんかもあったか」

「……あったなあ。思い出したらムカっ腹立って来たぜ……!」


 拓飛は往時の虐待——もとい鍛錬が脳裏に蘇り、こめかみに青筋を立てた。


「だが、デカくなったのは図体だけじゃねえよなあ」

「あ?」

「人間に駆除されかけた虎みてえに誰にも心を開かなかったおめえが俺の元を飛び出していってから一年余りの間に、仲違いしてた肉親と和解して、腹を割って話せる友と切削琢磨できる好敵手を得た。大した進歩じゃねえか」

「おいおいオッサン、変なモンでも食ったのか?」


 気恥ずかしさもあり、拓飛はわざと冗談めかした言い方をする。


「小飛、内功を教える前に俺が言った事を覚えてるか?」

「あ? ああ」

「言ってみろ」


 突然、思いも寄らぬ質問をされ拓飛は少々面を食らったが、軽く息を吸って答えた。


「……『人の道に外れた事をするな』だ」


 成虎は背中越しに拓飛の言葉を聞くと微かに頷き、ゆっくりと振り返った。


「そうだ。俺は元々、他人ひとの師父なんてガラじゃねえが、これだけは言っとく。礼儀が成ってなかろうと別に構わねえし、絡んできた野郎の指をヘシ折ろうが好きにすりゃあいい。ただ————」


 成虎はいつになく真面目な面持ちで続く言葉を口にした。


「おめえは一人の人間『凌拓飛リョウタクヒ』だ。たとえ身体が獣になっちまおうが、心までは捨てちまうんじゃねえぞ」

「…………!」


 このような真摯な眼をした師父を拓飛は見た事が無い。このように真剣な口調で話す師父を拓飛は知らない。


 

 ————拓飛は無意識に包拳礼を取っていた。


 

 師弟の間はしじまに包まれ、虫と蛙の鳴き声のみが周囲に響き渡る。不意に成虎が沈黙を破った。


「……守りてえ女も出来たしな?」


 予想だにしない口撃に拓飛は虚を突かれた。


「——っあ、あいつはそんなんじゃねえ!」

「おお? 俺は別に誰とかは言ってねえがな」

「いや……だからよ、それは……」


 拓飛がしどろもどろになると、成虎は再び真顔に戻り口を開く。


「……いいじゃねえか。守ってやりな」

「あ、あいつは俺の弟子みてえなモンだからな! 言われねえでも守ってやるよ! もう用がねえなら俺は寝るぜ、じゃあな!」


 捨て台詞のようにまくし立てると、拓飛は大股で屋敷へ戻って行った。その背を見ながら成虎は懐かしそうに呟いた。


「やれやれ、まるで若え頃の誰かさんを見てるようだな」


 

 拓飛が屋敷に戻ると、夕食の片付けをしていた凰華オウカと眼が合った。


「あ、おかえり拓飛。もう話は終わったの?」

「お、おう。俺はもう寝る」


 サッと顔を背けると拓飛は寝室に駆け込んだ。


「なんだろ……? 拓飛、顔が赤くなかった? 夜風に当たって風邪でも引いたのかしら……?」

「そうだねえ……」

「そうかも知れへんなあ……」


 凰華が不思議そうな表情を浮かべると、コウセイは意味深な笑みで返事した。


 


 翌朝、拓飛が眼を覚ますと、凰華と斉が血相を変えて部屋に駆け込んできた。


「大変よ、拓飛!」

「いつまで寝とんねん、これを見い!」


 その手には一枚の紙が握られている。拓飛が紙を開くと、薄墨で一言のみ記されていた。


 

『世話になった』


 

「……オッサンの字だ」

「あたしが起きた時には、もう姿が見えなかったわ」

「もう戻ってけえへんの?」

「多分な……」


 拓飛は予期していたように呟くと、香が朝食を作りにやって来た。香は三人の様子を見て何かを察したように笑う。


「……行っちまったんだね、あの人。まあ、人が訪ねて来たら出て行くって言ってたしね……」

「香さん……」

「分かってたさ、あの人とアタシじゃ住む世界が違うってね!」


 凰華が慰めようとした所、香はグイッと腕まくりをして元気よく声を上げた。


「アンタたちも行くんだろ? 最後に腕によりを掛けた料理を振る舞ってやるよ!」


 

 朝食を食べ終えた三人は香に礼を告げて屋敷を後にした。ここに滞在したのは一月ひとつきに満たないほどであったが、何故か隔世の感すら覚えてしまう。


「なんか、長い間ここに居たように感じるね……」

「ワイもや。あのオッチャン、印象強すぎんねん」


 二人が寂しそうに言うと、


「なーにヘコんでんだ、おめえら。オッサンがかくれんぼしてんなら、また捜し出しゃいいだろ! 行くぞ!」


 拓飛は自分に言い聞かせるように、天に向かって言い放った。


  ———— 第二十章に続く ————

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