『入門(二)』
「おいオッサン、喜ばしいってのはどういうこったよ?」
「べぇつに? ただ、面白そうな事になりそうだと思ってな」
この言葉を拓飛は、朱雀派に狙われる事だと受け取った。
「何が喜ばしいだよ、女に狙われるなんてゾッとしねえぜ」
成虎は相変わらずニヤついたまま何も答えず、
「おう、お嬢ちゃん。いいぞ、かかって
「へ?」
「へ? じゃねえよ。稽古つけてほしいんじゃねえのか?」
「——あ、ありがとうございます!」
凰華が礼を言うと、拓飛がズイッと成虎に詰め寄った。
「待てよ、オッサン。俺が先だ。アンタ玄武派の硬氣功を破る技ってのを知ってんだろ? それを教えろ」
拓飛の物言いはおよそ教えを請う者のそれではなかったが、成虎は怒るどころかますます表情を緩ませた。
「ほお、あの技か。
「そうだ」
「確かに知ってるがな……だが断る」
「ああ⁉︎」
「一応あの技は筆頭弟子にしか伝えちゃならねえ掟があんだよ」
「そんなん関係ねえだろ! オッサン、白虎派を抜けたんじゃねえのかよ⁉︎」
拓飛が食い下がると、成虎は遠い眼になり胸に手を当てた。
「バカ言うな。いくら抜けたとはいえ師門への恩がある。掟を破るなんて事は俺にはできねえ……」
この芝居がかった様を見て、拓飛は地面がえぐれるほど地団駄を踏んだ。この状態になっては何を言っても無駄である。
おもむろに真顔に戻った成虎が口を開く。
「……小飛よお。おめえには口酸っぱく教えたよなあ。強くなるのに近道はねえってなあ」
「……チッ」
「オラ、分かったなら向こうのニイちゃんみてえに套路でもやってろ」
成虎が指差した先では、一派の掌門になった
「……フン、若え女には随分とお優しいこって何よりだな」
「あたりめえだ。おめえみてえな、クチの利き方も知らねえクソ生意気なクソガキとは自ずと対応が変わってくるってモンだ」
拓飛の捨て台詞を軽く受け流すと、成虎は凰華に向き直った。
「さあ、お嬢ちゃん。硬氣功は使わねえから安心して打って来な」
「はい!」
凰華は包拳礼を行うと、構えを取った。しかし、向かい合う成虎は何の構えも見せずにダラリとしているどころか、半身にもならずに身体の正面を対手にさらけ出している。
武術の原則として無構えで対手の真っ正面に立つ事は禁忌である。凰華は恐る恐る質問した。
「あの、構えないんですか……?」
「ん? ああ、気にすんな。そんな事よりホレ、攻めて来ねえと稽古にならねえぞ?」
「は、はい!」
凰華は改めて構えを取って成虎の隙を窺ったが、眼の前の大虎は全身余す事なく隙だらけ故に、逆にどこから攻めたものか分からなくなってしまった。
「やれやれ、ラチが明かねえな」
そう言うと成虎は両腕を後ろ手に組んでしまった。
「ほら、これでどうだ? まだ足りねえなら、眼もつぶってやろうか?」
ニヤけた顔で成虎が言う。これには流石の凰華もムッとした。
「————行きます!」
凰華は気合と共に中段突きを繰り出した。これは拓飛の得意技を密かに修練していたもので、見事に氣を孕んで唸りを上げるほどの一打であった。
しかし、成虎は拳が間近に迫っても動こうとしない。凰華は命中を確信して寸前で拳の力を緩めたが、その拳に残った感触は空を切る頼りないものであった。
「力を抜いてくれるたあ、お優しいねえ。オジサマ、嬉しくて涙が出そうだわ」
突然、背後から成虎の声が聞こえる。凰華が血相を変えて振り向くと、間近に無精髭の大男の顔が眼に映った。
「————っ!」
凰華は慌てて間合いを取った。心臓がバクバクとうるさいほどに音を立てる。
成虎は髭をいじりながら声をかけた。
「だが、闘いの最中に相手に情けを掛けるのは良くねえな。……おめえは相手に情けを掛けれるほど強えのか……⁉︎」
言葉の後半から成虎の眼光と語気が鋭さを帯びる。凰華は虎に睨まれた鹿のように脚が震えだした。
「遠慮は要らねえから、殺す気で打って来い」
「——は、はいっ!」
凰華は無我夢中で家伝の拳法を繰り出した。しかし、どんなに拳を振っても、蹴りを放っても、成虎の服の端にすら触れる事も出来ない。
焦れた凰華が渾身の気合を込めた突きを打ち出すと、成虎は合わせるように人差し指を突き出した。
それはゆるりと突き出されたにも関わらず何故か先に凰華の額に届いた。凰華は全身が痺れたように、その場に崩れ落ちてしまった。
「……おーい、大丈夫かあ?」
手を差し出した成虎の表情は普段のだらしないものに戻っている。
「は、はい……」
手を借りて凰華がなんとか立ち上がると、成虎が口を開いた。
「お嬢ちゃん、技はまあ悪かねえが、ちいと正直すぎるな。斉のニイちゃんほどまでとは言わねえが、もうちょい技に『
「あ、ありがとうございます!」
凰華は再び包拳礼を取ると、照れ笑いを浮かべる。
「以前、拓飛にも同じような事を言われました」
「フン、クソガキが一丁前に師匠ヅラか。俺が何度、奴にバカ正直に攻めるばっかすんなって言った事か————」
どこか嬉しそうに弟子の悪態をついていた成虎だったが、ある物を眼にすると突然その表情が凍りついた。
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