『隠士捜索(三)』

 玄関から現れたのは三十歳くらいの女だった。着ている衣装は質素な物で、西王母セイオウボとは比べようもないが、中々の美人である。


 女は、折れた男の拳をしげしげと眺めると、面倒臭そうにつぶやいた。


「ふうん、こんなモノ唾でも付けとけば治るんじゃないかい?」

「そんなんで治るワケねえだろ! 早く治してくれよ!」

「仕方ないねえ。先生、診てやってあげてくださいな」


 女は振り返ると、玄関の奥へ声を掛けた。

 やや間が空いた後、玄関から雲を突くような大男がぬうっと姿を現した。


 男は四十がらみで無精髭を生やしており、その左頬には深く長い刀傷が走っている。凰華オウカ拓飛タクヒの言葉を思い返していた。


(拓飛が言ってた特徴の通りだわ。じゃあ、あの人が……?)


 頬に刀傷を持った大男——岳成虎ガクセイコ——は男の骨折した拳を手に取ると、ゆっくりと口を開いた。


「……コイツは何かを殴って折れたようだな。おめえ、なにを殴った?」

「これはさっき、しら————」


 男は続く『髪』という言葉をグッと飲み込んだ。人が訪ねて来たという事がバレてしまっては一大事である。


「こ、これはさっき酒に酔って、白樺の樹を殴っちまったんだ。そんな事より早く治してくれよ、岳先生!」

「ふうむ、おかしいな。俺の見立てじゃ、殴ったのは『白髪のガキ』だと思ったんだがな。俺の眼も曇っちまったかね」


 この言葉に男の顔色が見事に青ざめる。


「あ、いや……そ、そんな事は……ねえ……違う、違うんだ……」

「なーにをブツクサ言ってやがる。オラ、もう痛みは引いたろ。明日までは何も殴るんじゃねえぞ」


 男はハッとして自らの拳を見ると、いつの間にか、明後日の方向を向いていた指が全て正常に戻り、痛みが嘘のように消え去っている。


「が、岳先生! 違うんだ! 誰もアンタを訪ねたりなんかしてねえ!」


 男は必死の形相で弁解を始めるが、突如足が宙を浮いた。


「邪魔だ」


 拓飛は男を宙に吊り上げると、鼻紙でも捨てるようにポイッと後方へ放り投げた。男は数丈先にドスンと尻から着地すると、四つん這いの姿で慌てて去って行った。その姿を眼で追う事もなく、拓飛はゆっくりと岳成虎に歩み寄った。


「よお、オッサン。久しぶりだな」

「よお、小飛シャオフェイ。そろそろ来るんじゃねえかと思ってたぜ」


 小飛と呼ばれた拓飛はムッとして言い返す。


「俺は拓飛だ。小飛なんて呼ぶんじゃねえ、クソオッサン!」

「やーだね! 俺をオッサン呼ばわりするんなら、俺はいつまでもおめえを小飛(フェイちゃん)と呼んでやる!」


 成虎は年甲斐もなくベロを出して拓飛をからかい出す。その様子を見ていた凰華は唖然として呟いた。


「な、なんか、思ってた感じと違う……」

「ワイもや。めっちゃお茶目やん」


 凰華の感想にセイも同意する。


 拓飛はプルプルと怒りに震え、今にも殴りかかりそうな形相だったが、なんとか堪えて続く言葉を絞り出した。


「……そんじゃあ、元白虎派の岳成虎とでも呼べばいいか?」


 不意におのれの名を呼ばれた成虎の顔が一瞬、真顔になった。


「ほぉ……、その名で呼ばれたのは随分久しぶりだ。何処で聞いた?」

「西王母のバアさんだ」

「これまた、懐かしい名じゃねえか。桃源郷に行ったのか?」

「ああ」

「バアさんは息災だったか?」

「元気すぎて、腹ん中に何を溜め込んでるか分かりゃしねえ」

「ハハ、相変わらずだな、あのバアさんも」


 成虎はひとしきり笑った後、改めて一年ぶりに再会した弟子の姿をマジマジと眺めた。


「……一年前に比べると随分腕を上げたようじゃねえか。青龍派の奴らと手を交えたな?」

「へっ、傷痕でも数えたのかよ?」

「まあ、そんなトコだ」


 成虎は冗談めかして言ったが、まさにその慧眼が、拓飛の身体にうっすらと残る傷痕から対手を見抜いたのである。


「オッサン、なんで白虎派を抜けたんだ?」

「さあなあ、なんせ昔の事なんでサッパリ忘れちまったよ」


 はぐらかすように、くるりと成虎が凰華たちの方へ首を向けた。その視線が凰華の前で止まると、ニヤついていた表情が突然、まるで幽霊に遭遇したかのように凍りついた。


「……? えっと、あたしの顔がどうかしましたか……?」


 凰華が愛想笑いを浮かべながら声を掛けると、成虎はバンバンと拓飛の背中を叩き出し、


「やるじゃねえか! 女嫌いのおめえが女を連れて来るたあ! おい赤飯だ、祝いに赤飯炊いてくれ!」


 そばの女に指図すると、女は軽く返事をして家の中に引っ込んだ。


「お、女って、そんなんじゃありません!」

「ちげえよ! コイツはそんなんじゃねえ!」


 凰華と拓飛が赤面しながら同時に否定するが、成虎は豪快に笑い飛ばす。


「ハッハッ、恥ずかしがる事はあるめえよ。んで、ネエちゃんはなんてんだ?」


 凰華はハッとして、成虎の前に進み出ると包拳礼を取った。


「初めてお目にかかります、岳師叔。白虎派の弟子、石凰華と申します」


 師叔と呼ばれた成虎の眼光が突然鋭さを増した。


「……おい、俺はもう白虎派とは関係ねえんだ。勝手に師叔だとか呼ぶんじゃねえ……!」

「す、すみません!」


 慌てて凰華が謝るが、成虎は険しい表情のまま、ゆっくりと口を開く。


「俺の事は上目遣いで『岳オジサマ❤️』と呼んでくれりゃいい」

「…………」


 凰華は無言で生涯最高の軽蔑のまなざしを向けたが、目の前の大男に効果は無いようである。


「よせやい。そんなに見つめられちゃあ、オジサマ照れちまうぜ」

「だから言ったろ。このオッサンに真面目に相手すると疲れるだけだぜ」


 呆れ顔で拓飛が呟いた。

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