緑ヶ丘梨乃 6

「もう寝るか」

 彼がそう言うと、部屋は急に静かになった。

 彼は、本当に良い人だ。

 どうか、私が急にいなくなっても、その優しさを忘れずに生きてほしい。

 会話の中で、一つだけ答えが出ないものがあった。

 その答えが何なのかは、わからない。本当にわからない。

 だけど、切り替えなくてはならない。

 今日のメインはここからなのだから。

 暗さにも慣れてきて、壁にかかってある時計の針が見える。

 時刻は深夜十二時を回ったところ。

 彼は寝息を一つ立てず、眠っている。

 静かにベッドから出て、少しだけカーテンを開ける。

 暗闇の中光る月は、いつも以上に大きく見えた。

 その瞬間、雨が止んだ。

 きっとこれは、もう一度来る嵐の前の静けさ。

 だけど、嵐が来る前に始末してみせる。

洋服の中に隠してあるものを触って確認する。

 確かに、道具はそこにある。

 あとは使うだけ。

 その───この時のために用意しておいた小さな刃物を服の中から取り出す。

 少女一人、これで心臓を刺せば容易い。

 彼女の部屋はここの隣。さっき確認した。

 静かに、ゆっくりと移動する。彼を起こさないようにゆっくりと。

 彼女の部屋の前に着いた。

 この部屋の住民は、ドアを開けたままにするのが習慣になっているようだ。

 ならば、さらに容易いこと。これで彼を起こす可能性はなくなったようなもの。

 さらに、ゆっくりと、静かに、彼女が眠るベッドへと近づく。

 そして静かに、布団をめくった。

「………⁈」

 ────そこに、人間はいなかった。いたのは可愛らしい人形たち。

「……いない………そんなまさか」

 私は音には敏感だ。移動しながら、音には注意を払った。

 一階にもあかりは付いていないし、そもそも階段を降りる音がしなかった。

 一体どこで……。

 そこで、悪寒が走った。この、恐怖で寒さに似た状態は悪寒以外の何ものでもない。

 そして、静かに、かちゃ、と音を立てて私に何かが向けられた。

「動いたら、殺すけど?」

 ベッドの上にいるはずだった少女は、私の背後にいた。

「どうして黙ってるんで───いいえ。敬語で話すのはもうやめる。私を殺そうしていた人間に払う敬意なんてないからね」

「………………」

「また黙ってるし。ねぇ、今どんな顔してるの? 私きになるなぁ。あ、そうだ! 振り返ってこっち見せてよ。じゃないと、撃つから」

 撃つ、という言葉で向けられているものが何なのかをやっと認識する。きっと、エアガンと呼ばれるもの。否、彼女の持つそれはそんな優しいものじゃない。見た目はエアガンそのものだけど、きっと実弾を撃てる。彼女の持つ力なら、それをホンモノに変えてしまうことが可能なのだから。

「相変わらずの、澄ました顔」

 言う通りに振り向くと、彼女はつまらなそうに言う。

 恐怖で怯えて欲しかったのだろうか。

「こんばんは。香恋さん」

「そんな挨拶していられる余裕なんてないと思うけど?」

 こうなって、平常でいられるのが私。それに悪寒なんてものは、とっくの間に過ぎ去って行った。だって私は死なない、不死身の人間。

「それ、エアガン? お祭りとかである」

 パジャマでそれを構える姿はあまりに不釣り合いなのに、なぜか様になっている。

「そうよ。大昔に康太とお祭りに行った時にクジで当たったものなの。そっちのそれも、ホンモノっぽいね」

 彼女の目は、ただ私の目だけを見ている。

 目をそらしたら殺す、とでも言ってるような圧力がある。

「お話、しない?」

「は? あんたバカなの? こういう場面は普通命乞いをするんじゃないの」

 命乞い? そんなこと、私がするわけがない。

「まぁ、いいけど。ここで簡単に殺してもつまらないしね」

 悪魔で銃口を向けたまま、彼女は話す。

 それにしても、真剣な表情は本当にあの人にそっくりだ。

 夕方にも、それは感じた。やっぱり、親子なんだなと。

 暗くても、しっかり識別できるその明るい髪色。目のみで、人に今まで感じたことのない圧力をかけることができる。そして何より、まるで人の思考を手に取るようにわかる、その意味のわからない力。きっと、魔術や魔法のようなそんな特殊な力なんかじゃない。異常なほどに勘が当たり、人の考えていることを読むことができる。

 千代田香恋は香織さんの正真正銘の娘なのだと、わかった。

「で、どうする気だったの? 私のこと」

「殺す、それだけ」

「いっそ清々しいわ。面と向かって殺す気だったって言われるの。だけど、それはできないみたい! 残念!」

 この場面でも急にテンションを上げる、もちろん下げることもできるところなんて、そっくりすぎるじゃない。

「で、どうしてそんなことしようとしたの? 香恋知りたいなぁ」

「それについては、検討ついてないのかしら?」

「まぁ、確信はついてないわ」

 彼女はあの人のことをどう思っているのだろう。

 今まで全く疑問に思わなかったことが急に浮かんだ。

「こちらからも、一ついいかしら」

「何?」

「香織、という名前に覚えはない?」

 瞬間、彼女の目は鋭さを増した。

 しかし、少しして、またさっきまでのように戻ると、

「そっか。あの女に言われてか」

 全てを理解した言葉が彼女から発せられた。

 この世界にいてはならない力を持った存在であることを自分でもしっかり理解しているのだろう。

「じゃ、またこっちから質問。私を殺すために近づけば、康太に近づけると思ったの?」

 正確にはその逆。彼に近づいたら、あなたを殺せると。

 だけど、今の発言から、本当はその言い方があってるようにさえ思えてしまう。

 この作戦の中で、彼を意識し始めたのは事実なのだから。

「いいえ、その逆よ」

「へー、その割にはすごい仲良くデートしてたじゃない。スパッと殺しにきたらよかったのに。でも、やっぱりそっか。無愛想、というか無表情過ぎて確信は持てなかったけど、康太のこと好きなんでしょ」

「あなたの彼を思う気持ちには負けるわ。とうてい敵わない」

「へー。それも知ってるんだ。あの女から聞いたの?」

「見ていたらわかるわ。妹が拗ねるからって気にしていたあなたの兄を見ていたらね。兄が女と遊んでるぐらいで嫉妬なんて見苦しいのよ」

「うるさいわね。私がどんな思いを持って妹やってるのかわかってんでしょ」

 ブラコン、いや、本当の兄妹じゃないからそれは違うか。

ただ彼女は十年間、叶うはずのない片思いを続けている。その想いは絶対に届かないのに。

「あなたの力、人の感情は想い通りにできないみたいね」

 香織さんが言っていた。『感情』というものはどんな異能でも想い通りにできないと。常に流動的で、移ろいやすいものは彼女の範囲外だと。だから、ずっと妹なんてポジションにいると。

 さらに、自分自身の感情も想い通りにできないと。

 仕方ない。ここでの死は受け入れよう。

 死ぬのは久しぶりだ、なんてこの世界で自分にしか抱けないことを思ったりする。

「殺しなさい。私の負けよ」

「潔いんだ。まぁ、言われなくても殺しますけど」

 その発言の後、確かに実弾が見えないスピードで発射された。

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