第20話 召喚術師、希望と共にあれ

 かつて交易都市ラダーマークが始まった時、この地に集った最初の人々は将来の発展だけを願ったはずだ。子々孫々の平和な繁栄だけを。

 まさか……神話時代のリベンジマッチの舞台になるとは露ほども思っていなかったはず。


「――パンドラの眼、全展開完了」


 耳元で聞こえたシリルの声。それは通信魔法・遠声鎖ボイスリンクが可能にした遠隔通信であり、シリル自身はパンドラの外の空中で大量の怪鳥系召喚獣を使役中なのである。


「足下は気にしなくていい。好きに暴れてしまえ、フェイル」


 パンドラの頭蓋骨内の壁面には幾つもの映像が投影されており――パンドラの主観視点や真横からの遠景映像はもちろん、真上からの見下ろし視点、パンドラ真後ろからの三人称視点、はては背後・左右の映像まで見事に網羅されていた。


 そして俺は、主観視点の中の全裸天使を睨みながら。

「ありがとうよ天使喰い。余裕こいて突っ立ってくれたおかげで、楽に立ち上がれた」

 獣のように禍々しく笑う。


 その時、不意に――

「シリル!! なっ、なな、なんなのよぉ、これぇっ!」

 遠隔通信がルールア・フォーリカーの声を拾った。

 突然の大魔獣パンドラに混乱した召喚術師たちが、外にいるシリルのところに詰めかけているらしい。


「フェイル・フォナフが召喚してるの!? 嘘――嘘でしょう……っ!? これが、あなたたちの切り札って――秘密兵器どころか、最古最強の神殺しじゃないの!!」


 いちいち耳元でうるさいが、今は外の雑音を気にしている場合ではない。


「フェイル、魔力が足りなくなったら言って。すぐ薬打つから」

「ああ。くれぐれも殺してくれるなよ」


 魔獣パンドラがただ立っているだけのこの瞬間も、四つん這いになった俺はパンドラの脳神経に電気を流し続けているのだ。パンドラの脳みそに片腕を突っ込み、細糸電ラインボルトで魔力を消費し続けているのだ。


 俺のそばに膝を付いたミフィーラが天使喰いを見やり、ぼそっと言った。

「……綺麗だけど……なんかムカつく……」


 俺は「くははっ」と短く笑って同意した。

「天使喰いの顔がサーシャに似てんのも、ことさら趣味が悪いな」


 六枚翼の大天使を取り込んで完全体となった銀の天使喰い。


 最高神に生み出されたというその兵器は――パンドラより少し小柄ながら、執行者たる名にふさわしい偉容と壮麗さだった。全裸天使とは言っても、ただ美しいだけではなかった。


 染みや汚れの一つすら見つけられない銀一色の肌。

 しかしその銀色肌の全面には、植物をシンボル化した奇妙な彫り込みがびっしり入り、天使喰い自体の美しさと異質感を際立たせている。


 そして、大小様々な剣を広げて固めたような銀翼が二枚、背中に見えた。

 天使喰いの背中から直接翼が生えているわけではない。その――いかにも武器になりそうな物騒な翼は、超常的な力で天使喰いの背中近くに浮いているのだ。


 顔付きは安らかに眠った女性。

 ゆらゆらと揺れる長髪だけが、さっきまでの不定形生物の特性を残していた。


 明らかに神の領域の存在……人類が、召喚術師が、どれだけ束になろうと勝てる相手ではない。多分、シド王直轄の召喚術師隊でも、完全復活した天使喰いはどうにもならないだろう。


「でも――お姫様に託された戦い」


 不意にミフィーラがそんなことを言い、俺は眼前の敵に恐れを抱くことなく「ああ」と答えた。


「あのサーシャ・シド・ゼウルタニアが命懸けでこの状況つくってくれたんだ。俺が命を張る理由としちゃあ、十分すぎるってもんだぜ」

「運命が、お姫様とフェイルを繋いだ?」

「……さあな。知らねえ」


 天才ミフィーラの口から『運命』とは、珍しいこともあるものだ。

 とはいえ――パンドラと天使喰いの一騎打ち――こんな好都合、幾らかの奇跡が起きなければ到底あり得なかった状況だろう。そう言いたくなる気持ちもよくわかった。


 俺たちの辿ってきた道が最善手だったとは思わない。

 だが、しかし、“六鉄ろくてつの執行者・銀の天使喰い”が現代に蘇ってもなお――俺たち人類に、数多の命が息づくこの世界に、生き残る道が残されていることだけは事実だ。


 サーシャ・シド・ゼウルタニアが自身の大天使を犠牲に天使喰いを完全復活させ、『楔であり唯一の弱点でもある中心核』を与え、俺とパンドラがそれを仕留める。


 もしも昨日、あの月の下でサーシャがパンドラを見ていなかったなら。

 もしも今日、サーシャが俺たちを信じて託してくれていなかったなら。

 そもそも、俺の相棒が、死体とは言え終界の魔獣パンドラでなかったならば。


「こうして天使喰いを殴り殺せる状況にゃあならなかった」


 ニヤリと笑った俺は飢えた獣がごとくに舌舐めずり。


「さてと、だ――行こうぜシリル、ミフィーラ。本番だ」

 そう言って、『真横からの遠景映像』に一瞬目を移す。


 ――曇天の下に大きく広がった交易都市ラダーマークの街並み――


 ――その真っ只中で向かい合った二体の神話存在――


 ――北側に銀の天使喰い、南に終界の魔獣パンドラ――


 正しく直立した銀の天使喰いに対し、青黒色の魔獣パンドラはだいぶ前傾姿勢だった。


 なにしろ身長を超える二叉尾と背中の十枚翼がある。生前がどうだったかは知らないが、『俺のパンドラ』はこうやってひどく前のめりに立つのである。


 そしていよいよ、俺の指先がパンドラの脳神経に新たなる電気を流し。

「ちょ――ちょっとシリル! パンドラがっ、パンドラが動いてる!!」

「もう離れた方がいいルールア。ここから先は、神話たちの領分だ」

 満を持しての行動開始。


 遠景映像の中のパンドラは始動こそゆっくりだったものの、第一歩目を大きく踏み込んで地面の諸々を噴き上がらせた直後――――爆発的に加速した。


 足下の家屋やら大型商店やらを小石がごとくに蹴散らしながら、天使喰いへと一直線だ。


 天使喰いも動く。

 右腕を一度液状化させて腕そのものを大槍に変えると、素早く半身を引いて、パンドラの突進に槍の一撃を合わせた。


 リーチの長さは天使喰いの方がだいぶ上。


 銀槍の穂先が先にパンドラの左胸に触れ――しかし材質不明の外骨格を突き刺すことはできなかった。水飴みずあめのように容易く穂先が潰れると、そのままパンドラの接近に沿って潰れ続ける。突っ張り棒の役目すら果たせなかった。


 武器を破壊されて死に体となった天使喰いの顔面をパンドラの右手が掴む。 


「うおおおおおっらああああああああああああああああああああああああ――!!」


 俺は思いっきり叫んで、細糸電ラインボルトの出力を上げた。

 巨大な天使喰いごとだ。顔を鷲掴みにした天使喰いごと、パンドラを前に突き進ませる。


 天使喰いは足を踏ん張って耐えようとするが、無限とも思えるパンドラの力の前には無駄な行為でしかなかった。身体の大きさだって、重さだって、こっちの方が遙かに優勢だ。


 パンドラの頭蓋骨内にまで聞こえてくる轟音。


 超巨大召喚獣の力任せに、足下の何もかもが空に舞い上がった。

 家も、馬車も、道も、すべてだ。


「フェイル気にしちゃダメ! このまま行って!」

「わかってるよっちくしょおおおおおおおおおおおおおおおおお!!」


 人間の姿が見えなかったのは俺にとって幸運だが、誰も殺していないとは決して思わない。


 パンドラは、天使喰いを力尽くで押しやりながら大市場の上を駆け抜けた。

 たった五歩か六歩で大市場を踏み越えると、その次は大きく広がった住宅街へと踏み込んだのだ。


 どんなに広い大通りだとて三百メジャール超えるパンドラには狭すぎる。


 俺にできたのは、せめて人々の集まる指定避難所を避けることぐらいだった。


 人々の帰る家を壊し、思い出が残る街並みを崩し、逃げ遅れた誰かの命を奪い――――それでも俺は天使喰いを押し続ける力をゆるめない。

 更に細糸電ラインボルトの出力を上げ、パンドラの巨体を駆動させた。


 北の壁に到達すると。

「邪魔だあああああああああああああああああああああああああああああっ!!」

 パンドラと天使喰いの膝下ぐらいまでしかない分厚い壁をぶち破る。


 巨大な瓦礫をばらまきながら学位戦の舞台となる草原に出たらこっちのものだ。足下のことを一切気にせずひたすら速度を上げた。


 草原の奥へ!


 草原地帯の中央へ! 


 天使喰いを少しでもラダーマークから離れた場所へ!


 パンドラの突進で巻き上げるものがラダーマークの石畳から大量の土砂に変わり、やがてパンドラの背後を捉えた映像にもラダーマークの影が見えなくなった頃。

「が、は――っ」

 極端な魔力枯渇で呼吸すらできなくなった俺は、それでも最後の力を振り絞ってパンドラの空いた左手で天使喰いの顔を殴り付ける。


 威力はあったはずだが、距離が甘くてダメージらしいダメージは与えられなかった。ちょっとよろけさせたぐらいだ。


 だから。

「ミ、フィーラぁっ」

 ミフィーラに助けを求めながら俺は、細糸電ラインボルトが切れる最後の瞬間、パンドラの身体を回転させた。長い長い二叉尾がうなりを上げた。

 尾の先端は容易く空気の壁を突破しただろう。


 そして――――――――天使喰いの脇腹を薙ぎ払って吹っ飛ばす。


 俺は天使喰いの行方を確認することができなかった。とある瞬間、視界のすべてが真っ黒に染まって、そのまま意識を失いかけたからだ。


「ぶは――ぁっ」


 ミフィーラ特製の魔力強壮剤がギリギリ間に合って命拾い。肺の奥底から空気の塊を吐き出すようなひどい呼吸で目が覚めた。

 注射針の付いた試験管が首筋に刺さったまま、「まだだぁ――」細糸電ラインボルトを再発動を行う。まずは膝が落ちかけたパンドラを立て直した。


 嫌な汗が顔中の毛穴から吹き出し、汗と鼻水を数滴落とす俺。


 魔力強壮剤の正体は致死性の猛毒である竜血だ。いくらミフィーラの手が加わっているとはいえ、身体への負担が軽いわけがない。魔力が回復した代わりに今すぐ吐きそうだった。


「はあ、はあ、はあ――っ」

 荒い呼吸で頭蓋骨内壁の映像を睨み付けるが、主観視点の中に天使喰いはいない。


 ――どこだ――


 そう思った瞬間、「フェイルっ上だ!」と遠声鎖ボイスリンク発動中の耳元でシリルの声。

 反射的にパンドラの顔を上げたら、主観視点いっぱいに天使喰いの足裏が広がった。


 踏み付けるような飛び蹴り。


 いくら体重差があるとはいえ、いくら直前にパンドラの首筋の筋肉を固めたとはいえ。

「きゃあ!?」

「ちょっと待てぇい!」

 パンドラの頭蓋骨内は大混乱だ。


 四つん這いになってパンドラの脳みそに片腕を突っ込んでいた俺も、俺の首筋から試験管を引き抜こうとしていたミフィーラも、突然の衝撃に弾き飛ばされる。

 ミフィーラが咄嗟に『クッションとなる巨大な腐乱死体』を召喚してくれなかったら、パンドラの硬い頭蓋骨に激突して死んでいただろう。


 それは中型のクジラの死体で、ミフィーラが何を目的にこんなものを召喚獣としているかはよくわからない。


 とはいえ――大きく開いた腹からこぼれた大量の内臓に突っ込むことで、俺とミフィーラは救われた。しかし俺はホッと一息つくことすらなかった。


「――っ!」


 繊維状の何かよくわからない肉片を頭から落としながら身体を起こすと、這うように走ってパンドラ操作への定位置へと。パンドラの脳みそへと片腕を深く突っ込んだ。


「逃ぃがすかあああああああああああああああああああっ!!」


 瞬間、パンドラの右手が、音速を超えて空へと伸びる。

 小さくジャンプした青黒い巨体が、パンドラの顔面を蹴った直後の天使喰いの足首を掴まえた。圧倒的な握力で足首を握り潰しながらの着地。


 そしてそのまま――――力いっぱい、天使喰いの背中を大草原に叩き付けた。


 大地崩壊。

 まるで隕石が落下したかのような衝撃と熱が巻き起こる。


 突然の大爆発が草原のド真ん中にクレーターを生み、何十メジャールという厚さで地面がめくれ上がり、その下の硬い地盤までもが広く深く割れ砕けた。


 砕けた地面に足を取られてパンドラの身体が沈み込むその瞬間、主観視点と遠景以外の映像が途切れて消える。


「無事かシリル!?」

「僕の心配はいい!! 好きに戦えフェイル!!


 パンドラの外は暴風が吹き荒れているらしい。遠声鎖ボイスリンクを通じて聞こえるシリルの声には大量の風音が混ざり、聞き取るのも困難だった。


「フェイル!」

 ミフィーラが叫ぶ。


 パンドラの下敷きになって地盤に埋まった天使喰いが、開いた右手をこちらに向けていた。俺が反応するよりも早く、五つの指先すべてから純白の破壊光線が放たれる。


 天使喰いの光線はパンドラの胸部を直撃。

 とはいえ、パンドラの青黒い外骨格には何の変化も起こらなかった。おそらくは空中墓園の砲撃の千倍以上という超大魔力を何事もなく受け止めた。


 ――――――――――――


 巨大な左拳が天使喰いの顔面に上から突き刺さり、ただでさえ割れた岩盤の中にいた天使喰いを更に深く地中に埋め込んだ。そしてその一発が小さな地震を引き起こすのである。


「ちくしょおおっ! 地面が脆すぎんぞっ!」


 クリーンヒットだったが、思ったようなダメージではない。盛大に砕けた地盤が天使喰いのクッションになったからだ。


 それでパンドラは天使喰いの首を引っ掴む。強引に首を固定して、空いた片手で顔面を殴り付けた。


 たった一発で天使喰いの顔面が大きく潰れる。

 まるで精巧な粘土細工に拳をぶつけたような状態、それでも天使喰いは何の支障もなく動き続けた。両腕を剣に変化させるとパンドラの関節を狙ってくる。


 左腕の剣はパンドラの右腕の付け根を刺そうとして、切っ先が入ることなく刀身ごと潰れ。


 右腕の剣はパンドラの左肘の内側を切り払おうとして、しかしあえなく弾かれた。叩き付けるようにもう一度剣を振るうが、今度もパンドラは切り裂けない。剣の方がへし折れた。


「そんなナマクラぁああああああっ!!」


 天使喰いがどれだけ変幻自在だろうが、パンドラの装甲を破れなければ意味がない。


 だから俺は、反撃を恐れることなく隙を晒した。パンドラに思い切り拳を引かせたのだ。


 ――――――――――


 大弓を引き絞るような体勢から繰り出された一撃は、天使喰いの顔面に触れるなり、硬質化していた銀色を元々の液状へと還す。

 天使喰いの頭部が丸ごとすべて背後の地面に飛び散った。破片すら残らなかった。


 首無しとなった全裸天使。

 勝ったとは思わないが、優勢だとは思いたかった俺。


 追撃を狙ってまたパンドラに拳を引かせた瞬間だ。

「この野郎っ!? まだ――!!」

 いきなり両膝を抱えた天使喰いにパンドラの腹を蹴り押され――――俺はパンドラの脳みそにしがみつく。突然の浮遊感。天使喰いの両足蹴りでパンドラの巨体が浮いた。


「ミフィーラぁ! どっか掴まれ!」

 そう叫ぶなり、全神経を『召喚獣との感覚共有』に集中させる。ほとんど勘で空中姿勢を取ると、まずは右足、左足、右手、左手、二叉尾の順番で着地させていった。


 大きく蹴り飛ばされたパンドラはクレーターから出て大草原に降り立つものの、着地衝撃も含んだ超重量に地面の方が耐えきれない。触れる端から壊れていき…………やがて立ち上がったパンドラは、膝下まで地中に埋まっていた。


「はあ。はあ。はあ。はあ。は――」


 荒い呼吸の俺はまたも魔力切れ。状況を察したミフィーラが「次の一本でフェイルの許容量限界かも……」なんて不安げに言って、二本目の魔力強壮剤を打ってくれた。


 直後。

「おぇ――」

 四つん這いの俺は、胃の内容物をその場にぶちまける。「がはっ! がはっ! おえぇっ」最終的に胃液までパンドラの脳みそに吐いて、濡れた口元を魔術師服の肩辺りでぬぐった。


「……パンドラの操作に酔っただけだ。心配すんな」


 ちらりと見たミフィーラは、ひどく血の気が引いた顔で俺を見つめている。


「――フェイル、見ているか?」

 その時不意にシリルから話しかけられ。

「天使喰いも起き上がるぞ。また形態変化を始めた」

「だろうな。さっきまでのぬるい攻撃じゃあ、パンドラの装甲は抜けねえ。今度はなりふり構わず攻撃特化で来るさ」

 途切れていた各種視点映像がすべて蘇った。


 シリルが飛行召喚獣を駆使して届けてくれる様々な映像、そこに映っていた異変――それはクレーターいっぱいに噴き上がった純白の炎だった。


 巨大な炎の柱の内部で、やたらスタイルの良い女性の影がゆらりと立ち上がる。


 攻撃のほとんどすべてをパンドラの外骨格に阻まれ、頭まで潰された銀の天使喰いが身体を造り替えているのだ。

 おそらくは、すべての機能を攻撃のみに振り切った特殊形態へと。


「ったく……こちとら、いっぱいっぱいだってのによ……」


 パンドラが砕けた地面から抜け出ると同時、炎の柱から女性のたおやかな指先が出てくる。


 そして――だ。

 まるで試着室のカーテンでも開くような優雅な仕草で、『それ』は現れた。


「………………サーシャ…………」


 そう呟いたのは俺ではない。パンドラの外で実際の光景を見ているシリルだ。

 俺は小さく舌を打っただけ。


 ――銀色のサーシャ・シド・ゼウルタニア――


 翼を失った天使喰いの新しい姿は、そうとしか表現しようがない悪夢だった。


 絶世の美貌も、長い白金髪も、紫色の瞳も、女神と見紛うばかりの魅力的な裸体も、今までに俺が見てきたサーシャのまま。


 違いと言えば、頭上に浮かんだ光輪と銀色の肌、胸元で大きく花開いた銀の薔薇、そして三百メジャールに届こうかという身長ぐらいなものだろう。


 …………………………………………………………。


 神話存在に散々踏み荒らされた大草原、魔獣パンドラと銀の美少女が向かい合う。


 最初は武器など持たない無手同士。

 しかし、天使喰いが無言で両腕を広げた瞬間、彼女の背後にあった炎の柱が動いた。純白の炎のすべてが天使喰いの両手に吸い込まれて細身の双剣を形成したのだ。


 正直……魔力量がどうだとか、切れ味がどうだとか……そういう次元の武器ではない。

 疲労困憊の俺を支えてくれていたミフィーラも気付いたらしい。


「気を付けてフェイル。あの双剣、きっと――」

「わかってる。万物を断つ神の権能の再現……あれならパンドラも斬れるだろうよ」


 とはいえ、だからどうしたという話だ。

 銀の天使喰いが神の力を使おうが、パンドラとて神殺しの魔獣であることに違いはない。


「だったら――今日、この場で、もう一回神殺しをするだけだ」


 俺はそう強がってパンドラを前進させた。

 大きく身体を揺らしながら前のめりに天使喰いに接近し――――まずは右拳を振るう。


 瞬間、主観映像から天使喰いが消え失せ。

「う゛ぐっ――!?」

 俺の右脇腹に走った鋭く熱い痛み。パンドラを召喚していて初めて感じた明確な痛み。


 パンドラが死んでいようとも、この巨体の痛覚はまだ生きているのだ。死体操作のために召喚獣との同調を最大にしている俺にとって、パンドラの肉体の痛みはそのまま俺の痛みだった。


 懐に潜り込んだ天使喰いに脇腹を斬られたのだ。


「がっ!? 痛ってぇ!」


 そして今度は背中と太もも裏に熱さ。

 信じられない速度で背後に回り込んだ天使喰いが、パンドラの十枚翼の根もとを縦に斬り付け、流れるような動きで大腿部にまで刃を走らせた。


 主観視点の映像だけを見たらとても間に合わない。それで俺は、遠景映像を頼りに、太く長い二叉尾で天使喰いを拘束しようとする。


 寸でのところで逃げられて尾に左の剣を当てられるが、青黒い尾がそのまま両断されることはなかった。パンドラの体内に潜む内骨格は、天使喰いの剣を確かに受け止め、サーシャの紫色の目を見開かせた。


「ちくしょう! ケツの先まで痛えなんて聞いてねえぞ!」


 まさしく肉を斬らせて骨を断つ、だ。

 俺は尾の筋肉を収縮させて天使喰いの左の剣をがっちり固定すると、振り向きざまに大上段から手刀を落とす。


 刹那――音速突破したパンドラの右手が天使喰いの左肩を叩き斬った。


 これが天使喰いの選択の結果。攻撃に特化した天使喰いの身体は、ガラス細工でも割るかのごとく簡単に壊れてしまう。

 天使喰い本体から離れた左腕はいきなりヒビが入って細かく砕け散り、その後、再生することもなかった。


 すぐさまバックステップを踏んで一度距離を取る天使喰い。


 一方、俺はパンドラを歩かせない。どうせ速度では勝ち目がないからだ。魔力不足にあえぎながらも、「さすがはパンドラ。神の権能にすら耐性持ってるたぁ」なんて小さく笑った。


 はたして……手負いのパンドラと手負いの天使喰い、俺とサーシャは、何秒ぐらい無言で向かい合っていたのだろう。


 こちらを凝視してくるサーシャの美貌を見つめた俺は、ふと、「……厄介な役目を押し付けやがって……」とぼやくのだ。

 そして天使喰いの胸に咲く銀の薔薇に目を移して言った。


「……まだ救える見込みがあるってだけ……親父ん時よりは、だいぶマシか……」


 それが俺が悠長に口にできた最後の言葉。


 ――――――――――


 いきなり天使喰いが片腕一本、剣一本で突っ込んできた。


 俺は巨拳で迎え撃つも、更に速度を増した天使喰いに当たるわけがない。速すぎて不可視となった剣舞踏者ソードダンサーに、突き出したパンドラの右腕がズタズタにされる。


「ちいいっ!!」

 ピンポイントで拳を当てるのは無理と判断。左腕を鞭のように薙ぎ払った。


 しかしこれも当たらない。パンドラが触れることができたのは、宙返り一つで背後に回った天使喰いの白金髪の先だけで、その瞬間、俺は『決死の耐久戦』を覚悟するのである。


「ミフィーラぁ! 構わねえ! 打ってくれ!」

 そう叫び、三本目の魔力強壮剤を投入。

 鼻呼吸のついでに大量の鼻血を垂らし、「がっ――がはっ!! がはっ!!」胃液と一緒に血の塊を吐き出し、それでもなお前を見た。


 主観視点は大して役に立たない。遠景映像だって圧倒的な速度差を痛感するだけだ。


 それでも――それでも俺は前を見る。

 天使喰いに斬られながらもパンドラの拳を振るう。


 遠景映像の中では、分厚い曇天の下、終界の魔獣パンドラが全身から血を吹き出しながら暴れていた。銀の天使喰いが紙一重で拳を避けながら、縦横無尽に獣の肉を切り裂いていた。


 もう秘策はない。


 パンドラ以上の隠し球はない。


 何度斬られようと当たるまで動き続ける。獣らしく最期まであがき続ける。それが、俺とパンドラに残された希望のすべてだった――


「ミフィーラぁ! もう一発だっ!」

 あっという間に魔力を使い果たし、俺はまたミフィーラを呼ぶのだが、「だ、ダメっ! これ以上はフェイルが死んじゃう!」鼻血を噴き、血反吐ちへどまで吐き出した俺を見て、ミフィーラは手にしていた試験管を強く抱きかかえた。首をブンブン横に振って俺の要求を拒絶する。


 直後。

「この状況で何を腑抜けたことを――!」

 俺は初めてミフィーラに手を出した。

 俺に寄り添ってくれていた彼女の胸元に手を伸ばすと、力ずくで試験管をもぎ取ったのだ。


「フェイルやめて! お願いだから!」


 ミフィーラの涙と制止を無視して、注射針付きの試験管を首筋にぶっ刺した。


「俺ぁ召喚術師だ……っ!! 例え心臓が止まろうが、脳みそが破裂しようが、ここで降りるつもりはねえ!!」


 視界の左側が赤く染まっていく。俺の左目がドロリとした血の涙を流す。


 俺は視界を直そうと思って顔の左半分を強くぬぐうのだが、血の涙を顔に塗りたくっただけだった。真っ赤になって見えなくなった左の視界は戻らない。


 それがどうした。だからどうした。


 どうせ天使喰いの動きは俺の動体視力の遙か上だ。俺とパンドラは、全身の肉と臓腑を切り刻まれる激痛に耐えながら、ほとんど闇雲に拳を振り回すしかないのだ。


 一発だ!! 一発当たりゃあいいんだ!! と自分自身に言い聞かせ続けた。


「サーシャと執行者が相手だろうがっ、こっちゃあ神殺しの獣ぉ! ここまで来りゃあ、後は魂勝負だろうがああっ!!」

 血反吐ちへどを飛ばしながらそう吠えて俺自身を奮い立たせ続けた。


 ――――――


 パンドラの旋回式の裏拳が、空中を跳び回っていた天使喰いの両足を巻き込んで砕く。散々斬られまくった末のラッキーパンチにしては悪くない一撃だった。


 両足を一度に失った天使喰いは立ち上がることすらままならず、剣を握り締めたたまま地に転がるのである。


 俺のパンドラ…………青黒い異形の獣はまだ立っている。全身どこが斬られていないかわからないぐらいにズタボロだが、二本の足で大地を踏み締め、天使喰いを見下ろしている。


 最後の最後で形勢逆転だ。


 そして、トドメを刺そうとパンドラを一歩前に進ませた瞬間。

「あ――れ?」

 俺は自分の身体を支える力さえ失ってパンドラの脳みそに顔面から突っ込んだ。当然のごとく細糸電ラインボルトも維持できずに、パンドラもその場にゆっくり片膝を付く。


 着地の際の震動が頭蓋骨内にも響き渡った。


「おいフェイル! 何があったフェイル! 大丈夫か――」

 耳元で聞こえているはずのシリルの声がやけに遠い。


 またも魔力切れだ。


 俺は動かない身体で無理矢理ミフィーラを見るのだが、「ダメっ。もう絶対ダメ!!」俺の命なんぞを守ろうとしたミフィーラに魔力強壮剤の最後の一本を割られてしまう。


 ……地面に飛び散った竜血とガラス片……。


 ………………………………………………。


 だが――――俺はまだ終わっていない。


 俺には、まだ『絞り出せるもの』が残っていた。


 なけなしの力を振り絞って魔術師服の首元に手を突っ込んだ俺は、愛用の首掛け財布を取り出して、中身の貨幣をその場にぶちまけた。


 ヨレヨレの紙幣と薄汚れた銅貨が何枚か。

 そして、死に際の親父から託された金貨と銀貨も。


「ちから――」


 親父の金貨と銀貨を適当に掴み取り、俺自身の口に突っ込む。


「力、を――」 


 死んだ親父のことを強く強く思いながら――金貨銀貨を奥歯で思いっきり噛み締めた。硬い銀貨を噛み切ろうとした。そして天へと首を伸ばしながら死ぬ気で叫んだ。


「ぢがらを貸せぇええええええええええええええええええええええええええええ!!」


 俺が最後に頼ったのは俺自身の魂。

 俺の心臓の奥底でいつまでも燃え続ける強い思いだった。


 その瞬間――――――死んでいるはずのパンドラが、初めて俺の思いに呼応する。


 ゴォアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!!


 脳神経への電撃魔法も無しに雄々しい咆吼を上げたのだ。

 片膝をついたまま俺と同じように天を仰ぎ、間違いなく世界中に轟く咆吼を上げたのだ。


 ――――――――


 壊れた両脚で無理矢理跳んで真上から襲いかかってきていた天使喰い。


 高く掲げられた剣が振り下ろされ。

「パンドラああああああああああああああああああああああああああああああっ!!」

 しかし今、この瞬間だけ、俺とパンドラは天使喰いよりも自由だった。


 パンドラの十枚翼がいきなり開く。

 力無く垂れ下がっていたはずの右腕が、天使喰いの超速度を超えて空へと伸びる。


 ――――――――――――――――!!


 何かを求めるように指を開いた右手が、天使喰いの胸に咲いた銀の薔薇をぶち抜いた。


 パンドラの右手が天使喰いの胸を貫くと同時――――――――――真っ青な大空が現れた。


 天使喰いを貫くだけにとどまらなかった衝撃が、大草原上空どころか、ラダーマーク上空、はては遙か遠くにある山脈上空の重たい雪雲を吹き飛ばしたのだ。


 …………………………………………………………………………………………。


 …………………………………………………………………………………………。


 …………………………………………………………………………………………。


 ひどく眩しい……光溢れる世界で、風に流れて塵に還っていく天使喰い。


 そして次の瞬間、パンドラの巨体が力を失って大草原に再び膝を付いた。

 世界すべてを揺るがしたあの雄叫びが嘘だったかのように、ひどく静かに、ただの巨大な死体に戻っていった。


 するとすぐさまだ。

「フェイル! フェイルっ!! やった――やったぞ! 天使喰いを倒した!」

 シリルが、乗っていた大怪鳥もろとも、パンドラの頭蓋骨内部に飛び込んでくる。


 ミフィーラは「フェイルぅ。フェイル死なないでぇ」なんて泣きじゃくるばかりで。

 ……………………まだ生きてるよ。勝手に殺すな。

 全身全霊を使い尽くしてその場に突っ伏した俺は、ミフィーラの声にそう思うばかりだった。


 やがて、ヨダレまみれになった金貨銀貨を吐き出すと。

「見たかよ、親父……母さん……」

 顔だけを微かに持ち上げて主観視点の映像を見やる。


 映像は草原に着地したパンドラの大きな右手を映しており……開かれたその手のひらの上では、パンドラが天使喰いの胸から奪い取った『中心核』が――サーシャと合体した六枚翼の大天使が、ゆっくり身体を起こそうとしていた。


 太陽の光が降り注ぐ明るい世界を呆然と見回し。

 やがて、生きていることが信じられないとでも言いたげな顔で、パンドラを見上げてくる。


「……俺ぁ……ここで生きて……ちゃんと、救ったぁ……」

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