第19話 召喚術師、神話の理不尽に叫べ

「生きてたかぁルールアぁ!」

 見覚えのある長毛の白竜が俺の頭上を通りがかり、俺は思わず叫んだ。


 すると次の瞬間――白竜が空中で長い身体をくねらせて急停止だ。


 何百もの人間が走って避難する阿鼻叫喚の中で声が届いたとは思わない。

 ルールアの方が、ラダーマーク東の大市場のド真ん中、巨大バッタにまたがって人々を誘導する俺を見つけたのだろう。


「皆さん乗りましたか!? このムカデは決してあなた方に危害は加えません! 安心してください!」


 俺の目の前にいたのは、俺が召喚した全長十メジャールを超える巨大ムカデ。

 その広い背には自力では避難できない老人や病人が二十人ほど乗っていて、心底不安そうな顔、今にも泣き出しそうな顔で巨大バッタの上の俺を見つめていた。


 それで俺は、思い切り歯を見せてニカッと笑いかける。

「セイドラ大聖堂まで最短距離で向かいます! 大聖堂は学院の召喚術師が何人と守護してますから、絶対安全です! それでは良い旅を!」


 まるで滑るように走り出した大ムカデ。


 俺は大きく手を振ってそれを見送ると、すぐさま「走れえええええ!! 死にたくなけりゃあ大聖堂まで走れえええええええええええ!!」市場中の人間を急かすのだった。


 脅すような俺の言葉に文句を言う人間なんていない。

 当然だ。ちょっと北の方を向けば、『銀一色の超々巨大スライム』が今まさに壁を乗り越えようとしているのが見えるのである。


 どろりとした銀色の巨大触手が壁の上に出た瞬間――壁のこちら側を飛翔していたドラゴンの火炎放射が飛ぶ。

 焼き尽くすことはできなかったものの、三千度超の炎を嫌って触手が一度引っ込んだ。


 ――ベルンハルトの馬鹿が宝物アーティファクトを発動させてから、すでに三十分以上――


 六鉄ろくてつの執行者・銀の天使喰いは、動くものを手当たり次第につまみ食いする程度だった銀色の海から銀色の巨大スライムへと性質を変え、能動的に動き始めていた。


 最短距離でラダーマークの街に入るため壁を乗り越えようとするのだが……高位魔法や召喚獣の攻撃の雨あられを喰らって、市街地の幅いっぱいにある壁のどこも抜けられないでいる。


 ドラゴンや雷を纏った風精霊、巨大な火の鳥、はては大剣を手にした大悪魔まで。

 百を超える飛行召喚獣たちが、天使喰いによる侵攻を壁際で食い止めているのだった。


「フェイル・フォナフ! あれが銀の天使喰いって本当!?」


 俺のすぐ頭上まで白竜が下りてきて、その長い首の上からルールア・フォーリカーが顔を覗かせた。彼女のチームメイト二人も一緒だ。


「知らねえよ! 天使喰いだろうが、新種のスライムだろうがやるこたぁ変わらねえ! 飛べるんなら壁んところ行って防いでこい!」

「こっちは試合中に銀の海が流れてきて危うく死ぬところだったのよ!?」

「そりゃあ災難だったな! 文句はベルンハルトのクソ馬鹿に言え!」


 召喚祭の出場者たちだけではない。学院の学生三百余人、全教師が街に出て、三十万の人々を護るために動いている。

 今やラダーマークはどこもかしこも召喚獣だらけだ。

 巨大な獣たちが馬車代わりとなって、人々を各地区の指定避難所まで連れて行くのである。


 学院長と王女サーシャが『三十万人全員をラダーマークの外に逃がすのは不可能』と判断し、交易都市ラダーマークの首長もそれを了承したらしい。


「召喚術師どの! ここは自分たちが受け持ちます!」

 俺とルールアが叫び合っている最中、腰に剣を提げた街の衛兵が三人走ってきた。


 それで俺は「頼みます! ヤバいと思ったら逃げてください!」と言って巨大バッタを跳躍させた。とある肉屋の屋根に一度着地して、そこから更に大跳躍。屋根の上を伝って大市場の入り口を目指す。


 ルールアたちが付いてきた。

「シド王の召喚術師隊が来るまで守れば、こっちの勝ちなんでしょう!?」

「最強集団だからな! あれが太刀打ちできなきゃ、どのみち世界の終わりだ!」

「シリルとミフィーラは!?」

「市場の入り口で落ち合うことになってる! つーか、俺たちのことはいいからそっちも働きやがれ! 駄弁ってる暇があるなら、魔法の一発でも撃ってこい!」


 俺の怒号に「悪かったわね! 怖じ気づいちゃって!」と頬を膨らませたルールア。

「行くわよ! 行きますわよ! 召喚術師だもの!」 

 俺に向かって全身全霊の『あっかんべえ』をかましてから、巨大な白竜を急上昇させる。そして上空で一度咆吼を上げた白竜、凄まじい速度で北の壁に向かっていった。


 ほんの数秒だけルールアを見送った俺はすぐさま“通信魔法・遠声鎖ボイスリンク”を使用する。


 あらかじめ設定した相手との遠隔通話を可能とする魔法だ。こういった災害時は特に重宝し、これが使えなければ魔術師・召喚術師ではないと言われるほどの基本魔法。

 魔法の発動と同時――俺の舌と耳の裏には小さな魔法陣が現れただろう。


「シリル朗報だ。ルールアの奴、ちゃんと生きてたぞ」


 通話先となったシリルの言葉を待つことなく眼下に視線を落とす。

 幅の広い通りを逃げる人々を見下ろし、助けを必要としている人がいないかどうか確認した。そして「あとは衛兵さんに任せりゃあいいか」と呟いた瞬間だ。


 空を見上げてた一人の男と目が合った。


 ――――――


 その瞬間、俺の脳神経はフル回転。


 ポケットだらけの草色の外套に身を包んだ旅人風の男をそのままにはしない。男の頭上を通り過ぎた巨大バッタを急停止させて、男の目の前に降り立った。


 突然の召喚獣に全速力で逃げ出そうとする男。


 巨大バッタの背から飛び降りた俺はそれを走って追いかけ、草色の外套の肩を引っ掴んだ。

 思いっきり抵抗されるのだが、ここでこいつを逃がしたら『手掛かりがなくなる』と、『ラダーマークを救う術を見失う』と、こっちも必死だった。


「どこ行こうってんだよっあんたぁ!」

「やめ――やめてくれぇ!」


 力任せに外套を引っ張って振り回すと、そのまま手近な商店の壁まで連れて行く。硬いレンガの壁に思いっきり叩き付けた。ジタバタさせまいと男の首を右腕で押さえ付けた。


「あの時の酔っ払いだよなぁ! ちょっと話聞かせてくれるかぁ!?」


 はたして、頭に血がのぼった俺はどんな顔をしているのだろう。

 三十そこらに見える男がたかが二十歳の若造に涙目だ。

 おびえきった顔で「わ、私は悪くないんだ! すべて声が! 声が――!」と意味のわからないことをわめき出すのだが、右腕で強く喉を押し込んだら言葉は止まった。


「たわごとに付き合っている暇はねえ! 俺が聞いたことだけ答えやがれ!」


 まるで野党のような所業。しかし今の俺に優しく接してやれる余裕はなく……呼吸困難に耐えかねた男がコクコクとうなずくまで喉を押さえ続けた。 


 左手で北方の壁を指して問う。

「ありゃあ何だ!? いつぞや言っていた銀色ってのはあれのことか!?」


 相変わらず壁の上で見え隠れしている銀色の超巨大触手。男は、それに一度視線を送ってから、ひどく恐れおののいた顔でこう言った。

「終わりの始まりだ。終末の扉を開く者だ。あれはまだ、その身に刻まれた使命と、神の怒りを忘れてはいな――んぐっ」

 しかし言葉の途中で、また俺に喉を潰されてしまう。


「具体的な物体名を言え! 比喩表現なんざ聞いてねえ!」

「――しっ、執行者だ。六鉄ろくてつの執行者。銀の、天使喰い」


 まさかの予想的中。絶望の答え合わせ。その瞬間、俺の怒りと焦りは頂点に達し、空いた左手で男の顔面横の壁を殴り付けた。


「なんで! どうしてラダーマークにあんなもん持ち込みやがったぁ!?」


 すると男はもう俺に逆らえない。うっすら涙を浮かべて俺を見ると、言い逃れや嘘を吐くこともなく、「シドの王女が――サーシャ・シド・ゼウルタニアがいるからだ。銀の天使喰いにそう命じられたんだ」と白状するのである。


 思わぬところで出てきたサーシャの名前。

 まったくわけがわからなかった俺は、より一層顔を歪めて牙を剥いた。


「命令されただあ……っ!?」

「わ、私は――私は、教会所属の研究者だ。神話の跡地を巡って、神々の遺した奇跡を探している」

「教会の学者先生が破滅の運び手たぁ、ずいぶんな世の中じゃねえかっ。教皇の野郎は世界でもぶっ壊すつもりなのかよ!?」

「違う! 話を、私の話を聞いてくれ! ちゃんと全部話すから!」


 はやる気持ちを抑えるために血が滲むほど下唇を噛んだ俺。悪魔のような形相で男の顔を観察し、この男が酔っていないか、まとも精神状態かどうかを見定める。


「ちょっ、ちょうど半年前のことだ。私の所属する研究チームが、“クドの国”にあるミルグラーナ岬の先で『あれ』を発掘したのは……。土の中から取り上げた時はただの銀の塊だったが、一晩のうちに酒杯に形を変えた。それで何らかの宝物アーティファクトとわかって、研究が始まったんだ」


 俺の剣幕に恐怖しているものの、十分な理性が残った顔。

 意味不明な言葉も今日は出てこなかった。


「初めから、銀の天使喰いの残骸じゃないかという予測はあった。ミルグラーナという岬の名前は、現地の古い言葉で『銀被り』を意味する。神話研究者の間ではパンドラと銀の天使喰いが戦ったとされる場所だ」

「ほおぉ……!? それであんたが選ばれたってわけかよ!?」

「そ、そうだ。たまたま――たまたま私が声を聞いたっ」

「天使喰いの声に操られていただけと!? それを俺に信じろと!?」

「信じてくれ。頼む、頼むから――私自身に特別な素質があったわけじゃない。銀の天使喰いにとって、我々人間はすべて、ただの道具なんだ。移動のための!」


「天使喰いは何を言ってやがった!? ありゃあ何が目的で動いている!?」

「完全な復活と破壊の再開だ。パンドラに敗れた銀の天使喰いは、再び立ち上がるため、失った中心核の代わりになれる大天使を必要としている。私の頭にこだましていた声は、『力ある天使を差し出せ』『獣と世界を殺せ』だった」

「それでサーシャかよ!?」

「単純に彼女しか知らなかったんだ、大天使を召喚できる人間なんて」


「つーかっ、なんで世界まで破滅させる必要がある!? パンドラはもういねえ! とっくの昔に最高神に殺された! 執行者なんざ用済みじゃねえのか!?」

「――女神ヤーナだ」

「ヤーナだあ?」

「そうだ。執行者たちの製造にその骸を利用されたという女神。彼女の意思が、憎悪ぞうおが、呪いのように執行者を世界の破壊者たらしめている。本来は対パンドラ用だった執行者の標的に、『世界』を加えた」

「――――っ」


 思わず舌を打った俺。


 愛人だった最高神ゼンに利用された献身の女神ヤーナの無念はわかる。だがそれで世界そのものを恨むのはお門違いが過ぎるというものだ。


 恨むなら性格最低な最高神だけを恨みやがれ。この世界で必死に生きる俺たちまで巻き込むな。

 そう言い放ってやりたかったが、どこぞの神様が聞いてくれるわけもない。


「あんたからベルンハルト・ハドチェックの手に渡った理由は?」

「ベ、ベルンハルト? わからない――それは知らない。ベルンハルトというのが誰か、私はまったく知らない。本当だ」


 そして次の瞬間――男は、親指以外の指を根もとから失った無残な右手を俺に見せてきた。


「私は教会の最重要研究対象を持ち出してしまった。追っ手は一人だけではなかった。もしかしたら、教会が協力を仰いだ中にそういった人物がいたのかも」


 ギョッとはしたが、沸騰した俺の血がこの程度のことで冷めることはない。

 むしろ――指の四本だけで済んで、ずいぶんと優しい追っ手じゃねえか――そう笑い飛ばしてやりたいぐらいだった。

 どうせ、最後まで『銀の酒杯』を手放そうとしなかったから、指ごと持っていかれただけの話だろう。


「ベルンハルトの奴に横流ししたクソ馬鹿がいる……! 探し出してぶっ飛ばしてやりてぇが、今はその時間もねえ……!」


 俺はそう結論付けて、これ以上ベルンハルトのことについては突っ込まない。


 召喚祭用に強力な宝物アーティファクトを求めたベルンハルトがどこかから銀の天使喰いの情報を仕入れ、その横取りを成功させたのだとしても、すべて『今さらの話』だからだ。


 とにかく天使喰いを止める術が知りたい俺は、男にこう強く問うた。

「大天使じゃなくて力の無い天使を喰った場合はどうなる? いつか止まるのか?」


 しかし男は幾らか視線を泳がせた後で細かく首を横に振った。


「駄目だ。きっと今の不完全な形態のまま、大天使を探して動き続ける」

「根拠は?」

「銀の天使喰いにとって天使は動力源ではない。『液状の身体を固定させる楔』なんだ。執拗に大天使を求めるのも、パンドラを殺せる身体の構築が最優先だからだ。銀の天使喰いと旅した間、私がいつも見ていた幻想ビジョン……おそらく銀の天使喰い自身の記憶……七体もの天使喰いがパンドラの前に立ち、獣を傷付けることができたのは二体だけだった」


 銀の天使喰いが複数体いたという新情報。

 それをあえて聞き流した俺は、同期生への怒りを歯ぎしりへと変える。


「操られてなお、功を焦るたぁ……さすがはベルンハルト。その辺の天使で楽に済ませやがって……!」


 すると壁に押さえ付けられたままの男が、銀色の巨大触手が揺れる北の壁を眺めて呟いた。


「……あれほど不定形の天使喰いは、私の見た幻想ビジョンにもいなかった。銀の天使喰いにとっても望んだ形ではないはずだ」


 慌てふためき続ける俺が馬鹿らしく思えるぐらい静かな声だった。

 それで俺はようやく男の首から右腕を外し、真正面から向き合って言う。


「頼む、教えてくれ。俺たち召喚術師の力で倒すにゃあどうしたらいい?」


 男は首を横に振ってから俺の顔を見た。


「わからない」

幻想ビジョンとやらで見てねえのか? 昔は七体も天使喰いがいたんだろう? パンドラはその時、どうやって倒した?」

「単純な力業――中心核となった天使を拳で砕いたんだ。……あそこにいるのは、パンドラが倒した銀の天使喰いとは形も性質も違いすぎる。同じやり方が通用すると思えない」


 それから男は不意に俺の背後へと視線をやり、「……サーシャ姫……」とすぐに目を伏せた。


「サーシャ――?」

 目の前の男に集中するあまり周囲の変化に気付いていなかった俺。即座に振り向いた先にいたのは、剣虎王ザイルーガにまたがったシリルとミフィーラ、そしてサーシャの三人だった。


 俺の巨大バッタを通りに見つけてここに降り立ったのだろう。


「どこから聞いてた?」

 俺は事情を説明するのではなく、そう聞いた。答えてくれたのはシリルだ。


「今到着したばかりだよ。だけど、すべて知っている」

「は?」

「フェイル。お前、叫びすぎだ。耳が壊れたかと思ったぞ」


 ザイルーガから下りるなりそう言って舌を出すシリル。彼の舌には通信魔法・遠声鎖ボイスリンクの魔法陣が浮かんでおり……俺はそこで初めて通信魔法を発動させっぱなしだったことに気付くのだ。


「悪い。消してなかった」


 しかしシリルは文句らしい文句も言わず、「別にいいさ。僕ら三人、フェイルから話を聞く手間が省けた」ミフィーラとサーシャが巨大虎を下りるのを手伝った。


 どうしてサーシャがザイルーガに同乗しているのか、俺は何も知らない。


 銀の天使喰いに対抗する術でも見つかったのか、そう思ってサーシャに歩み寄ろうとした瞬間だ。


 ――――――――――――――――――――――――――――――――――――


 俺の…………いや、俺だけではない。


 この場にいる全員の頭上に、突如として『夜』が出現したのである。


「ふっ、ふざけんなぁあああああああああああああああああああああああ――!!」


 何事かと空を見上げれば、空が無かった。


 小雪チラつく曇天の代わりにそこにあったのは、冬とはいえ真昼の太陽光を完全に遮断した『なめらかな平面』で――――今の今まで北の壁を守り抜いてきた数多の飛行召喚獣たちもすべて、平面の下側に追いやられている。


 銀の天使喰いだ。


 飛行召喚獣や召喚術師に迎撃されるたび触手を引っ込めていた天使喰いが、いよいよなりふり構わず出てきたのだ。

 壁の向こう側にあった膨大な量の身体すべてで、思い切り壁を乗り越えてきたのだ。


 ドラゴンたちの全力の火炎放射が空気を焼く。


 召喚術師たちのやけっぱちの大魔法が盛大に光る。


 しかし、空いっぱいに広がった天使喰いが動じることは――もうなかった。俺たち人類側の攻撃のすべてを平然と受け止め、一切止まらない。


 ―――――――――――――――――――――――― 


 今まさに、交易都市ラダーマークに覆い被さろうとしている


「…………待て…………ちょっと、待ってくれ……」


 俺はそう呟くしかなく……あとは最後、街に雪崩れ込むだけとなった絶望の空模様に呼吸を忘れるのだった。尋常じゃない無力感に腰が抜けそうになった。


 もう何も間に合わない。

 どんな勇者だろうが英雄にはなり得ない。


 沢山の人が死ぬだろう。

 避難所で身を寄せ合っている老若男女も、年老いた父母を背負って走る善人も、この状況で盗みを働こうという悪人も、最後の最後まで自分の持ち場を離れなかった優秀な衛兵も、俺が世話になった親方やイリーシャさんも、人智を超えた力を有するはずの俺たち召喚術師も……みんな銀の天使喰いに呑まれて死んでしまう。


 ――――――――――――――――――――――――――――――――――――


 ゆっくり落ちてくる空。


 せめて最後の光景は見届けて終わらないと気が済まず、俺は意地でも目蓋を下ろさなかった。


 だからこそ――――――温かい光を間近で見た。


「サーシャ?」


 俺の眼前にあったサーシャの身体が光に包まれたのと同時、女神のごとき崇高な美しさを持つ六枚翼の大天使が広い通りに立ち上がる。


 この辺りにある建物を優に超える身長。天使喰いの大移動が巻き起こした強風になびく金髪。


 俺は大天使の足下からその顔を見上げ。

「……待てサーシャ……お前、まさか――」

 人間の何倍もある右手がしとやかな仕草で仮面を外すのを見た。


 そして、仮面の下に現れた――サーシャ・シド・ゼウルタニアの美貌。学院一どこか、シドの国一番と言っても過言ではない美少女の顔だった。


 ――召喚術師と召喚獣が一つになる『背中合わせ』――


 きっと、今のサーシャと大天使ならば悪しき神すらも仕留められる。学院が保有する最美最高の召喚獣、交易都市ラダーマーク最後の希望がそこにいた。


「フェイル・フォナフ」


 サーシャの紫色の瞳が俺を見下ろし、サーシャの唇が俺の名前を呼んだ。


「パンドラを召喚したのがあなたで、本当に良かった」


 全滅の何十秒か前という最低最悪の状況に似つかわしくない優しい眼差し、ひどく落ち着いた声は、俺の心から恐怖を取り去り。

「待てよサーシャ。まだだ。俺たちはまだ、終わっちゃいねえ。何か手はあるはずだ。だから行くな――」

 代わりに怒りの種を植え付ける。


 やがてサーシャが光り輝く六枚翼を羽ばたかせ、ふわりと空中に浮いた。


 その間も美しい彼女はちっぽけな俺を見つめ続け。

「あとのことは頼みます」

 最後の最後、小さく笑ってこう言った。


「この街を、私たちの世界を、守ってください――」


 次の瞬間、流星がごとく一直線に空へと飛び上がり、銀の天使喰いの巨体に大穴を開ける。


「クソ馬鹿があああああああああああああああああああああああああああああっ!!」

 俺の叫びなんて届きようがない速さ、距離。


 ぶち抜かれた天使喰いの大穴から本物の空が見えた。

 大穴の中心では――六枚翼を大きく広げたサーシャが白く燃え盛る剣を掲げ、大穴外周から大量に伸びてくる銀色触手を迎え撃つ。


 サーシャの切り払いに合わせて巨大な触手の二、三本がまとめて消滅した。


 とはいえラダーマーク上空をほとんど覆い尽くした天使喰い。サーシャの剣に触手を燃やされるたび、その身を新たな触手に変えて苛烈に襲いかかった。


 五本消されれば、十の触手がうねり。


 十本消されれば、五十の触手が飛び。


 百本消されれば、三百の触手が諦めない。


 待ち焦がれた大天使がそこにいるのだ。銀の天使喰いとて必死なのだろう。


 物量の差はすぐさま現れ。

「やめろぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!!」

 俺の再度の叫びもむなしく、隙を突かれたサーシャが銀色の触手に捕らわれる。


 四肢を封じられ――――そこに更なる触手が容赦なく群がった。大蜘蛛に捕まった非力な蝶のように、ほとんど何の抵抗もできずに、あっという間に呑み込まれる。


 その瞬間。

『この街を、私たちの世界を、守ってください』

 サーシャの声が俺の耳に蘇り、俺は「上等だぁ。やってやるよ――」と魔術師服の懐から『召喚の詩集』を取り出すのだ。勢いよくページを開いた。


 そして、シリルには肩に手を置かれながら、ミフィーラには脇腹に抱き付かれながら、終界の魔獣パンドラの召喚呪文を力強く唱え始めた。


「絶望に抗うための獣っ! 昏き海より上がりて、空へ向かうための翼ぁっ!」


 三人して全身全霊で空を睨み付ける。


「終わりし世界より託された願いは獣を救い! 暁の氷に慟哭が響く!」


 そこでは銀の天使喰いが創り出した『夜』が終わり、縦横に広がった銀色がすべて一所ひとところに収束していた。風を超えるような速度で、だ。

 取り込まれたサーシャ――六枚翼の大天使を中心に、すぐさま巨大な人型が形作られる。


「喪失の果てで手にした明日に泣くことなかれ! 焼け跡で咲いた花に微笑みたまえ!」


 身長三百メジャールに届こうかという銀色の全裸天使。

 姿形を変えて曇天から降りてくる天使喰いは、そう表現するのが最も適当だろう。


「獣は夜に一人! 崩れ落ちる砂に旋律!」


 そいつは…………俺が今から召喚しようという神殺しの魔獣と違い、『ぶっ殺してやりたくなるぐらい神々しい姿』だった。


「今っ! 慈悲深き汝に! 祈りを受け取った獣に! 遠き旅立ちの時が来たり――!!」

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