第16話 召喚術師、昏き夜に天使を見る

 十二月の夜風が顔を濡らした汗を乾かしていく。


 俺は高くそびえ立った『岩山』の頂上であぐらをかいて、半ば放心状態だった。北西から雪雲を運んできた強風が外套の背中をバタつかせたとて、前ボタンを閉めもしない。

 たった一人、月の隠された夜空を見上げている。


「はあ~……」

 熱のこもったため息。ついさっきまで魔法を使い続けていたからだ。


 正直、もうほとんど魔力は残っていない。強い疲労感に指先一つ動かすのも億劫なのである。


 それでも――気分だけは最高。

 身体さえ楽に動くならば、拳を掲げて叫びたいぐらいの昂ぶりだった。


 達成感……それとも安堵だろうか。


 冷たく、乾燥し、孤立した夜に囲まれていながら、俺の心は温かいもので満たされていた。今はもう――わずかな焦燥も、苛立ちも、他者への羨望のような感情すらなかった。

 ただひたすらに「……間に合ったぁ……」なんてしみじみ思うばかりだ。


 そうだ。

 召喚祭を明日に控え、『俺たち』はちゃんと間に合ったのである。間に合わせたのである。


 ようやく……パンドラの巨大な死体を、俺自身の意志である程度動かせるようになった。


 ふと夜の空気に自嘲を吐き出した俺。

「……馬鹿めが……そんな簡単に行くわけねえだろう……」


 魔術書トルエノックシオンから電撃魔法・細糸電ラインボルトを会得しても、それで終わりというわけではない。


 立ち上がってからのバランスの取り方。

 歩く時、どういった順番でどこに力を入れるかの理解。

 パンドラの眼となってくれるシリルの飛行召喚獣との連携。


 やるべきことは色々あって、一つ先に進むたびにその都度新しい問題が発生し――細糸電ラインボルトさえ使えるようになれば準備万端と思っていた俺たちは心底焦ったのである。


 この一週間は本当に記憶が薄い。

 パンドラの死体を動かすため、次から次へと忙しすぎたせいだ。


 最初はパンドラの存在を秘匿しようと無人の大荒野に飛んでいた俺たちも、移動時間が惜しくて、交易都市ラダーマーク近くの山地で夜に活動するようになった。


 ……バイトの方は、親方に頼み込んで休ませてもらっている……。

 そのせいでただでさえ軽い財布が更に軽くなり、明日の飯代にも困るぐらいスッカラカンだ。間に合っていなかったら目も当てられなかった。


 ――――――――――――――――――――――――――――――――――


 風は吹き続けている。

 俺は山のてっぺんに一人で座り続けている。


 シリルとミフィーラには先に学生寮に戻ってもらった。

 月が見えないため今が何時か見当もつかないが、夜もだいぶ深まっているだろう。

 夜風に当たってぼんやりしたかった俺に付き合う必要などない。俺は魔力の回復を待って、その後、巨大バッタの召喚で帰るつもりだ。


「……ええと……」

 真っ暗闇の中で懐を探り、小振りの革張り本――『召喚の詩集』を取り出した。


 ほとんど何も見えないのにページを開くと…………人差し指で羊皮紙の上を適当になぞる。

 魔力を込めずに暗唱し始めたのは終界の魔獣・パンドラの召喚呪文だ。


「……絶望に抗うための獣……昏き海より上がりて、空へ向かうための翼……終わりし世界より託された願いは獣を救い、暁の氷に慟哭が響く……」


 詳しい意味はわからないが、耳にすればするほどに優しい印象を覚える召喚呪文。


「……喪失の果てで手にした明日に泣くことなかれ……焼け跡で咲いた花に微笑みたまえ……」


 神々を殺しまくった魔獣に似つかわしくないこの召喚呪文を、俺は気に入っていた。


「……獣は夜に一人……崩れ落ちる星に旋律………………今、慈悲深き汝に、祈りを受け取った獣に、遠き旅立ちの時が来たり……」


 目蓋を下ろしてふと考える。

 ……俺のパンドラが……こんなにも優しい呪文で喚び出せるパンドラが……“神の時代”を終わらせる戦争を引き起こしただなんて、はたして真実なのだろうか……?


「綺麗な詩ですね」

 その時突然、頭上から美しい声。


 俺は首を回さなかった。聞き覚えのある声に今さら驚いて、慌てふためくこともなかった。


 やがてゆっくり視線を持ち上げれば。

「それが、あなたの『片割れ』を喚ぶ詩ですか?」

 見上げた先の虚空に、白金髪を舞い踊らせたサーシャがいる。ぼんやりと光る大天使、その手のひらの上に立って俺を見下ろしていた。


 ワンピース型の寝間着に毛皮のコートを羽織っただけの格好。いかにも慌てて学生寮を飛び出してきたという感じで、強い夜風が吹けば綺麗な脚がちらりと見えるのだった。


「よおサーシャ」

 俺がそう声を出せば、「こんばんは、フェイル・フォナフ」と挨拶が返ってきた。


「今日は良い夜だな」

「そうですか? 月は出てないですし、雪まで降りそうですが」

「綺麗な姫様と大天使が間近で見れた。俺にとっちゃあ、月よりよほど眼福だ」

「……あの。もしかして誘っています?」

「何言ってやがる」

「まあ、それはいいとして――大丈夫なのですか? だいぶ疲れているように見えます」

「さっきまで必死こいて特訓してたからな」

「こんな山の中、一人でですか?」

「一人じゃねえ。明日は召喚祭だし、シリルとミフィーラにゃあ先帰ってもらったんだよ。俺は好きでぼうっとしてるだけ。魔力が回復したらさっさと帰るさ」


 ちらりと視界を動かすと……大人の男十人分の巨体を誇る大天使の大きな顔がある。素顔を隠した銀の仮面、露出度の高い鎧。


 俺は、どうにかして彼女の素顔を覗けないかと首を傾げるが――その瞬間、大天使はそっと顎を引いた。そう簡単には見せてくれないらしい。


 深い闇の中、天使の白肌が優しい光を放っていた。朧月のような薄い光だ。


「サーシャこそどうした? そんな、夜の散歩みてぇな格好で敵情視察ってわけでもねえだろう?」


 大天使の光は俺が座った『岩山』の表面を照らしているだろう。


 とはいえその岩山も今は土砂を被り、凹凸の少ない表面、異質な青黒さを隠している。


「……学院に街の人々が押しかけています」

「はあ?」


 こんな月も星も隠れた暗い夜だ。最初から疑念を抱いて見なければ、俺の下にある岩山が『その実、隆起した大地ではない』とはそうそう気付かない。実際サーシャもまだ気付いていない。


 俺が――上半分を消し飛ばした山に腰掛けた、パンドラの頭上にいる――とは。


「山の方から妙な音がすると騒ぎになっています。音はここ何日か聞こえていたけれど、今日は特にひどい。恐ろしくて眠れない。何が起きているか学院で調べてくれないか――と」

「あちゃあ……そりゃあ、すまねえ……」


 サーシャにそう言われ、俺は素直に謝るしかなかった。


「特訓とやらの音がラダーマークまで届いたのですか?」

「だろうな。これだけ離れりゃあと高をくくってたんだが、見込みが甘かったらしい」

「……こんな山の中で何をしていたのです?」

「……相棒のことで、ちょっとな」

「ちょっと? 学院からここまで、セシリアの翼で五分かかるのですよ?」

「五分か。俺のバッタなら三十分以上だな」

「茶化さないでください。竜の咆吼ならばラダーマークまで届くでしょう。……しかし街の人々が聞いたのは、巨人が歩くような重い音――そして今夜は、火山まで噴火したと言うではありませんか。ラダーマークの周りに火山なんてありません。いったい彼らは何を聞いたと言うのです?」

「悪かったよ。悪かった。全部の俺のせいだ」

「答えなさいフェイル・フォナフ」

「それ、は――なぁ」


 怒気と疑心を理性で抑え込んでいるようなサーシャの落ち着いた声。


 しかしこの期に及んで俺は、何か言い訳できないものかと思考を巡らせるのだった。サーシャがパンドラの存在に気付いていないならば黙っておきたいという一心。すぐさま――『片割れ』の能力で俺の電撃魔法を強化したんだ。その時の雷鳴が街まで届いたんだろう――それっぽい言い訳を思い付いたが、なぜだか言葉にはならなかった。


 結局、俺の口から漏れたのは。

「ちくしょう。どうすりゃあいい」

 そんな葛藤の呟き。


 どうやら俺は、目の前の少女に嘘をつきたくないらしい。二十年間の人生で形作られた道徳心という奴が、サーシャに嘘をついてまでこの場を切り抜けたくないと首を振るのだった。


 どうして学院の教師じゃなくて“シドの国”の第三王女が来た?

 どうして寝巻きに上着を羽織っただけの格好で、こんな深夜、こんな山の中に?


 ……そんなの、きっと……このままの格好で民衆の前に出て、『自分と大天使が見てくるから安心して欲しい』とでも言ったからだろう。


 サーシャは自らが果たすべき責任を知っている。そういうことを平気でしてしまうお姫様だ。


「シリルたちと一緒に帰ってりゃあな」


 己の馬鹿さ加減を呪いつつ、のそのそ立ち上がった俺。足下の土を軽く蹴って『吹き飛ばした山の一部を頭から被ったパンドラ』をほんの少しだけ露出させる。


 誰かに迷惑をかけたいわけじゃなかった。俺はただ、戦術的にパンドラのことは知られたくないくせに、サーシャを騙したくもないだけなのだ。


 それなのに、魔獣パンドラは、今ここに確かに存在している。隠すには大きすぎるし、召喚を解いて送還するにはあまりにも手遅れだった。


 手練手管、権謀術数を尽くしてサーシャをこっぴどく騙くらかさなければ、すぐさま見破られてしまうだろう。頭に浮かんでいる何十もの嘘や言い訳、それらすべてを自信たっぷりに並べ立てて、ギリギリ煙に巻けるかどうかの賭けといったところ。


 何気なく顔を上げたら。

「お――」

 こちらへと腕を伸ばしていた大天使。


 サーシャがそうとは知らずにパンドラの頭に降り立とうとしているではないか。俺が立つ岩山の奇妙な形状に一瞬顔色を変えたが、大天使の肌が放つ光だけでは真実まで届かない。

 着地するなりいきなり距離を詰めてきた。


 俺は「な、なんだよ……?」と一歩後ずさりしそうになるが、サーシャに右手を取られて身動きが取れなくなる。

 どれだけの速度で夜空を突っ切ってきたかわからない、ひどく冷たい手だった。


 そして俺が動きを止めたその瞬間――サーシャの指先が汗にまみれた俺の髪を撫で回した。以前、俺がサーシャの頭を撫でた時の意趣返しがごとくに、少し荒っぽく。


「心配しました。セシリアの感覚を通して人の気配を探すのも、意外と手間なんですよ?」


 俺はサーシャの手を軽く払いのけながら「普通、俺たちが原因だなんてわからねえだろうに」と、小さく苦笑いするのである。


「異常事態なのですから、臨時に点呼を取るのは当然です」

「なるほど。それで寮にいねえってことが」

「無断外出の処罰は寮監にすべて任せてあります。後日しっかり怒られなさい」

「……本当に悪かったな」

「様子を見に出た私が戻れば、街は落ち着くでしょう。ただ、それなりに理由は必要です」

「……だろうな」

「それでフェイル・フォナフ――あなたたち三人、何をしていたのです? 嘘をつくにしろ、事実をそのまま告げるにしろ、それを行う私だけは真実を知らないといけません」


 まるで子供に道理を説く母親みたいな口調。思わずハッとしたのは、死んだ母さんの声がほんの一瞬耳の奥に蘇ったからだ。サーシャの言葉に重なって聞こえた。


「は、あ――」

 雪雲に覆われた空を見上げた俺は深いため息。


 いくら俺がサーシャに心を動かされたとて、ここまで一緒にやってきたシリルとミフィーラを裏切れるわけがない。盛大に嘘をつくかと覚悟を決めたその時だ。


 月が見えた。


 空を覆っていた雲の切れ間から月が顔を覗かせたのだ。音も無く降り注いだ月光が、十二月の冴えた夜を照らし出していった。


 闇に包まれていた山並みが次々と現れる。


 俺たちは川に浸食された山奥の渓谷――切り立った岩の連峰を見下ろす場所にいるのだが、俺とサーシャの立った岩山だけが特別複雑な形をしていた。


 言うなれば……とてつもない大きさの魔人が、渓谷そのものに腰掛けているような……。


 周囲の地形と見比べた時に生じるあからさまな差異。

 当然の違和感。

 その巨大な岩山は、渓谷を形成する山の一つとして存在してはいけないものだった。


「……お月さんにまで見られちまうたぁな……」

 俺はそう呟いてから首筋を掻く。ここまでか、と観念する。


 せっかく嘘と言い訳でこの場を乗り切ろうと決意したってのに、明るくなってしまったらさすがに隠し通すことなんてできない。サーシャ相手にそんな無理筋が通るわけがない。


 ただの偶然か。

 それとも、正義と真実を司る神とやらが俺の不実を許さなかったのか。

 どちらにしろ開き直るしか道が残されていないのだった。


「いいぜサーシャ。見せびらかしてやるから、しっかり見てってくれ」


 月光にうながされてパンドラの存在をサーシャに告げることになった俺がそう言い終えるまでもなく、「待って――待ってください……っ。なんですか、これ――っ!?」と声が漏れる。


 月の光の広がりに応じて辺りの景色を見回したサーシャ。


 俺は足下の土をもう一度蹴っ飛ばし、少し大袈裟に地面を一度踏みつけた。


「これが俺の『片割れ』だ」


 ハッとしたサーシャが俺の顔を見た。ちょうど目が合った。


「終界の魔獣、パンドラ。ちょっと引くだろ?」


 驚愕と恐怖に固まったサーシャ・シド・ゼウルタニアの顔など今まで見たことがなく……無敵の女召喚術師の狼狽に、俺は笑うしかなかった。とても珍しいものを見たと思った。


 それで、ついつい気持ちが昂ぶってしまう。自分自身の行動すら制御できないほどにひどく興奮してしまう。


「今は、まあ、死んでて動かねぇんだがな」


 ほとんど反射的にそう声をつくった直後――あっ。まず――と思って、真っ青になった。

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