第13話 召喚術師、呪いを受けている
学生寮三階の東端――シリルの部屋の木製ドアをこんなにも憂鬱に思ったことはなかった。
課題の相談や学位戦の作戦会議の時は、何も考えずにノックできる。大切に使い古された扉の木目、ニスの艶感を美しいと思うことさえあった。
「……はあ……」
しかし今夜の俺は、シリルの部屋の前でため息を吐くばかりだ。
もうすぐ日を跨ぐという時間。これでも今日のバイトは早く終わった方だ。
いや、終わったというより、親方に『フェイル今日はもう上がれ。何があったかは知らねえが、しけた面しやがって。とっとと帰って、とっとと寝ろ』なんて帰らされたのである。
寮に戻った俺はさっきから何度もシリルの部屋をノックしようとして――その度思い切ることができずに、結局十分以上、扉の前に立ち尽くしている。
――ガチャッ。
俺がドアノブを引いたわけじゃないのに、勝手に部屋の扉が開いた。蝋燭ランタンの優しい光と共に寝巻き姿のシリルが顔を出す。
「こんな夜更けに何の用だフェイル。用があるなら早く呼んでくれ」
怪訝そうに眉をひそめても決して崩れることのない美形を直視することができず、俺は視線を落として苦笑した。
「起きてたのかよ……」
「起きたんだ。いつまでも部屋の外にフェイルの気配があるから、何事かと思うさ」
「さすがは英雄の家系。そういうとこもしっかり鍛えてんだな」
「やめろフェイル。僕を茶化したくて部屋に来たわけじゃないだろう?」
「…………まあ、なんつーか……話が、あってな……」
俺が言葉に詰まりながらそう言うと――――シリルは何も言わずに扉の隙間を広げてくれる。『眠いから明日にしてくれ』とか言われると思っていた俺はホッとしつつ、しかし気持ちの半分は憂鬱に沈むのである。
「すまないな。今日は全然片付いていない」
「どこがだよ。これで片付いてないなら、俺の部屋なんかゴミ捨て場だ」
「勉強に使ったメモの上で寝るからだろう。いいかげん机ぐらい買った方がいい」
シリルの部屋に入ると、学生寮らしく狭いながらも、恐縮するほど質の高い部屋だった。
ベッドにしろ、机にしろ、大きな本棚にしろ、カーテンにしろ、絨毯にしろ、そこらの庶民では一生手が出せないぐらいの高級品が並ぶ。
見た目豪華というわけではない。確かな技術を持った職人が丁寧に造り込み、手入れを怠らないオーナーによって使い込まれた家具の数々……品位を備えた貴族だけが手にできる、とびっきりのアンティークだ。
「椅子を使ってくれ」
机の上に蝋燭ランタンを置いたシリル。自分はベッドに腰掛けて、「どうした? そんな、怒られたような顔をして」部屋に入ったきり入り口から動かない俺を静かに見るのである。十一月後半の冷気が気になったのか、枕元に畳んであった厚手のカーディガンを羽織った。
「椅子を使ってくれ」
シリルにもう一度促され、「ああ……」俺はようやく足を出す。マクミール材の黒茶色が美しい机の近くまで歩き、しかし椅子には座らなかった。
俺の方からシリルに話しかけようと何度か試みて、「――――くっそ……」いつまで経っても言葉が出てこないことに下唇を噛むのである。
……………………。
午前零時前。シリルの部屋には、ぼんやりした蝋燭の光と夜の静けさしかなかった。
シリルは俺に言葉を求めない。
毛布の形が崩れたベッドに腰掛けたまま、優しい眼差しと共に辛抱強く待ってくれている。
それから――無為な時間をどれだけ盛大に消費した頃だろうか。俺は、半死半生の人間が絞り出したうめきのように言うのである。
「………………………………金を……貸して、くれないか……」
シリルは何も言わなかった。
わかったとも駄目だとも言わず、先ほど変わらない視線で突っ立った俺を見続ける。
これまでの俺の様子で、大体の察しはついていたのかもしれない。俺が金のことを言い出す
こと。金に関するあれこれを避け続けてきた俺が、借金なんぞに手を出そうとしている理由も。
やがて。
「トルエノックシオンか?」
シリルの落ち着いた声が室内にゆっくり広がり、あらゆる物体の内部に染み入り、蝋燭ランタンの中の明かりを揺らしたように思えた。
俺はかすかにうなずいて言う。
「……見つけたんだ……タイル通りにある古本屋で。……でも……俺が思ってたのより、だいぶ――
嫌だった。心臓がバクバク鳴っていた。ひどい言い訳をしているようで。
「九十万ガントだ。九十万。召喚祭のことを考えりゃあ、今すぐに買って覚えなきゃならねえのに――とても今すぐ用意できる額じゃねえ。手持ちの魔術書、教科書、丸ごと売ったって、とても足りねえ」
心の底から信頼しているチームメイト――親友と断言してもいいシリル・オジュロックに、金を貸して欲しい理由を説明する。
「店の親父にさ、レンタルできないか聞いてみたんだ。でも九十万なんて高額魔術書、冗談やめてくれって言われてよ。だから――シリルに、貸してもらいたくて」
それはまるで悪夢の出来事のようで……できることならシリルの部屋に到着する直前まで時間を巻き戻したいと思った。
こんな最低な思いをするぐらいならば、トルエノックシオンのことなんか知りたくなかった。俺は知るべきではなかった。俺は――
――最低だ、俺は――
俺に金づると思われたシリルだけじゃない。これまで必死に『無借金』を貫き通してきた昨日までの俺自身すら、俺は裏切ってしまったのである。
着ていた魔術師服の胸元を自分で握り締め、大袈裟に息を吸い、大袈裟に息を吐く。そうしないと呼吸できないと思った。
シリルは勝手に自滅していく俺をまっすぐに見つめ続け、疲弊した俺の喉がこれ以上の言葉をつくることができなくなった後。
「フェイルはそれで良いのか? 本当に」
すべてを見透かしたような顔と声でそう言った。
それはきっとシリルの優しさだろう。わざわざ俺の顔から視線を落として、何の面白みもない床の絨毯を眺めながら、淡々と言葉を続けるのだ。
「僕は別に構わない。必要なら、僕が受け継ぐオジュロック家の金融資産――三千億ガント、そのすべてを貸したっていい」
――三千億――
「フェイルなら絶対に僕を裏切らないと信じているからだ。フェイルと知り合ってまだ一年と経っていないが……そう思わせてくれるだけのことを、お前はしてきた」
馬鹿な。何をトンチンカンなことを言ってやがる。
俺は、俺の都合でシリルやミフィーラを散々振り回してきた。学位戦じゃあ無茶な作戦にも付き合ってもらったし、パンドラのことじゃあ毎週末の休日を潰させた。毎日の講義の課題だって、三人で研鑽を重ねなかったら今の成績はなかったはずだ。
「僕の方は何だってやってやれるんだ。九十万全部おごってもいいし。フェイルが気兼ねしないで済むと言うなら、利息を取って九十万貸したっていい。……借金なんて誰でもやってる。教会だって、聖堂を建て替えるなら借金ぐらいするだろう」
入学式直後の歓迎パーティーで、ミフィーラに声をかけられたことで生まれた凸凹チーム。今までたいした問題もなくやってこられたのは、シリルの忍耐あってのことだろう。
「結局……お前が、お前自身を許してやれるかだよ。フェイル」
そして、シリルが、十六歳とは思えない眼差しで再び俺の顔を見た。
「僕からすれば実に馬鹿げた流儀を曲げられるか」
それで俺は、この場から逃げ出したい気持ちをこらえつつ、目の前のシリルではなく――俺自身と向き合ってみる。
…………親父…………。
村の魔術師で一家の稼ぎ頭だった母さんが死んで、『俺の勉強で使う大量の魔術書を買うため』に貧乏になった後も、文句一つ言わずに畑で泥にまみれ続けた親父。
俺は――あの人の変な生真面目さが好きだった。
真夜中、食卓で一人、家計簿をつける後ろ姿が好きだった。
『今日な、教会さんにフェイルのことを誉められたよ。村始まって以来の天才だって。あとは父さんの方が、フェイルの足を引っ張らないようにしないとな』
『うちみたいな貧乏が施しを受けてみろ。すぐに村中の噂になる。召喚術師の学校に選ばれるには、家庭環境も大切なんだろう? うちは貧乏だが、借金のないことだけは自慢なんだ』
『働きたい? 馬鹿野郎。金は父さんが稼ぐから、フェイルは勉強しろ。母さん言ってたぞ、召喚術師の才能があるのは、本当に凄いことだって』
『学校の入学金は心配するな。大丈夫だ。父さんな、ちょっとずつ貯めてたんだよ。次の収穫があればきっと――』
貧乏を恨む度、金のことを考える度に、親父のことを思い出すのだった。
「…………………………………………今さら曲げられねえ……」
シリルが呆れたように深く息を吐いた。
「ならば金は貸せない。こんなことでフェイルに恨まれたくはないからな」
口調は穏やかだが、綺麗に整った眉の間にはしわが寄っている。
当然だ。寝ているところをわざわざ起こされ、何があったかと思えば、最高に煮え切らない俺の相手をさせられているだけ。俺でもふざけんなと思う。
「召喚祭にトルエノックシオンが必要なら、さっさと買ってしまえばいいだろう。貧乏貧乏と言うわりに、完全な金無しってわけじゃないのだから」
そして俺の胸を指差したシリル。
「いつか言っていたな。死んだ父親が入学金を遺してくれたが、使う気になれなくて、自分で働いて三百万を貯めたと。だから二十歳まで学院に入れなかった、と」
「……………………………………」
「なあ、フェイル。余計なお世話だろうが、お前が後生大事に首から提げている財布――その中に、父親がお前に遺してくれた金があるんじゃないのか?」
図星だった。俺の首掛け財布には、『親父に遺された金貨二枚と銀貨十枚』が入っていた。
シリルが盗るわけなんてないのに俺は反射的に身構えるのだ。まるで首掛け財布を守るように、左足を引いて半身をつくる。魔術師服の上から財布の感触を確かめた。
「これは――この金は、使うとかじゃねえんだよ……」
「ならば召喚祭はパンドラ無しで行くしかないな。まあ、パンドラが無くても、できることは何かあるだろう」
「パンドラ無しでサーシャの大天使に勝てるかよ。この間、散々策を弄して、あのザマだったんだぞ」
「……なら、僕から金を借りてくれるのか?」
「――それは、だな……」
「……ミフィーラの薬もある。無理して五、六本使えば、
「ふざけんな。普通に死ぬ。今は馬鹿言ってる場合じゃ――」
俺はそれ以上言葉を続けることができなかった。
獣のような速度で襲いかかってきたシリルに顔面を鷲掴みにされ、「が――っ!?」そのまま背後の本棚に押し付けられたからだ。
「馬鹿だと!? 馬鹿はどっちだ!」
今が深夜であることを忘れたシリルの怒号。
盛大な衝撃に本棚の魔術書や小説がバラバラこぼれ落ちた。
「フェイルっ!! お前いったい何がしたいんだ!? 僕に何をして欲しい!?」
俺とシリルじゃあ身体能力に差がありすぎる。頭蓋骨を締め付けてくる右手を即座に剥がそうとしても力が足りなかった。
「金は借りたくない! 親が遺した金も使えない! 恵んで欲しくもない! いったいどうしろって言う!?」
指の間から見えたシリルの顔――目が開き、鼻筋にしわが寄り、左右の犬歯までが剥き出しになった本気の怒り顔。
「フェイル! お前は金に臆病すぎだ! 金は金だ! たかが金だ!」
しかしそう怒鳴られて黙っていなかった俺。「たかがじゃねえ!」顔を掴まれたまま、本棚に押し付けられたまま叫び返す。シリルの右手首を握った両手に全力を込めた。
「たかが金で人が死ぬ! 人がっ――死ぬんだよ!」
顔面からシリルの右手を引き剥がして投げると、「はあ――はあ――っ」呼吸が荒い。
対してシリルは、「……………………」怒気を立ちのぼらせながら静かに俺を睨んでいた。
もはや金の貸し借りがどうのこうのという雰囲気ではない。シリルの激怒に釣られて興奮しつつも俺は、息が詰まるほど申し訳ないと思うのである。
俺の意固地、どうしようもなさが、優しいシリルを怒らせた。
やがて……シリルが、人喰い虎がごとき目付きのまま俺に言う。
「どうしてフェイル、そんなに優しいんだ?」
すぐには意味がわからなかった。
俺がシリルの言葉の意味を考えた瞬間――再びシリルの腕が伸びてくる。俺の胸ぐらを掴んで乱暴にねじり上げると、俺が目を逸らせないように顔を寄せた。
「今生きて、今辛い思いをしているのはお前だフェイル。お前の親はもういない。もう死んで、この世のどこにもいないんだ。気を遣う必要がどこにある……!?」
力のこもった問いかけ。
俺は、こんな俺を叱ってくれるシリルになんとか応えようと、「優しくなんかねえ……!」勢いに任せてシリルの胸ぐらを掴み返した。犬歯を剥き返した。
「母さんが死んで貧乏になった後――俺なんぞを思って、借金も、教会の施しも受けなかった親父に当て付けしてるだけだ。俺ぁ、親父以上にがんばって、世間様に誇れるような召喚術師にならにゃあいけねえんだ」
今まで詳しくは伝えていなかった家族のこと、思い出すのも嫌な記憶を、言葉にしてぶつけるのである。この場で本心をごまかすのは卑怯だと思ったから。
「親父は、人んちの小作やる他に、ちっちぇ畑で薬草をつくってた。触るだけでひどくかぶれるクソみてぇな薬草だ。薬草は町の
普通、こんな『人んちの事情』をいきなり聞かされても迷惑なだけ。それでも俺がシリルに思いを告げられるやり方はこれしかなく。
「俺が十六になるまでに三百万。たかが百姓に、そんな大金稼げるか」
俺の見てきたもの、感じてきたものが、億分の一でも伝わってくれることを願うしかなかった。
「でもそれで――
「何の罪もないじゃないか。恥じることは何も――」
「でも死んだっ。死んだことが一番悪いっ!」
思わず裏返ってしまった叫び。シリルの力が少し弛む。
「親父は真面目だった! いつもいつも俺のことばかりだった! クソ貧乏のくせに、借金じゃなく金なんか遺して死にやがったせいだ! そのせいで、俺だって金について潔癖で居続けなきゃあっ、親父の人生が嘘になる!」
シリルが言い返してこなかったのは、俺があまりにもみっともなかったからか。
常識外れの感覚である『借金嫌い』に固執しているからか。
「俺は天国なんざ本気じゃ信じちゃいねえ。死の神クローカは死者の国を創ったっつーが、神のクソどもは平気で嘘をつく。死んだが最後、魂も何も消え失せるかもしれねえ」
「………………」
「でも万が一だ。万が一、本当に、死者の逝く国があって、そこに親父と母さんがいるってんなら――俺は、絶対あの二人に頭を下げさせてやる……っ! 勝手に死にやがったことを叱りつけてやるんだよ……っ!」
「……フェイル……」
「俺は苦労して召喚術師になったのに、ずっと二人のことを思い続けたのに――お前らはなんなんだって!」
シリルに止められないのを良いことに力いっぱいまくし立てた俺は、そこでようやく息が切れた。単語一つ一つに力を込めすぎて、喉から血が出たかと思うほどの疲労。荒い呼吸の途中に唾を呑み込むと軽くむせてしまう。
「………………悪かった……いきなり乱暴して……」
俺の胸ぐらを離して背中を向けたシリル。左手を腰に当てると、頭痛を我慢する時のように右手でひたいを強く撫でるのである。
「……トルエノックシオン、か……一冊残らず燃やしてやりたいよ」
物騒なことを言うが、その声はいつものシリルに戻っていた。
「九十万、なんでそんなに
「………………ラッカリーズ・ジャンパン……」
「ふざけた名前だラッカリー――ラッカリーズ? ………………青の導師ラッカリーズか?」
「は? いや……その青の導師ってのは知らねえが、背表紙の著者名はラッカリーズだった。間違いねえ」
「……そうか……間違いなく、ラッカリーズ・ジャンパンだったか……」
「………………………………」
「………………………………」
「………………………………」
「ラッカ――」
そして次の瞬間、俺が見たのは――――蝋燭の光から生まれた陰影を顔に乗せながら、いきなり腹を抱えて笑い始めたシリルの姿。
「はっはははは! はははははは! これはお笑いぐさだ、僕らはなんて馬鹿なことを――」
俺は何一つ意味がわからない。
シリルの大爆笑が終わるのを待ち続けると、やがて俺に振り返ったシリルが人差し指で涙をぬぐって言った。
「いいかフェイル? ラッカリーズ・ジャンパンは、おじいさまが大ファンだった召喚術師だ。知る人ぞ知る冒険家で、“ラッカリーズの赤い竜”という題名で児童書だって出てる。多分、それもあって異常に
「――はぁ?」
「彼の書いたものなら、おじいさまが無限に集めていた。個人的な手紙すら何百と収集したんだから、魔術書ぐらい確実にあるだろう。明日中には家の者に持ってこさせるよ」
「ちょっと待てシリル。お前、いったい何を言って……?」
突然の急展開に俺は突っ立ったまま呆然とするだけ。
そんな俺を放置して――カーディガンを脱ぎ捨てたシリルは、ベッドに寝転がってさっさと毛布を被るのだった。
つい何分か前の喧嘩などすっかりすべて忘れ去ったかのように――まるで最初から喧嘩なんか無かったかのように――背中を向けて軽く言う。
「貸してやるから三日でマスターしてくれ。僕もやっぱり、召喚祭は負けたくない」
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