海の向こうへ
よせてはかえす波のあわいに、アイオは立っていた。
海の果てからのぞいている太陽の光が眩しい。ついさっきまで薄暗かった空はもう、わずかな赤みが差していて夜が明けたことを思い知らされる。
アイオは一歩、二歩と沖の方へ足を進めた。夕焼けにも似た青紫の細い髪が右へ左へと揺れる。足首から脛、膝と順に冷たい水が自身を鷲掴みにするのをぼんやりと受け止めながら進むアイオの体が、突風の勢いでふっと傾いだ。
「馬鹿っ、死ぬ気か!」
強い力で腕を引かれ、アイオはいつのまにか後ろに立っていた男の胸に倒れ込んだ。背中に愛する男の手がまわって、自らもまた彼の背に手を伸ばしてからアイオはほうと息を吐く。下へ目を向けると、水面が腰の位置をとうに追い越していた。
「目を離すとすぐこれなんだから……」
腕をぐいぐい引っ張られて波打ち際までつくとカーリもようやく深く息を吐き出した。
「しっかりしてくれよもう…… 夜が明けたばっかりで水が冷たいんだってことぐらいわかるだろ」
溺れたら死ぬんだぞ、と怒るというよりはすがるような言い方に、アイオは目をそむけた。わかってるよ、と自身の両肩をつかむ手をいささか乱暴に外して浜辺に上がる。
「…… ひとつになれるかと思ったんだ」
小さな子どもがすねるような声で呟けば、後ろから呆れたようなため息が聞こえた。
「ひとつになったら死ぬだろ」
「概念の話だよ」
アイオはじれったそうに言った。しかしカーリはつい先ほど砂浜に脱ぎ捨てられた外套をアイオに着せながら「全然わからない」と言い放つ。
「だいたい、海なんて用もないのにわざわざ来る場所じゃない」
「用ならあるけど、まあ、たしかにな。夜になると魔物も出ることだし」
「俺は魔物は信じてないけど、まあ、そういうことだ」
「へえ、おまえ魔物信じてないんだ?」
意外、と目をまるくするアイオにカーリはそりゃそうだろ、と返した。
「精霊は少しは信じてもいいかなって思うけど、魔物なんて現実的じゃない。もともとは夜の暗い海に落ちたら危ないから気をつけろって話がだんだんそういうふうに広がってっただけだ。大陸のあちこちに人間やエルフの区分なく似たような伝承があるのも、そうやって言い伝えることで危険なことから身を守るよう子孫にうながして――」
「あー、わかったわかった、もういい」
アイオは片手を挙げてカーリの話を遮った。
「おまえに情緒のかけらもないことがよくわかった」
「なんだそれ」
カーリは自分も外套を羽織って身支度すると「そろそろ行くぞ」とアイオをうながした。けれどもアイオは反応を返さない。
「アイオ?」
男の声に返事をしないまま、アイオはぼうっと海と空を眺めている。先ほどの海のなかの冷たさが信じられないほど空も海も、青く澄んでいた。きらきらと光る海面は、ずっと見ているには眩しすぎる。
声をかけてしまうのがためらわれるほど、アイオは熱心に、それでいて静かなまなざしで海を見ていた。ためらわれる、などという生半可な表現は似合わない。許されない、でもまだ足りない。かつての友との対面のようで、血を分けた兄弟と語らうようでもあって、とにかく自分だけがこの場に不要なのではないかとすら、カーリは思った。
「…… すごいな」
それでもただひたすらそばで待ち続けているとようやくアイオが声を出した。
「全部青だ」
カーリはたまらず、アイオの背にすがりついた。そのまま腕ごと彼女の体に腕をまわせば、戸惑うような声が上がる。
「…… 泣いてんの?」
「…… 泣いてはない」
振り返って顔を確認しようとするアイオの髪に鼻先をうずめ、抱きしめる腕に力を込めることで動きを封じると観念したようにアイオは腕のなかで大人しくなった。
「ほんとに来ることになるとは思ってなかった」
自身を拘束する腕がほんの少し緩むと同時に、頭上からぽつりとそんな言葉が漏らされた。
「正直あんまり本気にしてなかったし……」
地味に傷つくことを言われて反撃に出ようと試みるが、振り返って目にした男の寂しげな表情にアイオは喉まで出かかった言葉を呑み込む羽目になる。
「そりゃ、たしかに海は特別大好きってわけでもないけどさ。ていうか今日初めて来たし」
「好きになれそうか?」
「なんだそれ」
もう行くぞ、とさっきとは反対にアイオがカーリをうながして、ふたりは今度こそ海に背を向けた。靴を沈める白い砂が、規則的に響く波の音が、ふたりを引き止めるかのようだった。
「―― 俺はカーリと海に来れて嬉しかったよ」
男に聞こえるか聞こえないかくらいの、なかばささやくような声で言うと、短い笑い声が返ってくる。
「そりゃどうも」
「いや、お世辞じゃねえわ」
ふたりは軽口を叩き合いながら――、静かに反響する波の音をその背で聞きながら、来た道をゆっくりと戻っていった。
空の色は涙色 水越ユタカ @nokonoko033
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