開花④
「陛下」
目をつむってしばらく経つと、ささやくような声が聞こえた。目蓋をふせたまま反応を返さずにじっとしていると、そばにあった気配は静かに去っていった。扉が、極力音を立てないよう静かに閉められる。そのあと足音が遠ざかるのを確認してから、ラウナはそっと目を開けた。横になった状態で屋敷内の気配を探る。魔力が使われている気配はない。
―― なにも心配はいらない、か。
人生のほとんどを共にしたゆえの違和感だった。
ラウナは起き上がった。
羽化してすぐには行動を起こせるはずもない、というのはごく一般的なエルフの話だ。アイオのことを考えていた。この十六年の間、ずっと。ずっとだ。
夜風は冷たく、どこか柔らかだった。まるで、あの幼馴染みのようだと、ラウナはひっそりと思った。
「私をたばかるのはさぞたのしかったことだろう。なあ、リーテ。幼馴染みどの」
屋敷の廊下の中央に位置する、湖を臨める露台はラウナの気に入りの場所だった。
「下に、ミザリがいるな?」
リーテは露台の前で立ち塞がるようにして立っていた。彼はラウナの言葉に一瞬目をふせたかと思うと、もう一度顔を上げラウナをしっかりと見据えた。
「はい」
「トウカも?」
「ええ。見送りに下りていらっしゃっています」
壁にかけられた明かりがわずかにリーテの顔を照らしていた。ラウナの視線を受けながら、彼は続けた。
「これはトウカ様の発案で…… さすがにこの羽化直後というときに、行動を起こしはしないだろうという思考を逆手に取ろうと。ティリオとティティを供にと当人たちを説得したのも彼女です」
「なるほど。さすがの手腕だ」
ラウナはにやりと笑みを浮かべた。
「それでおまえは、トウカを持ち上げるふりをして罪を逃れようというわけだ」
「そんなことは……」
言いかけて、リーテは視線を落とした。
「いえ、そうかもしれません。―― 選んだ性も、現状も、なにもかも、だれかのせいにしてしまいたかったのかもしれない」
きっとだれも、責任など取ってはくれないのに。
きっとだれもが、今を受け入れて生きていくしかないというのに。
暗闇のなか、ラウナはゆっくりと歩を進めた。露台の柵付近はわずかに差し込む月明かりのおかげで少しだけ明るい。ラウナは暗闇との境目で踏みとどまり、深い闇に覆われた湖を見下ろした。
「正直、おまえがミザリに手を貸すとは思ってなかった。…… いや、思ってたのかな」
リーテだけは、なんだかんだずっとそばにいてくれるものだと思い込んでいた。
下の方では複数の足音に加え、小さな話し声が聴こえてくる。ラウナは顔を上げ、幼馴染みを振り返った。
「なぜこうしようと思った? いまここで―― このときに、あれを、エルフ史上最高の存在であるアイオの息子を手放すことにたいしておまえは今、なにをおもう?」
「…… 僕は」
リーテの声は掠れていた。いままで他人行儀に紡がれていた一人称が幼かったころのものへとほどけて、その瞳はじっとラウナを見返していた。
「夢だったらいいのにと、思ってた。今でもときどき思う。苦しくて、悪夢みたいだと思うけど、ラウナのそばにいられるんならそれでもいいや、と思ったりもする。なんせ、ただの乳兄弟だからね。普通に考えたら無理だ」
そう言って自嘲ぎみに笑う彼の姿を、ラウナは初めて見たような気がした。
「僕は今、すごく幸せなんだろうね。きみのそばで、永遠ともいえる苦しみを享受できる」
リーテの短くそろえられた髪は、夜風を受けてもほとんど乱れない。子どものころによく風になびかせていたくせ毛は、今ではもう見られない。
「それでも、この苦しみに終わってほしい。―― もう終わりにしよう、ラウナ」
ぱしゃ、と水の跳ねる音がした。
反射的に音のした方を見たラウナの背を、リーテがそっと押した。押すというよりは添えると言った方がいいくらいには柔らかな手つきだったが、それでもラウナには十分だった。
足を踏み出し、露台の柵へ手をかける。露台の死角からゆっくりと舟が出てくるのが見えた。舟をこいでいるのはミザリではなかった。明かりを持って行く先を照らしているのも、また。
「…… もうとっくに、終わってたんだよ」
背中にあったリーテの手のひらから伝わる熱がそろりと離れていった。
「終わりに、してあげよう?」
舟の上に立っていたミザリがふと、こちらを仰ぎ見た。ほんの一瞬、目が合った。が、その目はすぐに逸らされて、ミザリは進行方向を向いた。アイオと同じ、夕焼け色の髪をなびかせながら。
ラウナは「うん」と頷いて、すぐ隣に下ろされた男の手に自分の手を重ねた。そうして、ラウナは舟が離れていって見えなくなるまで、ずっとその手を握っていた。
舟が離れていく。
里から、トウカから。父と母が、育った場所から。
幾千もの星々が瞬いているその下を、ミザリたちの乗る舟がただまっすぐに進んでいる。
ミザリは前を向いた。
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