開花③


 アルナの言った通りだった。ラウナはミザリの言葉をまともに取り合ってはくれなかった。羽化を終えて、成人してからもう一度、なんて、本気とも思われていないような言葉に、腹が立たない方がおかしい。…… こういうところが、子どもなんだろうか。

 そういえば父も、成人して大人になったら話をしてくれると言った。子どもは、子どもには、大事な話を聞く権利すらないのだろうか?

 変わりたい。

 何に?

 大人になりたいわけじゃない。だってまだ性別も決まってないのに。

 大人になんかなりたくない。それでも、とにかく変わりたい。

 なぜ?

 わからない。とにかく変わりたいのだ。

 なんでもいい。今を変える、今が変わるなにかに、なんでもいいから変わりたい。


 ―― 変わりたい!


 世界が明滅した。



「ゆうべ、お休みになる少し前でしょうか、その頃から気分が悪いとおっしゃっていたんですが……」

 ミザリの部屋へ向かう道すがらティリオが不安げな表情を珍しくも表に出しながら現状を説明した。

「今朝方は朝食をスープをほんのひとさじ飲まれた程度で、それももどしてしまわれて」

「羽化でしょうか」

 ティリオの説明を聞いているラウナの斜め後ろの方向から一定の距離を保ってついてきていたリーテがそう口にして、ラウナは否定も肯定もせず沈黙した。

 でもたしかに、ティリオから聞くミザリの状態は一般的なエルフの羽化直前のものと酷似しているのだ。ラウナ自身にも覚えがある。だがしかし早すぎる。たいていのエルフは年が明け、十六歳になったその瞬間にいっせいに羽化するものだ。例外はないはずだ。

 ラウナらが部屋に近づき、開け放たれた扉から中を覗いた瞬間、揺れはやんだ。ラウナはリーテとティリオにその場で待つよう手の動作で示すと、ゆっくりと部屋に踏み入った。

 寝台の上には、四つん這いになった姿が、獣のように眼をぎらつかせながら、しかしどこかうつろなまなざしで荒い呼吸を繰り返していた。

「―― あ……」

 兄上、と思わず口走りかけたのはそこにあるはずのない面影を見たからである。母と子ということを考えれば当然なのであろうが、驚かざるを得ない変化がそこにはあった。

 兄が、アイオがなびかせた青紫の髪。

 夕焼けを思わせる、どこか淋しいその色が、今ラウナの目の前にあった。

 と、四つん這いの状態で荒く呼吸していた体はふいにその呼吸の間隔を変えるとその場に力なく倒れた。

「ミザリ様!」

 世話係の声が飛んで、ラウナはあやうく浮遊しかけた意識を取り戻した。心から心配した様子でミザリの様子をうかがうティティに、ここにある髪の持ち主はそうでないことを知る。

 ラウナは深呼吸すると再びミザリに近づいた。そっと体に手をのばし、信じられないながらも、大人のそれへと変化したことを確認する。

「念のため、医師を呼んでおこう。リーテ」

 振り返るとすぐさま側近は頷いて医師を呼ぶためその身をひるがえした。



 兄が、アイオが好きだったもの。カーリ。

 反対に嫌いだったもの。規則。掟。父。母。屋敷。

 ―― それから。


 ラウナは深夜、その日終えなければならないすべての仕事を終えて自分の部屋へと帰った。

 あんな気持ちになるなんて思ってもみなかった。

 羽化したミザリの髪色は、たしかにアイオのそれだった。幼い頃、これ以上ないほど憧れた、真っ直ぐに肩まで伸びた青紫の美しい髪。加えて、男にはない胸のふくらみ、腰のくびれ。羽化したミザリを女たらしめるもののすべてが、あのときほんのわずかに目にしたアイオの姿と重なる。

 顔の輪郭が、耳の大きさが、眉のかたちが、

『海が見たいの』

『おまえと話す気はない』

 ―― 声が。

 ずきんとにわかにこめかみが痛みだしてラウナは寝台に腰かけたままうずくまった。

「ラウナ様」

 突然の呼び声に、体がびくんと震えた。

「……」

「どうかなさいましたか?」

 寝台の前に膝をついた幼馴染みが、心底心配そうに見つめてくる。王になってから誰かに名前をはっきりと口にされたのがあまりにも久しぶりで、己の名を口にした男をラウナが戸惑いがちに見つめていると、彼はなにかに気づいたように言った。

「あ――、申し訳ありません。部屋の外から何度かお呼び申し上げたのですがお返事がなく、入ってみればこのように頭を抱えておいでだったので、つい」

 リーテは再び謝罪の言葉を重ね、そこへまたラウナの具合を気遣うような顔をしてみせた。それから失礼します、とひとこと断ると額へ手をのばし、手の甲で撫ぜるように触れてきた。

「熱はないようですけど、やっぱり顔色が少し悪いですね」

 なんだか妙だ。なにかがおかしい。

 そうは思うものの、額から体温を確認したままそっと慈しむように頬をすべる手に幼い頃を思い出してしまい、どうにもその違和感に集中できない。

「…… なんでもない」

 ラウナはさりげなくリーテから顔を逸らし、彼の顔を視界から外した。

「大丈夫だ」

「信用できません」

 側近を安心させるために口に出した言葉はしかし、きっぱりとした口調で否定される。

「あなたがそうおっしゃるときはたいてい大丈夫ではないので」

 そうなのか。

 本人よりもずっとラウナのことに詳しそうなリーテにかかれば、きっと知らないことなどほとんどないに等しいのではないかと思わざるをえない。ラウナとて、同じだけの時を彼と過ごしているはずなのに、今となってはわからないことの方が多い。思い出されるのは、柔らかな時をともにした幼い頃のことばかりで、そのたびにラウナは淋しいような、せつないような、なんとも言えない気持ちにさせられるのだった。

「なんだか顔色も先ほどより悪くなってきたように思えますし…… 今日はもうお休みになってください」

「…… ああ」

 うながされるまま大人しく横になるラウナを、リーテはじっと見ていた。その視線にラウナは居心地悪そうに眉を寄せた。

「なんだ。もう寝るから、おまえも休め」

「いえ、陛下がお休みになるまでここにいます」

 またしてもきっぱりと宣言するリーテにはやはり違和感を覚える。妙に心配性なのも、口うるさいのも、いつも通りと言われればたしかにそうなのだが。眉を寄せた顔のまま側近を見つめれば、彼はほんのわずかに唇の端を持ち上げた。

「あとでこっそり寝台から抜け出されたら困るので」

「…… そんな子どもみたいな真似はしない」

 ラウナが言い返すと、リーテはふっと柔らかな笑みを浮かべた。その微笑みにラウナは胸が締め付けられるようだった。彼が自分に微笑むたび、壊したものの大きさを思い知らされる。微笑みとは反対に一定の距離を保った彼の挙動は、どれだけ恋しかろうとあの穏やかな時間は戻ってこないということの証明だった。

「…… せめて、そこの椅子に座っていてくれ。そんなところに突っ立っていられたんじゃ、気になって眠れない」

「あ――、そうですね。そうさせていただきます」

 なかば文句のように言うとリーテは案外素直に従った。彼が椅子を引いて腰かける音が部屋のなかでいやに大きく響きわたった。

「…… なにか話をしろ。黙って見つめられるのも気分が悪い」

 これは本当に文句だ。

 リーテは律儀に必要のない謝罪をしてから、「そうだ」と口を開いた。

「ミザリですが、医師に診てもらったところ問題なく羽化しているようです。さきほど様子を見に行ったらまだ眠っていましたから、心配はないかと。…… まあ、なにかしようにも、あれだけ激しく消耗した体ではなにもできないかと思いますが」

 なにせ、本来どんなに短くても普通は五日ほどはかかる羽化をたったの一日で終わらせたのだ。しばらく動けなくても仕方ない。

 大人になったら話を聞く、とラウナが言ったからだろうか。それにしたって、年が明けるにはまだだいぶ早いこの時期に、たった一日で羽化してしまうなんて、まるで化け物だ。

 あるいは、精霊の出てくるおとぎ話のような。

 ―― それを成せるのは、アイオの子だから……?

「なにも心配はいりませんよ。なにかあればすぐにお呼びいたします。ですからどうぞ、ゆっくりお休みになってください」

 再び柔らかく微笑まれては、なすすべはなかった。

 ラウナは、静かに目を閉じた。

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