開花②
しとしとと雨が降っていた。穏やかな雨だった。ラウナの兄、アイオがいなくなったのもこういう雨の日だった。ラウナは窓の外に見える雨雲を眺めながらそんなことを思っていた。アルナが屋敷を発ってから早くも数か月が経過していた。月に一度か二度必ず届く東国の王エッケハルトからの手紙には、アルナが変わらず息災であることと、勉学に励み、さらには社交場へも参加するようになったと書かれていた。
ラウナとて薄々そう思っていた。こんな、自分だけが場違いで、仲間はずれであるかのような場所よりも、向こうで生活した方がのびのびと生きていけるというものだ。トウカとのこともいつの間にかうまくまとまったようで何よりだ。結婚後はこちらへ戻ってくることになるかもしれないが、手紙から聞く今の様子を見るにきっと大丈夫だろう。
アルナ本人からも近況を報告する手紙が届いていたが、おおかたエッケハルトに言われて仕方なく書いたのだろう。手紙など書いたこともなければ受け取ったこともなく、所作を教えたこともないのでひどく拙い文面だった。トウカにあてたものもこの調子で書いたのだろうかと心配になるが、まあ強制されたわけではなく、それも想う相手に書いたのだから多少はましだろう。そうであってほしい。
「失礼します」
几帳面さがにじみ出ているような音で部屋の扉が叩かれ、ラウナは顔を上げた。一回一回を丁寧にしっかりと、それを四回。王になって十六年、この音だけで誰が尋ねてきたかは容易にわかるようになった。
「陛下、この―― どうされました?」
自分の滑稽さに思わず口元に笑みを浮かべていると、入室してきた側近は怪訝そうな顔をした。ラウナは笑いをこらえながら「いやべつに?」と返した。
「おまえが来るとすぐにわかるなと思ってな」
「…… なにかおかしなところがありましたでしょうか」
「ああ、とても」
ラウナの返答にリーテは困ったように眉を下げた。
「それは…… 大変失礼をいたしました。すぐに直しますので」
「べつに直さなくていい」
リーテは今度こそ困惑したような顔になって、ラウナは耐えきれずに噴き出した。
「え…… あの、困ります、陛下にご迷惑をおかけするわけには……」
「俺はたのしい」
リーテはますます混乱した。少なくともラウナの意図せず崩れた一人称を注意する余裕がなくなるくらいには。ラウナは幼馴染みの反応にひとしきり笑ったあと、「で、なんだって?」と用件をうながした。リーテは未だ納得のいっていない表情のまま小脇に抱えていたものを取り出した。
「東国からの手紙です。いつも通り、エッケハルト王とアルナ様―― 失礼、アルナ殿下からですね」
几帳面にも改まった敬称をつけ直しながらリーテは、ふたつの手紙をラウナの机の上に置いた。机の上ですべらせるようにして手紙を押し出す節くれだった指を見つめながらラウナが「読んだか?」と尋ねると即座に「いいえ」と返ってくる。
「先に読んでよかったのに」
封を開けながら言えば側近はまさか、と手を胸の前で立ててみせた。
「そのようなこと、いたしかねます。あとから読ませていただくことすら畏れ多いと思っておりますのに」
「そうは言ってもな。ここに、リーテによろしく頼む、と書いてある」
「そこだけあとで伝えてくだされば充分でございます」
アルナの書いた方の手紙を指して言うが、きっぱりと断られてしまう。ラウナはふたつの手紙にざっくりと目を通しながら、「それで?」と側近に尋ねた。
「あれの様子はどうだ」
王の主語がはっきりとしない問いかけにリーテは一瞬首を傾げたがすぐに「ああ」と察した様子を見せる。
「世話係の二人によると、相変わらずむくれているとのことで」
ラウナはそうか、と苦笑混じりに言い、それから短くため息を吐いた。
つい昨日、ミザリが「この屋敷を出たい」と唐突に言い出したときにはラウナも戸惑った。ついにその時が来たか、とも思ったが、同時に嫌だとも思った。なぜ? アイオの子だから?
トウカの指導でそれなりに魔力を扱えるようになったとはいえ、いかんせんまだ子どもだ。肉体的な意味でも、精神的な意味でも。だからせめて年明け、ミザリ自身が羽化を完全に終えたらもう一度その話をしようと昨日はほとんどラウナの方から一方的に話を断ち切った。ミザリはそれをまともに相手をされていないと、あるいは子ども扱いをされていると受け取ったのか、腹を立ててしまった。実際子どもなのだ。
しかし妙だ。アルナとトウカのことといい、子どもたちに関して全てのことに目を配っているわけではないが、それでもミザリの発言はあまりに唐突すぎる。トウカやアルナと多く言葉を交わしていたと思われる数か月前なら話はわかる。しかし今は、アルナもいなければトウカもあまりミザリと顔を合わせている様子はない。まだ正式に発表してはいないが、アルナとの婚約に先立ってやっておくことが山ほどあるせいだ。ラウナのときと違って時間はあるため、略式ではなく正式な手順を踏む必要がある。
『海が見たいの』
緑色の髪の下で、同じく青々と茂る草木のような緑色がきらめいていた。どこまでも澄んだ瞳に決意をにじませながら、ミザリははっきりとそう言った。
―― 海。海か。
アイオはラウナを嫌っていた。
嫌悪していたと言ってもいい。ラウナはそう思っている。生き物というものはみな、自分にないものに惹かれるものだ。
アイオはあのあと、海に行ったんだろうか。
襲われそうになっていたラウナを助けたあと、カーリと、愛する者と、たったふたりで。そこまで考えて、ラウナはふと思った。
なぜ、アイオは自分を助けてくれたのだろう――。
兄が自分を嫌っていたのは確かだ。加えて屋敷を出た身である兄にとって、心底嫌っていた弟が死のうが関係ないことであるはず。
わからない。
首をひねるラウナの耳に、せわしない足音が迫ってきた。同時に気づいたリーテが、扉を開けて様子を見に行く。リーテが部屋を出てすぐに、足音の主らしき相手とリーテが話す声がしてくる。なんだか尋常ではない様子だとラウナが思った瞬間、それはやってきた。
がくん、と床が揺れる。棚が震え、中に並べられていた本がいくつか落ちた。背筋にぞわりと寒気が走った。自然のものではない。ラウナは―― いや、おそらくこの揺れを感じる誰もが、十五年前のあの日を思い出したことだろう。
十五年前、ミザリが産まれたであろう――、アイオが亡くなったであろうあの日を。
「陛下っ」
「ミザリだな」
ラウナは戻ってきた側近の顔を見るやすぐさま立ち上がった。
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