開花①
窓辺に一輪の花が咲いている。
それを拾ったわけは、自分でもよくわかっていない。祭りから帰る道中に落ちていた花だ。旅芸人が催しの最中に落としたのだろう。固い地面にぽつんと取り残されていた赤紫がどうにもほうっておけなくて持ち帰った。けれど、正直なところ困ってもいる。向こうへ持っていこうにも、おそらく向こうへ着く前に枯れてしまうだろうし。
花の処遇を決めかねながら詰めた荷物はそれほど多くなかった。向こうで揃えても差し支えないものや、いっそその方がいいものがほとんどであるため、荷物は鞄ひとつに収まってしまった。アルナは押し込むほどの中身のない鞄を閉じて立ち上がり部屋の入口に置いた。と、そのとき目の前の扉が合図もなく開いた。
「お……」
なんの前触れもなく無言で入ってきた従兄にアルナは少なからず驚いた。
「どうした」
「ミザリになにか吹き込んだでしょう」
ただひたすらに問い詰めるような、アルナを責めるようなそれであったなら、アルナもいつものように軽い言葉で返すことができたのだが、トウカの声はそうではなかった。
なんというか、まるで……。
「なにかって?」
「あの子、外に出たいって言ってる。ついこの前まで外に出るのあんなに怖がってたのに」
アルナはトウカから目を逸らし、部屋の奥へ進んだ。トウカが追いかけるようについてきながら言ってきて、アルナは自身の胸の奥でなにか得体の知れないものがざわざわと音を立てるのを感じた。
「そんなに心配なら本人に直接言えばいい。行かないでくれって」
アルナは後ろを振り向くことはせず、うつむいたまま突き放すように言った。
「あいつはおまえのことが好きだから、おまえがそう言えばすぐに――」
「行かないで」
つかまれたのは左手の小指だった。いや、つかむと表現するほどの力は込められていない。アルナの左手の小指は、トウカの人差し指と中指にわずかな衝撃で離れそうなほど少ない力で引っかかっていた。…… こんなに細かっただろうか。
「―― や、俺じゃなくて……」
「ここにいて……」
ミザリに言え、と口にしかけた声は、トウカから発せられた声と、同時に肩へ押しつけられた額で喉奥に引っ込んだ。彼女の声は今にも泣きそうで、その丸まった背中は普段のトウカを知る者からすればありえない光景だ。彼女のこんな姿を見るのはもう思い出せないほど昔のことだった。
「ミザリに言えって……!」
「アルナに言ってる」
必死にトウカを見ないように目をそむけ続けるアルナの肩が、不意に押された。それはけして強い力ではなかったが、あまりにも突然であったためアルナはあっけなく寝台の上へ腰を落とした。
「ずっと、アルナに言ってるよ、私」
アルナは呆然と想い人を見つめた。そうしている間にトウカはアルナの片足をまたいだ。片足とはいえドレスを着た足でそうされると簡単には身動きが取れない。逃走手段を封じられたのだと気付くがもう遅い。
「ねえ、私が今日前開きの服を着てるのはどうしてだと思う?」
言われて、アルナはようやくトウカの服に目をやった。いつもは―― 前に脱がしたときには後ろについていたはずの釦が今日は胸の前で縦一列に並んでいる。基本的にトウカやラウナなどの従者のいる女性の服は彼らの補助で脱ぎ着することを想定してか釦は背中についているものが多い。―― それが今、前についているということはつまり……。
「ねえアルナ、私がいくら幼馴染みだからって、従弟だからって、あんなことされた男の部屋になんの意図もなくのこのこやってくるなんて、まさか思ってないよね」
予想外の行動にぐらつくアルナの眼前でトウカは胸元の釦に指をかけた。ひとつめの釦をなんの躊躇もなく外した指先はそのまま二番目の釦に移る。
「ちょっと待てよ、なに馬鹿なこと――」
「なにが、馬鹿なの?」
アルナが我に返ったように慌てて釦を外す手を押さえると、トウカはふっと目をすがめた。彼女の長い睫毛が、彼女の白い頬に濃い影を落としていて、アルナは目を逸らした。
「…… っお、おかしいだろ、こんなの……」
「おかしくないでしょ。今私がしようとしてることは、一昨日アルナが私にしたことだよ」
トウカが肩を押さえつけながら、覆い被さるようにして倒れてくる。突き飛ばすなり、押し返すなりして拒むことはできた。けれど。アルナの脳裏には、鮮明にあのときのことが焼き付いている。トウカの腕は、体は、腰は、手足は、思った以上に細くて、小さくて、ほんの些細な衝撃で壊れてしまいそうで、どうしようもなく怖かった。
あのときとは反対に、年が明けてから幾度となくたわむれに触れた彼女の赤紫色の髪が降りかかってくる。
「なあ、落ち着けよ……」
「落ち着いてるよ!」
彼女の行動を止めさせたい一心でその言葉を口にした瞬間、幼馴染みは声を荒らげた。
「年が明ける前から、女を選んだあのときから、俺はずっと落ち着いてる!」
アルナは混乱していた。
完全に押し倒されないよう後ろについていた肘から力が抜け、そのまま寝台に倒れ込んでしまいそうだった。
わからない。本当にわからない。
「ここにいてよ、アルナ……」
わかりたくなんかない。
だって、じゃあ、本当にそうだとして、今までのはなんだったっていうんだ。自分はいったいなんのために、あんな――。
アルナの頬にはたはたと滴が落ちた。
「なんにもしなくていいから、なんでもしてあげるから、ここにいて……」
赤紫色の瞳が濡れるのを見たのは、今までたったの一度きりだ。それも、はっきりと覚えていないほど昔のこと。それでも、それを目にしてひどく戸惑ったことは覚えている。
それから、それがとても嫌だと感じたことも。
アルナは、トウカの瞳からこぼれていく涙が彼女の頬を濡らしていくのをしばらくの間じっと見つめていた。
―― ここで「わかった」と言って、ここに残る。この先死ぬまで今までと同じように、この十数年と同じような月日を重ねて、彼女と自分だけの世界で、彼女だけを見つめて生きて、死ぬのだろう。他でもない彼女に、大事に大事に、守られながら。
そんなことを思いながらふと顔を上げた先で、窓辺に置いた花と目が合った。想い人の髪と同じ色をしたその花の名を、アルナはあえて知ろうとはしなかった。自分のなかで大切にしていたなにかが打ち砕かれたあの日からアルナは、すべてにおいて臆病になっていた。
「…… このままここにいることはできない」
トウカの肩を押し返しアルナは起き上がった。アルナは涙でいっぱいにした彼女の瞳を見ながら脇の下に手を入れて、その軽さにやや驚きつつ持ち上げると、膝の上からどかした。そのまま立ち上がろうとしたアルナの袖を、トウカがまたしても弱い力で引いた。
「なんで? そんなにここにいるのがいやなの?」
「なんでそうなる…… あのな」
うつむいた状態で言葉を紡ぐトウカに言い聞かせるように、アルナは膝立ちになって彼女の腕にそっと触れた。
「私の方が、アルナのこと大事にするのに。私がいちばん、アルナのこと――」
「トウカ」
いつも、聞き分けのないのはアルナの方だった。大人の言うことをなかなか聞かず、お手上げ状態になった大人たちに代わってなにかとアルナに言い聞かせるのはいつも、トウカの役割だった。それが今、このときにおいては立場がまるで逆転してしまっている。それをなんだか可笑しく思いながら、アルナは指先でトウカのまなじりを拭った。
「俺も…… 俺だっておまえのこと大事にしたいと思ってる。この世界でいちばん、だれにも負けないくらい…… 大事にしたい。これからずっと」
トウカはアルナを見つめたまま、しばらく黙っていた。
「―― っわ」
しばらく待っていると潤んだ瞳が数回まばたきして、薄桃色の唇が動いた。
「わからない、全然。アルナがなにを言おうとしてるのか」
トウカの言葉を受けて、今度はアルナがまばたきを繰り返した。そして、頬を紅潮させて、怒っているような照れているような、もしくはその両方であるかのような顔をした。
「わかるだろ、だいたいは…… だいたいのことは」
「わ、わかるかもしれないけどっ、でも」
ややきつい口調でアルナが言うとトウカは眉尻を下げた。
「わかると思ってたのに、違った、から」
そうだった。わかりあえていると思っていた結果がこれなのだった。
アルナは後頭部をかきながら立ち上がると窓辺に寄って花瓶にたった一輪ささっていた花を手に取った。それから再びトウカの方を振り向きひとつ深呼吸し、口を開いた。
「…… 俺は、向こうへ行くと王孫子の扱いになるんだそうだ。ただ王位継承権はない。けど、民に存在すらほとんど認知されてない今に比べたらずっと、おまえと対等になれる。そうなれるように努力する。なるべく早く、おまえに見合う男になれるように精一杯努力するから、そうなったら―― そうなったら、トウカ、俺と結婚してほしい」
アルナは一息に言うと、寝台に腰を下ろした。
「結婚しよう」
差し出された花が、ふたりのあいだで静かに揺れていた。
精霊がささやきあっているかのような静寂が、ひっそりとその空間を包んでいた。どれだけの時間が経っただろうか。永遠にも思われたかのような長い沈黙に耐えかねたアルナが口を開きかけたその瞬間、トウカは目の前の胸のなかへと飛び込んだ。
「アルナがすき……」
背中にまわされた手が、指が、その言葉の意味をせつないほどひたむきにうったえていた。アルナは、ゆっくりとその小さな背中に腕をまわした。彼女の存在を確かめるように、強く―― 激しく。
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