往来③

「海…… ってあの海か?」

 ティティに礼を言って別れたミザリは揚げ菓子を売っている露店の前でアルナと合流した。仏頂面で差し出された紙袋のなかの揚げ菓子をほおばりながら話をすると、アルナは怪訝そうな顔をして尋ねてきた。

「―― 本気か?」

 彼の反応も当然のことだった。海はこの南の里から西へ進んだ先の高山を越えた先にある。山道はあるし馬車も通っているが、長い道のりになるため用もないのにわざわざ行こうという者はいない。

 ミザリは口のなかへと放り込んだ揚げ菓子を咀嚼しながら頷いた。

「それしか覚えてないから」

 行儀が悪いとは知りながら指先についた砂糖を舌を出して舐めとり、唇についたものも舐める。その一部始終を見ていたアルナは眉間に皺を寄せたが、なにも言わなかった。

「俺以外のだれかに言ったか?」

「ううん、まだ」

「母上にも?」

「うん」

 アルナにしか話してないよと伝えれば、彼はそうかと安堵するように息を吐いた。自分でもなにがこんなに心配で、気に掛けてやらねばならないのか、よくわかっていない。先ほどからミザリに対して、どうしてか不思議と庇護してやらねばという気持ちになって仕方がないのだ。

「…… 母上はたぶん、一番反対するだろうし、もし反対されたとき一番大きな壁になるのは母上だ」

「どうして?」

 ミザリは屋敷に来て初めてラウナと話したときのことを思い出す。

「勉強とか魔術の訓練とか真面目にがんばったら外に出てもいいって言ってくれたよ」

「―― どうだろうな」

 隣を歩くアルナの声の調子が急に下がって、ミザリはぱっと顔を上げた。フードを深く被っているせいで顔がよく見えない。

「母上は、おまえの母親のことが好きだからな。彼女の忘れ形見であるおまえのことをいつまでも手元に置いておきたいのさ。たとえ憎まれようともな」

 アルナは声の調子を低く保ったままそう言葉を紡いで、露店の並ぶ街並みをぶらぶらと歩いていた。いかにも神経質で、無駄なことを嫌いそうな顔をしている彼なのにその様子が妙に似合っているのがミザリにはなんだか不思議だった。

 そうして様々なものが売られている露店を眺めるうち、アルナはふらりと一つの店に立ち寄った。棒に刺さったそれをふたつ買うと片方をミザリへと無言で差し出す。

「夕食食べられなくなるほどお腹いっぱい食べちゃだめってトウカに言われてるんだけど」

「そんな小言くそくらえだ。早く食わないと溶けるぞ、今日ちょっと暑いから」

 一応は口先でためらいつつ、ミザリは棒を受け取った。小さく切った果物らしきものの周りをなにか透明なもので固めてある。向こう側が見えそうで見えないそれをしばらく眺め、先ほど受けた忠告を思い出し慌ててかじりついた。しかし、思った以上に堅いので舐めて溶かすことにする。

「アルナって王息のくせにけっこう口汚いし行儀悪いよね」

「俺はおまえがそういうことがわかることの方が意外だ」

 アルナの後ろをやや早足でついていきながら、ミザリは「そういうことってどういうこと?」と首を傾げた。

「行儀がいいとか、悪いとか」

「父さんがわりと口うるさいんだよ。すぐ文句つけるの」

 どう返答すべきかアルナが迷っていると、横でミザリがあっと声を上げた。

「なんかやってる」

「ああ…… 催しだな。踊りとか変わった芸を……」

 アルナが律儀に説明しているのを無視してミザリはまたしても子犬のような素早さで広場の方へ駆け出した。

 広場では旅芸人の一座が注目を集めているらしかった。見たことのないような衣装を身にまとった女性たちが広場の中心部で手足を自在に操り飛び回っていた。

「壁画みたい……」

 彼女たちのまとう色とりどりの薄布が宙を舞い、流れ漂って、かつてどこかの街で見た精霊の壁画がそのまま飛び出してきたかのようだった。

「精霊の舞だ。こういう終戦日を祝う祭事のときとか、王の即位式とか、とにかくめでたいときにやるんだ」

 追いついたアルナが解説してくれている横で、ミザリはうっとりと舞に見とれた。女性が右へ左へとその細くふっくらした腕や脚を動かすたび、薄布の先にあしらわれた装飾がさらさらと揺れ音を立てた。その様子はいかにも神秘的で、美しく、ひたすら屋敷のなかで過ごしたこの数か月間はおろか、父と旅をしてきたなかでも目にしたことはなかった。

 とにかく綺麗だった。

「アルナは、ずるいよ」

 美しい世界をぼんやりと見つめながらミザリはつぶやいた。

「―― なんだって?」

 隣を見ずとも彼が眉をひそめたのがわかって、ミザリはそっと唇の端を持ち上げた。

「トウカにも、ほかの、君が大切におもうだれかにも聞いてみたらいいよ。『俺とミザリと、どっちが好き?』って。きっと君の欲しい答えが返ってくるよ」

「なんの話だ」

「自分の持っているものを知りながらそれに目を向けようとしないのはずるい、という話」

「意味がわからない」

 アルナの声は苛立ちが透けて見えていた。

「おまえの話はいつも急だ」

「アルナもね」

 ミザリはアルナにもらった棒菓子を舐めながら言って、広場に意識を戻した。すると、空から花びらが降ってきた。一言では言い表せない様々な色を身にまとった花びらたちが、ミザリの視界を覆った。なるほど、ココの言っていたのはこのことか。広場の中央で不思議な衣装を身につけた者たちが、周囲に向けて花びらをふりまいていた。

 ミザリは自身の胸元に落ちた花びらを一片、手に取って眺めた。濃い青か、あるいは紫色に見えるそれは、周囲で熱を放つ障害物が陰になっていまいち色が判別できない。横から後ろから、降ってくる花びらへと伸ばしてくる腕をよけつつミザリは、花びらを持った手を空に向けぐっと掲げた。

(―― あ)

 やや紫色のかった、青色だ。

 そういえば母が好きだったらしい海も青いのだと聞く。

 指の隙間から差し込んでくる光に、ミザリは目を細めた。

 海は、本当に青いのだろうか。

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