往来②

 露店が立ち並ぶ場所から少し高い位置に張られた天幕のなかで、トウカは知った顔を見つけた。ミザリの部屋付きの男だ。ティリオと言っただろうか。彼はぼんやりと広場の隅の方で催し物を見ながら、だれかを待っているように立っていた。

 トウカは広場とその周囲の様子をひととおり見てから、そばに控えていた侍従へティリオをここまで連れてくるように申しつけた。茶で喉を潤しつつ待っているとしばらくののち、真っ青を通り越して白い顔をした男が現われた。

「…… あの、なにか粗相を、いたしましたでしょうか」

「あっ、ごめんなさい、違うの」

 見ている方が可哀想になるほどの表情でいる彼に、トウカは慌てて言った。当然だ。休みの日にわざわざ王族から呼び出しがかかれば何事かと心配になるものだろう。少し考えればわかったことなのに、思慮に欠けていた。母や伯母がこの場にいたなら注意を受けていたに違いない。トウカはひとつ深呼吸をしてから主然とした声を出すことに集中した。

「まずはこのたびのこと、私からも深く祈りを捧げたいと思います。あなたのお父様の精霊様のもとへの旅路がなだらかでありますように」

 トウカが弔意を表するとティリオは「もったいないお言葉でございます」と言って深く頭を垂れた。みっともないとわかっていながらトウカは「それで」と強引に、そして急ぎ次の話題へと移した。

「あなたたち兄弟は、これからもサヴェラナーニに仕えてくれる気は―― いいえ、持って回った言い方はやめましょう。つまり、お父様の治療費を賄うという目的がなくともあの子に仕えてくれる気は少しでもある?」

 人払いがされた天幕の下には、トウカとティリオしかいない。加えてこの騒がしさのなかでは、下手をすると屋敷のなかで話すよりもだれかに聞かれる心配がない。

「これは私が勝手に思っているだけだから、ちょっとした雑談だと思って聞いて。―― あのね、私は、ミザリには、もっと広い世界が合っているように思う」

 トウカは慎重に言葉を選んだ。

「合ってるっていうのとも違うな……、なんとなく、だけれど、私はあの子を屋敷のなかに入れっぱなしにしておくことにすごく罪悪感がある。伯母さんは口先では外へ出ても良いというけれど、なんだかんだといってアルナの東国行きを先延ばしにしてきたような方だから。―― 王として、長として当然尊敬はしてるけど。伯母さんがもしこのさき、もしかしたらすごく近いうちに外に出たいと思った時、味方になってくれる存在が必要だと思うの」

 彼女の言葉を聞いて、しばらく茫然と床に視線を落としていたティリオは、しばらくするとトウカの意図することを理解したのかぞわりと髪を逆立てた。

「―― っそ、れは、つまり」

「ミザリを外へ出す手引きをしてほしい。そしてできれば一緒に旅をしてあげてほしい」

 ティリオは先ほどのように蒼褪めはしなかった。というより、トウカの申し出が突拍子もなさすぎて現実感のあるものとして入ってこないのだろう。弟とそろいの、わずかに赤みのある瞳を見開いて、薄く唇を開いたままじっと空中を見つめている。

 あまりにも唐突すぎたかと思いつつ、でも今しか伝える機会はなかったのだとも考えながらトウカはだらしなく力を抜いて背もたれに背をあずけた。

「…… ミザリはね、外へ出るのが……、今は少し、怖いみたい。でもね、アルナもそうだったから。あいつ、こんなとこ大嫌いなくせして昔はここを出ていくことなんて考えもしてなかったみたいだけど、今はすっかり向こうへ行く気持ち固めちゃってるらしいし。ミザリだって、いつ変わるかわからないでしょう。それが五年後か十年後か、もしかしたら明日、あるいは今日この瞬間にそう思うのかも。そのときに、あの子をここに押し込めることになってしまったら、たぶん私はすごく後悔すると思う」

 ティリオはじっと黙っていた。迷っていたのではない。ただ、父が亡くなる数時間前、弟ティティと交わした言葉を思い出していた。父は、弟にだけ暴力をふるう。弟が女を選択してからはますますそれが激しいものとなって、ティリオは自分だけが父の面倒を見ようと申し出たが弟はそれを拒否した。母が亡くなってから八年。母の介護の期間も入れたら十年近い歳月が経っている。ティティは人生の半分を親の看病に費やしているのだ。弟ながらに、不便でならない。

『どうしよう。父さんが亡くなったら……』

 愕然とした。あれだけの理不尽な暴力をふるい続けた男に対してなぜそんな感情になれるのか。自分はこんなにも、両親ともに憎んでいるというのに――、そこでティリオははっとした。怖いのだ。

 母が亡くなったとき、ティリオはちょうど十五だった。性を選ぶ直前のことで、どうしようもなく不安な思いに駆られたのを覚えている。まるで、広くなにもない焼け野原にたったひとりぽんと放り込まれたような、そういう感覚だった。どこになにがあるかもわからないまま、ただ進むしかない、そういう感覚のまっただなかに、弟はいるのかもしれなかった。

「返事は今すぐにとは言わない。…… けど、できるだけ早くほしい」

 自分に性別を選ぶ余地はなかった。男として、力のある働き手として家族を、ティティを守っていかなければならなかったからだ。それが結局、彼女をあの家に縛りつける理由になろうとは幼いあの頃は思ってもみなかった。

「いえ――」

 ティリオは覚悟を決めた。

「ぜひともそのお役目、受けさせていただきたく存じます」

 大事なものすら守れない、無力な男はもう死んだのだ。



 ごめんね、とミザリが服の袖口で目元を拭いながら隣で呟いた。

「今日、大事な日だったんでしょう」

「いいえ。ちょうど終わったところでしたから」

 ティティはにっこり笑って言うと、アルナが行ってしまった方向を見た。なんだか後ろめたい。ティティのいない場でとはいえ、ひどいことを口にしかけたのだ。ティティは白っぽい服を身にまとっていた。エルフの間での葬儀の際の作法だ。―― そういえば、カーリの葬儀はまだやってもらっていない。特に必要とも思っていないから構わないけれど。というより、必要なのかわからないのだ。今まで、すべてのことは父が決めてくれて、それに従ってきた。

 年明けはもう、すぐそこまで迫っている。

 それなのにまだ性別だけが決まらない。真っ白だった自分のこころに、急に色をつけなければいけないような、不思議な感覚だ。一発勝負で、間違えることはできない。怖い。

「変なこと聞いてもいい? 嫌だったら答えなくていいから」

「なんでしょう」

 ミザリはおそるおそる口を開いた。今ここで、間違えたことを言ったとして、咎めてくれる存在はない。

「…… お父さんが亡くなって、どう? 今どういう気分?」

「どう、というと……」

 自分でも質問内容が抽象的すぎると思いつつ尋ねると案の定ティティは首をひねった。しかしミザリ自身も尋ねたいことがはっきりしていたわけではないので、ただ彼女の答えを待って黙り込むことになる。

 しばらく口を閉ざしたまま待っていると、ふいにティティが話し出した。

「なんとなく、寒い、でしょうか」

 ティティの言葉に今度はミザリが首をひねった。

「寒い?」

「こう、服が一枚剥がされた感じというか…… 体を覆っていたものが剥がれて、ちょっと寒いような、気がします」

 怪我を、させられたのに?

 ミザリは思ったが、口には出さなかった。

 河の濁流に呑まれる寸前、父が強く抱きしめてくれたのを思い出す。父がいない世界になど、きっと生きていられないと思った。だけれど、今こうして生きている。

 ふと、隣を向いてティティの顔を見た。

「…… ティティは、かわいいね」

 思ったままを口に出せば、ティティは口を半開きにしてこちらを見てくる。

「母親似?」

「え…… っと、どうでしょう。亡くなった母には父似だとよく言われましたけれど」

 しばらくしてようやくミザリの言葉の意味が入ってきたのか、ティティは頬を赤く染めながら言った。

「トウカはさ、お母さん似ですっごく綺麗だから、やっぱり女を選ぶと母親に似るのかなーって思って」

「でも、女を選ぶと父親に似るとよく言いますよね。逆も」

「そうなんだ。知らなかった」

「ただの迷信ですよ」

 そっか、と考え込むように黙ってしまったミザリの横で、ティティは「大丈夫ですよ」とささやいた。

「亡くなったばかりなので、あたりまえかもしれませんけど私、まだ実感がないんです。もしかして、夢だったりしないかなとか。母さんがああなった日からすごく悪い夢を見てるのかも、とか―― 夢だったりしないかなって、ときどき思います。でもきっと、大丈夫ですよ。私もミザリ様も、きっと明日が来ます」

 根拠はないですけど、と照れながらティティは笑った。曇り空の下にあるその笑顔がやけにまぶしくて、ミザリはつい目をそむけた。

 青い空が恋しい。そう思ってふと、ミザリは少し前に父から言われたことを思い出した。

 たしか父は、アイオは海が好きだったと、そう言った。


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