親子②

 木々の合間を縫うように風が流れてくる。雨で湿った緑の匂いがする。森を抜けてしばらく歩くと河辺に人だかりが見えた。注意深く様子をうかがいながら近づいていく父に隠れるようにして後をついていく。

 人だかりの話す内容がはっきりと聞き取れる距離まで近づいていって、ようやく状況がつかめる。橋が壊れているのだ。河の淵には、橋の残骸らしき木材がわずかに残っているのみで、深さも幅もそれなりにあるこの河を渡ることなど到底できそうになかった。

「まいったな……」

 周囲から聞こえる話によるとどうもここ数日の大雨による河の氾濫で壊れたらしかった。

 ため息交じりに呟いたカーリはミザリを心配そうに見た。

「―― 前の町まで戻ろうか。少し歩くけど、がんばれるかい?」

「うん、平気」

 なんでもないように微笑んでみせれば、慈しむように頭を撫でられる。

 もう少し。もう少しなんだ。






「つまりこういうわけだ」

 いまだ青さの残る、少年とも青年とも言い難いような見た目をした彼が、男としては長すぎる髪の下で皮肉っぽく笑ってみせた。

「一応は自分の産んだ子だし向こうとの取引の上で有利になるかと思って試しに置いてみたが、結局はなんの役にも立たないもんだから成人したこの機会に厄介払いしようと、そういうことでしょう、母上」

 執務机の後ろで母親に背を向けながら言う彼の声は、ともすればふてくされているかのようにも聞こえる。ラウナは息子と同じように背を向けたまま小さくため息をつくと、言った。

「そうだと言ったらおまえはそれですべて納得してこの結婚を受け入れるのか? アルナ」

 アルナは黙った。ラウナの髪の隙間から伸びる長く尖った耳とは反対に、アルナの髪の隙間からはなにも出ていない。窓から吹いた風は、遮るもののない髪をありったけかきまぜて走り去っていく。

「…… 俺はトウカのことをそういうふうには見られません。今までも、これからもずっと」

「なぜだ? 羽化したあれの評判はお前の耳にも届いているだろうに」

「そういう話じゃありません」

 まるきり見当違いの話をされて、アルナはいらいらと母親を振り返った。

「あいつが美しかろうが不細工だろうが、俺があいつをそういう対象としてみることは絶対にないという話をしてるんです」

「それはなぜ?」

「…… 母上とリーテがそうなる可能性がないのと同じ理由かと」

 ラウナの側近でもあり幼いころから共にいる乳兄弟でもある男の名を挙げれば、今度はラウナが黙った。しばらく机に肘をついてなにやら考え込むような顔をしていたかと思うとふいにうつむき、く、と短い声を漏らし、そしてついには笑い出した。アルナは突然の母の奇行に狼狽せずにはいられない。

「いや、そういうことなら納得だと思ってな」

「わかってくれましたか」

「いいや」

 話が噛み合わない。河原の砂利を口いっぱいに詰め込まれたような顔をしたアルナに背を向けたままラウナは続ける。

「男女の仲にはなれずとも、兄弟以上には思えずとも、夫婦として過ごすことで新たな想いが芽生える可能性は十二分にあろうて」

「そんな関係、俺はごめんです」

 ラウナのひょうひょうとした態度に苛立ちを隠さずにアルナは乱暴に地面を蹴りながら母の座る執務机の横を通り過ぎた。後ろから彼女のおもしろがるような、こちらをからかうような声が聞こえてくる。

「あれも嫌、これも嫌か」

「…………」

 アルナは無視して扉に手をかける。扉を開けて部屋を出ようとしたところで再び声がかかる。

「どれだけ周囲が変わろうと変わらぬものもある。そういう部分を見ていくことはできないか?」

「……、失礼します」

 母の言葉には返事をせずに、アルナは部屋を出た。




 道を外れて、脇道から林に入る。背の高い、名も知らない大きな草の葉が、ミザリたちを覆い隠した。いつか、隠れなくてよくなるときがくるのだろうか? 想像がつかない。物心ついたときにはすでに、父とともに何かから逃げ隠れるような生活が日常だった。山のふもとのほとんどだれも住んでいない廃村に近いような場所で何年か暮らしていたこともあるが、それ以外はずっとこんなふうに周りを気にしてあちこち旅をし続けている。

 ミザリの数歩先を歩くカーリの視線の先で、緑ががさりと音を立てた。父は身構えると同時に、目の前に現れた人物の姿を見て声を上げた。

「―― リーテ」

「久しぶり…… は変かな、カーリ」

 男は、あまりにも無害そうだった。下がり気味の眉と、不安そうにへそのあたりで握りしめたこぶしがそれを象徴しているかのようだった。

「王の…… ラウナの差し向けた遣いがあなたに…… その子にも苦労をかけていること、本当に申し訳なく思う。私がラウナを止められればいいのだけど」

「おまえのせいじゃない」

 父の声はいつになく冷淡だった。

「俺とアイオで決めたことだ」

 ミザリは肌という肌が粟立つのを感じた。決意なんて優しいものじゃない。覚悟なんて強いものじゃない。なんというか、もっと――。

「でももう限界のはずだ。その子は魔力を制御できてない。きちんとした純血のエルフのもとで制御する術を学ぶべきだ。半分人間の血が入ってるあなたでは、その役はこなせない」

 頭を殴られたようだった。

 生まれたそのときに、性別がないのはエルフだけだ。人間も、犬も、猫も、馬も、豚もみんな、二つのうちどちらかの性をぶらさげて生まれてくる。

 旅の途中に立ち寄った村や町でよく「エルフは高潔だ」と年老いた者が言っているのを聞いた。精霊と同じように、性がない状態で生まれてくるから高潔なのだと。人間は、そうではないから野蛮なのだと。

 その、血が。

 自分の中に。

 ミザリは自らの腹にそろりと手をあてた。

「…… あと一年だ。性別さえ定まればなんとかなる」

「そうとも限らない。混血児は前例が少ないから……」

「だとしても」

 父が後ずさって、ミザリが前に出るのを遮るような姿勢をとる。

「おまえには関係ない」

 男は困ったようにうつむいた。しばらくそうしたあと、意を決したように顔を上げる。

「西の里長…… あなたの母君に会ってきた」

「あんなのは母じゃない」

「あなたとその子を王からかくまってもいいと言ってる」

「なにをいまさら」

 カーリは吐き捨てるように言った。

「勝手に産んで捨てておいて、なにがかくまってもいいだ」

「…… 里長は、精霊のご意思に反する行為をなさったことをたいへんに悔いておられた」

 絞り出すように吐き出された男の言葉に、カーリはせせら笑った。

「“精霊のご意思に反する行為”って? 人間と出会ったことか? 俺を産んだことか? 俺を捨てたことか? ―― くだらない」

 きつく握りしめられた父のこぶしが震えていて、ミザリは思わず振り仰いだ。

「そんなもののせいで俺とアイオがどれだけ苦しんだと思ってる」

 その言葉は目の前の男にあてられたものではなかったように思えた。呪いのようでも、懺悔のようでもあり、ともすれば助けを乞うているようでもあった。

 男は黙ってカーリの言葉を受け止め、手にしていた荷物を地面に置いた。

「町の宿に残っていた荷物…… 全部でなくて申し訳ない」

 それから男は荷物を数秒見つめてから立ち上がり、こちらへむかって深く頭を下げた。

「あなたがたに精霊のご加護がありますように」

 男は去っていった。

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