親子①


 生まれたばかりのエルフには、性別というものがない。

 エルフは生まれてから十五年かけて自らの意思で性を決定し、男あるいは女に変化する。この変化を羽化と呼び、エルフの大人と子どもの区分はこの羽化以前と以後で分けられる。

「母さんも今の僕と同じ歳の頃に性を選んだのでしょう?」

「ああ、そうだよ」

 ミザリの問いかけに、隣にいた父カーリが答えた。ミザリの髪は緑色だ。森のなかにいるとすっかり紛れてしまうような鮮やかな緑色で、父と同じ色をしている。

「母さんはどうして女を選んだんだろう」

「さあ、どうしてかな」

 父親の顔を真っ直ぐ見つめて言うミザリの頭を、カーリはぽんと撫でた。

「人それぞれだよ、ミザリ。さ、休憩はおしまいだ。そろそろ先へ進まないと」

 立ち上がる父を見上げてながら、えー、と不満げな声を漏らすミザリをカーリは「こら」とたしなめる。

「宿がとれなくてこの前みたいに狭くて暗い路地で寝ることになってもいいのかい?」

「……」

「ミザリ」

 父の諭すような声に、ミザリは渋々立ち上がる。その瞬間、どこかから突風が吹いてミザリの体をなぶった。

 親子は森のなかにいた。肩を寄せ合いながら大きな葉を茂らせている木々が、突然降りだした雨に追われた親子を守っていた。急な雨が近ごろよく降るようになったが、最近とくに多い。空が曇ることすらなく突然降りだすので、カーリたちのように各地をまわって旅をしている者たちは困らされることが増えた。

 先ほどよりは勢いのなくなった雨粒ごしに、ミザリは前を歩く父を見た。ミザリは父のことをよく知らない。父だけでない。母のことも―― ほとんど何も知らないと言っても差し支えないくらいには、ミザリは親のことを知らない。そのことが最近とくに、ミザリを無性に寂しくさせる。

 雨の勢いが再び増してきた。目的とする町まであと少しだ。父カーリが振り返ったのに頷いて、ミザリはフードを目深にかぶりなおすと、足を速めた。

 町は雨のせいか人通りが少ない。それでもちらほらと路上にいる人々や店の戸口に立つ人々は、なぜだか不安そうに言葉を交わしている。なんだか様子が変だ。それをカーリも感じ取ったのか、ミザリへ向かって外套を広げてみせた。

「ミザリ、こっちへおいで」

 大人しく中へ入ると、力強く肩を引き寄せられる。歩きにくさを感じつつもミザリは父と一体になって宿に入った。カウンターで煙草をふかしていた店主らしき男性が「いらっしゃい」と言いながら台帳をカーリの方へ押した。

「なにか、事件でもありましたか? なんだか町が…… 落ち着かない様子ですけど」

 カーリが台帳へ記名するかたわら尋ねると、店主は髭の下から煙を吐き出しながら言った。

「よくは知らんが、王様の遣いだそうだよ。罪人でも探してるのかもしれんと噂だ」

「…… そうですか」

「念のため、外へはあまり出歩かない方がいい。この雨だしな。―― 食事は部屋に運ぶかい?」

「ええ、頼みます」

 カーリが代金を置くのと引き換えに店主は部屋番号を伝えて、再び煙草を吸い出した。

 部屋は狭く、最低限のものしか置いていない。小さな窓のそばには、簡素な寝台がひとつきり。ひとつだったら、父と一緒に寝られる。狭くても寝にくくても、父の隣にくっついて寝るのがミザリは好きだった。

 深夜に目を覚ますと、父がいなかった。いつものことだ。森のなかで野宿をしているときでさえ、カーリはこうして寝床を抜け出してどこかへ行ってしまう。朝方に戻ってくる気配がして、わずかな物音が止んだ頃にミザリはたった今目が覚めたふりをする。それが常だったのに今朝は陽が昇っても帰ってこない。嫌な予感がする。

 ミザリは窓から外へ出た。町の中が昨日と比べものにならないくらい騒がしいのは、この雨のせいだけじゃない。大人たちが何か話しているが心臓が胸の奥で暴れているせいでよく聞こえない。とにかく父を探さないとと足を速めたところで名前を呼ばれた。

「こっちへ」

 腕をつかまれて、路地に引き込まれる。

「町を出る」

 有無を言わせない口調に強い力で腕を引かれれば、抗うことはできない。カーリは荷物を取りに戻ることもなく着の身着のまま、ミザリと町の外へ出た。雨で重たくなる服と比例するようにして速まっていく父の足を必死で追いかけながら、ミザリは風にあえいだ。

 何も言ってくれない。

 何も聞かせてくれない。

 何も教えてくれない。

(僕は、何も知らない)

 寂しい。

 カーリの足は、森の中の木の下で止まった。太い幹に隠れるようにして辺りをうかがうと、カーリはほっと息をついてミザリを抱き寄せた。

「…… 父さん」

「うん」

 ちいさく漏らした息子の声から何かを感じ取ったのか、カーリは頷きつつミザリをもういちど強く抱きしめた。それからすこしだけ体を離すと雨で湿ったミザリの額を指先でなぞった。

「…… あと一年だけ、待っていてくれないか」

 父の声は掠れていた。

「お前が大人になったら――、性が変わったら、そのときに全部話そう。母さんの…… アイオのことも、父さんのことも、お前のことも」

 予想外の父の言葉にミザリは目を見開いた。

「本当に?」

 カーリはああ、と頷くと二人の間に自らの手を出し、小指を立てた。

「ただ、ひとつ約束しよう。いいかいミザリ、自分がどちらの性を選ぶべきか、これから十六になるまでのあいだに自分でしっかり考えるんだ。いい?」

 ミザリは父の小指に自分の細い小指を絡めて、わかった、と口にした。

「よし。いい子だね。…… その時になったら…… そうだね、母さんの好きだった海にでも行ってその話をしようか」

「それも約束?」

「ああ」

 父がここまではっきりと言ってくれたのは初めてだった。母が海を好きだったというのも初めて聞いた。ミザリは嬉しくて、小指を懸命に絡ませた。

 雨足が弱まってきた。空はこれ以上ないくらい明るくて、今の嵐に近いような雨が信じられないほどである。「町に戻る?」とミザリが尋ねると、カーリはいやと首を振って肩から斜めがけにした袋を指した。

「必要最低限のものは持っているから、少し休んだら先に進もう」

「先って?」

 再び尋ねれば穏やかな微笑みが返ってくる。そのまま優しい手つきで頭を撫でられるともう、ミザリは何も聞けない。幼い頃からこの繰り返しだった。でも、それももうすぐ終わる。

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