意地②
「二日後……」
伯母の口から発せられた言葉をトウカは茫然とした様子で繰り返した。ラウナの座る執務机の正面に置かれた椅子につけた皮膚が、しっとりと汗ばんでいくのを感じる。
「アルナにも同じことを伝えたよ。それでもあいつはわかった、行く、と。…… その代わりトウカとの婚約はなかったことにしてくれと―― おまえの言ったこととは反対だな」
すまない、とラウナは謝罪した。
「おまえを焚きつけたのは私であったのにな」
「いえ……」
トウカは首元に手をやりながら言った。首を覆う細かいレース。膨らんだ袖。すぼまった腰から、わざとらしく広がる裾。
ドレスが嫌いだ。
「伯母さんがあのときああ言ってくれなかったら、私は自分の気持ちに気づかないまま男を選んで、今より酷いことになっていたと思います。…… 今も、まあまあ酷いのかもしれないですけど」
「…… あれが、なにかしたか? おまえのことを、なにか――」
「いいえ。―― いいえ、伯母さん」
眉間に皺を入れて、国の重大事を耳にしたかのように身を乗り出してきたラウナの姿が可笑しくて、トウカはつい笑い声を漏らした。
「私がずっと、アルナを知らない間に傷つけていたんです。今頃気付いたところでもう、遅いですけど」
「アルナを行かせたくないか?」
子どもの時では考えられないほど長く伸ばした髪が一束、肩からはらりと落ちた。好きだ、とそう、たったひとことを言いそびれて言えないまま、こんな長さになってしまった。女みたいだ、と思う。
「…… アルナが決めたなら、私は……」
最後まで言い切らないまま黙り込んでしまったトウカの目の前で、ラウナはおもむろに立ち上がった。
「なにか言いそびれたことがあるなら伝えておけ。行ったきりもう二度と帰ってこないというわけじゃないし手紙も出せるが、まあ、言い辛くならないうちにな」
ラウナは窓枠にもたれると、そのままの姿勢でカップの中身を啜った。リーテに見つかったら注意されるに違いないとトウカが思ったその瞬間、部屋の扉が数回叩かれる。礼儀正しい挨拶とともに扉の隙間から覗かせた男は、ラウナの姿を見るなり渋い顔をした。
「陛下。お行儀が悪いのではないですか」
「座っているのに疲れたんだ」
「どちらかになさってください。お立ちになるか、座ってお茶を飲まれるか」
長くなりそうな気配を感じて、トウカはそっと離席した。時折思いついたように立場と身分にそぐわないことをするラウナに、それを唯一注意できる立場のリーテ。普段アルナのわがままに振り回されている身としてはリーテに同情するが、こんなのはただの痴話喧嘩だとも思う。
言い辛く、ならないうちに。
トウカは先ほどのラウナの言葉を反芻した。
そんなのもう、とっくに。
「あ、トウカ」
部屋を出る寸前、ラウナに呼び止められる。
「明日の祭りはどうする。もし――」
「行きません。アルナも出立の準備で忙しいでしょうし」
きっぱりと断って、トウカは部屋を出て行った。扉が静かに閉じられたあと、なんとなく責めるような視線を受けて、ラウナは眉間に皺を寄せながら「なんだ」と振り返る。
「言いたいことがあるなら言え」
「いえ、特になにも」
リーテは表情を元に戻すと「お茶のお代わりを入れますね」と言ってラウナに背を向け丁寧な仕草で茶を入れ始めた。ラウナが今飲んでいるのとは違う茶なのか、爽やかな香りが窓際まで届いてくる。ふと窓の外を見やると、うっすらと埃を被ったような灰色が空を覆っていた。昨日の雨ほどではないが、細かな雨がさらさらと降り続いている。
「―― なにか、どなたかに言いそびれたことがおありで?」
雨の音にまぎれて、側近がそう、静かに尋ねてきた。王は、「そうだな」と、吐息とともに言った。
「たくさんある。今言えと言われて、なにも言えなくなってしまうくらいには―― 今更、伝えることなど出来はせんがな。なあ、リーテ」
リーテは主人を見た。窓の外に彼女の青い瞳を向ける姿は何者にも劣らないほど綺麗で、きっと目にすれば思わず誰もが見とれてしまうことだろう。ほかならぬリーテもそのなかの一人だが、それを本人に言ったことはない。許されない、と思っている。
「おまえならどうする。伝えたいことがあるにもかかわらず、それを伝えることがかなわない相手がいたとしたら、おまえならなにを選ぶ? なにを捨てる?」
彼女は知らないだろう。自分が、愛する彼女の腹に憎むべき人間の子が宿ると聞いて、なにを思ったかなど。ラウナが屋敷を出てから、リーテがどれだけのものを捨てたかなど。知ってほしいとも思わない。自分で選んだことだ。
「―― その方のお傍にいるのに、恥じない自分であるよう努めます」
リーテがきっぱりと答えると、うつむいたままラウナは黙った。カップをその手に持ったまま、空になった中身をじっと見つめていたかと思うとふいに顔を上げた。
「そうだな。それはそうだ。確かにそうだ」
もっともだ、とラウナは納得したように言いながら、カップを置いて椅子に座り直した。
「お役に立ちましたか」
琥珀色の液体が注がれたカップを机に置いて尋ねてきた側近にラウナは「ああ」と頷いた。どのみち自分は王でいるしかないのだ。兄であるアイオが屋敷を出たせいではない。弟のシュカが戦で死んだせいでも無論ない。
それでも、どうしても考えてしまう。アイオがあのまま即位していたなら。シュカが戦になど行かなければ。数あるもしも、を想像してその無意味さにため息を吐くことを幾度繰り返したかわからない。
あのとき、あんなことを言わなければ。あんなことをしなければ。
彼はまた、昔のように微笑んでくれただろうか、と。
大事にされていることなんて、とうに気づいていた。でもこんななりで、恋する相手に哀れと思われながら一生を終えるなんてあまりにも惨めで、受け入れがたいことだった。
本当は、あのとき好きだと言いたかった。でも二度も振られる覚悟なんて到底できなくて、あんなことをした。たぶんもう許してはもらえないだろう。
「あ、アルナだ」
前方から聞こえた声に顔を上げる。ミザリだ。その顔を見て昨日彼とも揉め事を起こしたことを思い出す。もし彼がこの屋敷に、トウカの前に姿を現さなければ、あるいはなにかが違っていたかもしれないが。
「今ひま? あのね、明日の――」
「昨日は悪かった」
おもむろにアルナが口にした言葉に、ミザリは口を開いたまま動きを止めた。まるでたった今男の口から出た言葉が信じられないと言った様子で。
「…… なにが?」
「だから昨日…… おまえに八つ当たりみたいなことを言ってしまって…… あのあと少し冷静になって…… は、反省したというか」
いつもとは打って変わった歯切れの悪さにミザリは首をひねった。
「え、もしかして謝ってるの?」
「悪かったって言ってる」
「いや、そんな顔で言われてもわからないよ…… いつもみたいににっこり笑いかけてくれないと……」
「いつ俺がおまえににっこり笑いかけたんだ」
普段と変わらぬミザリのひょうひょうとした態度に苛つきかけて、アルナははっとする。これではこのまえの繰り返しだ。アルナは自分を落ち着かせるためにミザリから目を逸らし、深呼吸をした。アルナが数回息を吐き出し終えたころ、ミザリが「ね、それでさ」と先ほど言いかけた話を再開させた。
「明日お祭りがあるってさっき聞いて―― あっトウカ!」
その名を耳にした瞬間、全身がこわばった。
「ねっ、祭り祭り、祭り行こうよ、トウカ!」
やや興奮ぎみに話しかけてきたミザリに手を取られて、うろたえつつもトウカはアルナの目の前まで歩いてきた。彼女の白く細い指先が目に入ってアルナはつい昨晩のことを思い出し目をそむけた。
「僕一人じゃ行かせてもらえないかもしれないけど二人が一緒だったら許してもらえるかなって…… あっでもトウカは里には降りられないんだっけ―― あとアルナも……」
「一緒に露店を眺めるのは難しいかもしれないけど、天幕から催し物を眺めるくらいならできると思う。それにアルナなら外套を被っていれば」
「俺は行かない」
アルナはトウカから目を逸らしたままきっぱりと言った。というより思わず口に出したという方が適切だということに気づき、アルナは口元を手で押さえた。
「いいの?」
トウカの横で彼女の手を握ったままミザリが言った。
「アルナが行かないなら僕、トウカと二人で行くけど」
「好きにすればいい」
おそらくアルナを煽るつもりで言ったであろう言葉に対し、あっさりと答えてやるとミザリは眉尻を下げた。万策尽きたとでも言いたげだ。というかだいたい、どうしても行きたいなら一人でラウナに直談判したっていいのだし、アルナが行く必要はほぼないように思える。あったとしても行く気はないが。
「いいじゃない、アルナも一緒に来たら」
無関係を決め込もうとしたその姿勢はしかし、思わぬ相手によって打ち砕かれた。
「向こうに行くのに、なにかひとつくらいこっちのものを持っていったっていいでしょう?」
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