意地①


 細かい雨にうなじを濡らしながら、アルナは河の流れをじっと眺めていた。

“もういい。わかった”

“婚約は白紙に戻そう”

 やってしまった。もう二度と元には戻れない。トウカは多分まだアルナの寝台で眠っている。話し込んでいるうちに眠ってしまったからと彼女の母親に嘘までついて、自分は別の部屋で横になった。あんなことをやらかしたあとで眠れるはずもなく、一晩中窓の外の雨を眺めながら過ごした。雨が弱くなってきたころを見計らってなんとなく外に出てみたが、気が晴れるはずもない。

「ここにいたか」

 河辺の砂利を踏みつける音がして振り返ると母がこちらに歩いてくるのが見えた。

「トウカが昨晩はおまえの部屋で寝たとココが言うんでな、もしや一緒に寝たのかと思ったんだが」

 いつも通り口元に薄く笑みを浮かべて言うラウナにアルナは「そんなわけないでしょ」とどうにか素っ気なく返すことに成功する。

「いくら幼なじみ同士でも結婚前の男女ですよ」

「男女ね」

 ラウナは足元から小石を拾い上げながら言った。

「あいつのことは女だとはこれっぽっちも思ってないんじゃなかったか?」

「俺が思っていなくても周りから見ればあれは女です」

 息子の話を聞いているのかいないのか、ラウナは拾い上げた石を河に向かって勢いよく投げた。が、石は一度跳ねただけで水の中へと落ちていってしまった。下手すぎる。

「…… 母上」

「言うな」

「下手すぎます」

「勘が鈍ってるだけだ」

 優秀な小石を選び出そうとする母親に付き合ってアルナは小石の集団に目を向ける羽目になる。とてもそんな気分ではないというのに。よさそうな石の特徴と投げるときのコツをアルナから二三聞いたラウナはよし、と小石を手に立ち上がった。

「この石はアルナ号と名づけよう」

「いや、そうしたら俺の方は何と名づければいいのですか」

「ミザリ号とでもしておけ」

「……」

 この女性のいかにも繊細そうな美しさはほとんど詐欺なのだと、市場に出回っている彼女の肖像画を後生大事に懐に入れている里の者たちに言って回りたい。ラウナは顔に似合わずかなり豪快で後先を考えないところがある。だからリーテのような面倒見のいい男は中身を知っていてなお引っかかってしまうのだろうか。

 急遽闖入者の名前がつけられてしまった小石をラウナが投げるのに合わせて放る。

 アルナ号―― ラウナの投げた方はたった二度水面を跳ねただけで先ほどと同じように沈んでいった。一方ミザリ号はというと、アルナ号よりはるか遠くまで飛んでいった。すぐに沈んでしまったアルナ号と、その何倍も飛んだミザリ号。たかが遊びで、名前も戯れにつけただけで何の意味もないはずだったのに、なんだか精神的に来るものがある。

 隣でラウナがくっと小さな笑い声を漏らした。

「ミザリに負けるのは嫌か?」

 漠然とした母からの問いにアルナは黙った。

 確かに負けたくはない。でも多分、ミザリに、ではない。

 ミザリに負けたくはないけれど、それはきっと今までミザリ以外に誰もいなかったからだ。誰にも負けたくないし、渡したくないと思って、自分の気持ちに必死に蓋をしてきたのに。

 あんなに簡単に、駄目になるとは思ってなかった。

「母上」

 ぽつぽつと頬に細かな水滴を受けながらアルナは口を開く。

「トウカとの結婚を取り止めさせてください」

 息子の口から発せられた言葉にラウナは驚きはしなかった。ただ、普段と変わらぬ笑みを唇に浮かべて、

「なぜ?」

とそうひとことだけ尋ねた。それは、とアルナは視線を落とし言葉に詰まりながらも続ける。

「…… 俺とトウカの間であったことなので、言えません。ただ、トウカからも同じ申し出があるはずです」

 自らに静かな視線を送り続ける母に責められているような気分になりながらも、アルナは頭を下げた。

「お願いします。許してください。向こうへ行ったら、母上やあの国が少しでも誇れるような王子になれるよう精一杯努力します。きっとなってみせます」

 ラウナはふうっとどこか呆れと疲労の入り混じったようなため息をひとつ吐くと背中まで美しく伸ばされた青髪をかきあげた。

「もし、そうだったとして―― おまえとトウカの双方からそういった申し出があったとして、おまえがこれ以上なくあの国の王族のひとりとしての務めに尽力したとして、だ。この婚姻は大陸でもう二度と無益な争いごとが起こらぬよう平和を願うとともに、両国の結びつきを強めるために行われるものだ。そう簡単にやはりなかったことにはできまいよ」

「いいえ、できます。やってみせます」

 無情に放たれた母の言葉に、アルナはほとんど反射で答えた。

「両国の結びつきならもうとっくにあります。平和を願って結ばれた結果がここにある。その役目ならエルフの王ラウナと、亡き人間の王子アルブレヒトの子である俺ひとりでもこなせるはずです」

 こなしてみせます、とアルナはもう一度宣言してみせた。それを正面で聞いていたラウナはもう一度ため息を吐くとその場にしゃがみこんだ。

「馬鹿だな、おまえは」

 頬杖をついて河の流れる様を見ながらラウナは呟いた。

「まったく…… 誰に似たんだか」

 ラウナは静かに笑い、足元の小石を拾い上げた。先ほどのように投げることはせず、手のなかで転がしながらじっくりと見つめる。容姿だけは整った彼女がそうしていると、単なる河辺の石ころでさえも貴重なもののように思えてくるから不思議だ。

「向こうの国の王―― おまえの祖父にあたるエッケハルト王はな、おまえの姿が人間に近いものであると知るとすぐに自分のところで引き取ろうと言ってくださったんだよ。おまえが生まれてすぐのときにな。それを、何のかんのと理由をつけて私が拒否していたんだ。己の子を…… アルブレヒトの忘れ形見を、手放したくないばかりにな。おまえには、長い間辛い思いをさせたことと思う。辛いなんてものじゃないだろうな。…… 本当に頭を下げねばならないのは私の方なのだ」

 すまなかった、と謝る母の背中は、日頃王として立つ姿からは想像もつかないほど小さく見えた。

「おまえはちゃんと、祖父と父親に望まれて生まれてきたんだよ」



 妙な夢を見た。全部は覚えていない。青紫色の髪をした、ちょうど今のミザリと同じ年頃の姿が父によく似た男となにやら話していて…… 駄目だ。これ以上は頭にもやがかかったように記憶がはっきりしない。薄く目を開いて、光を少しずつ取り入れていたミザリはかたわらに立っていた姿を見てぎょっとした。

「―― トウ……」

「あら、お目覚めですか?」

 トウカにそっくりな女性がそこにいた。違うのは髪や瞳の色と年齢くらいだ。あまり似ているものだから一瞬見間違えた。

「…… あなたは」

「申し遅れました。私、トウカの母の、ココと申します。他の侍従の方々は皆多忙だとおっしゃるので、私が参りました」

 控えめそうな、ほっそりとした女性だった。ココは思わず見とれてしまうような美しい所作で水を注ぐとミザリに手渡した。寄越された水をゆっくりと喉に流し込みつつ、ミザリは思った。皆多忙だったというけれど、本当のところ誰も自分の世話などしたくなかったのではないか、と。なにせ自分は王の後継者でありながら人間混じりの男と屋敷を出て行ったアイオの子だ。野次馬根性で一目見たいとは思っても、忠義を尽くして世話したいと思う者はいないだろう。

「叔母さんは……」

 ココを呼ぶつもりで言うと、彼女は首を傾げた。

「…… あっ、私のことでございますか」

 彼女は申し訳ありません、と一言謝ると、少し照れたように頬を染めながら頬に手をやった。

「アルナ様から、普段そのように呼んでいただくことがないので…… 長い間、叔母としてよりは乳母としてお世話をさせていただいたためかもしれませんが」

「乳母?」

 聞き慣れない単語に今度はミザリが首を傾げる。ココはええ、と頷き話を続けた。

「ラウナ陛下のお乳の出があまりよろしくなかったものですから、アルナ様には何度も授乳をさせていただいたものです。そのせいか、ラウナ様は自分はこの子に母としてなにもしてやれぬとよく落ち込まれるようになって……」

 そういえば、ミザリの母アイオもミザリを産んですぐに亡くなったと聞く。母は、一度でも自分をその腕に抱いてくれただろうか。わからない。母は亡くなっているのだとあらためて言われてもそうなのか、と思う程度で寂しいとは思わない。ただ、母に対しては純粋な興味とか、好奇心とか、そういった感情が自分の中の母という存在の周囲を取り囲んでいる。

「…… 王というのはきっと私などには想像もつかないほど大変なのでしょう。そんななかで家族というものがあの方の最後の砦のようなもののように思えます。ですから、よければミザリ様からも叔母と呼んで差し上げると喜ばれるかもしれませんよ―― ごめんなさい、お世話をしに来たのに、余計な話を」

 話が脱線しやすいのはどうやら母親譲りらしい。花瓶の花を入れ替えたら下がりますからと言いながらココは変わらず美しい所作で花瓶に花を生けはじめた。トウカの髪色によく似た、少し赤みのある紫色の花弁が幾重にも重なっている。綺麗だ。

「トウリモク、お好きですか?」

 ふと、手を動かしながらココが聞いてきた。

「トウリモクっていうの?」

「ええ。私も香りがよくて好きなんです。この時期ですから市場にも多く出回っていますし」

「この時期って?」

「あら、ご存知じゃないですか?」

 ココは萎れかけた花をまとめながらミザリを振り返った。

「明日から終戦を祝う祭事があって、この里でも露店が出たり広場で芸人が踊ったりするんですよ」

 思い出した。前に父とあちこち旅をしていたころ、そんなような催しをしている街がいくつかあった。小さな町や村でも大きな催しはなくとも街中を飾りつけたり菓子を配ったりしているところもあった。

「それ、僕も行っていいのかな」

「陛下に聞いてまいりましょうか?」

 ココの申し出にミザリはいい、と答えて寝台を降りた。

「自分で聞いてくるから―― あ、それ、その花、できれば次もそれにして」

「かしこまりました」

 扉を閉めつつ言うミザリに、ココはにっこりと笑って答えた。

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