識る③
「気がお済みになったらすぐにお戻りください。体が冷えるといけません」
体なんてもうとっくに冷えている。寝巻きの薄布たった一枚では、夜風には耐えられない。リーテもそれを悟ったのか、「失礼いたします」と声をかけ後ろからなにかをラウナの肩にかけてきた。リーテの上着だ。たった今まで着ていたためか、あたたかい。
それはほかでもない、彼自身の体温だ。
「…… ッ」
そう思った途端、目尻から涙があふれてきた。
ラウナはそこでようやく気づいた。
アイオがあれほどまでに自分を遠ざけ、嫌い、憎んですらいた理由に。そして、気づくには遅すぎたことにも。
「…… もう、死にたい」
戻ってきたはずの故郷は見知らぬ顔ばかりで、帰ってきた実感が湧かない。恋しかった、唯一心を許せるはずの幼なじみもどこか遠く感じる。
この悪夢から一刻も早く解き放たれたい。
「お優しい義父上と自国が無意味に争うのを見ていることしかできない。その義父上との約束を果たすこともきっともうできない。この子だって生まれてきて幸せにしてやれるとは思えない。―― こんなことなら、最期までアルブレヒトのそばにいてあげたかった……!」
凍てついた頬をすべりゆくものの熱さに自分でも驚いてしまっているのがなんだかおかしかった。そうだ、六年前のあの日も自分はこんなふうに馬鹿みたいに泣いたのだった。ラウナは地面に滲んだ自身の涙を見て思った。あのとき、彼らの優しさにどれだけ救われたことか。あの国を壊すくらいなら、いっそ死んでしまいたい。
「では私も死にます」
背後から理解しがたい言葉が聞こえて、ラウナは思わず振り返った。
「あなたがいないのなら、意味がないので私も死にます」
何年も離れている間に自分よりずっと背の高くなった幼なじみがラウナを見つめていた。その瞳は先ほど六年ぶりに言葉を交わしたときと変わらない、至極冷静なものだった。このうえなく落ち着いた表情のまま彼はラウナの目の前までつかつかと歩み寄るとその手を取って己の首元へあてた。
「殺してください」
言われた瞬間、ぞくりと背筋が震えた。あわや首筋に触れかけた指を、手のなかへぎゅっと握り込むことで避ける。
「…… 急に、なに言って――」
乾いた喉から出した声は笑えるほど掠れていた。
「そんなことできるわけ」
「だったら」
ほんのわずかだった。幼い頃からよく知る彼の声が、まとう雰囲気が、ほんのわずかに荒れた。わずかといえど、彼の普段の性格から考えれば大きい違いだった。
「…… だったら、ラウナも生きてよ」
元々、線の細い少年だった。ラウナよりも細くて小さくてかよわくて、どんな大人からも可愛がられるような、思わず守ってやりたくなるような子だった。
―― いいよ。ラウナがそうしてほしいなら。
あの小さい身体に、どれだけの想いを詰め込んでいたんだろう。どれだけ必死に、その小さな手を伸ばしてきたのだろう。
「…… おまえが死ぬのは駄目だ」
ラウナはそっとつかまれていた腕をリーテの手から抜き取った。ほとんど力が入っていなかったのか、案外簡単に抜けた。強い力で引かれたと思ったのに、跡ひとつついていない。
「おまえの言うとおりだ。リーテ」
リーテに腕を引っ張られたときに落ちてしまった彼の上着を拾い上げ、軽く汚れを払った。
「言い訳にはならないが、確かにここしばらく色んな事がありすぎて少し混乱していた。そのせいで乳兄弟であるおまえにあたってしまったのだ。許せよ」
振り返れば、困惑ぎみの男の顔がある。そこへ穏やかな笑みを浮かべながらラウナは言った。
「未熟な主ではあるが、これからも私のそばで、国のためそして種のためにその忠義を尽くしてくれるな?」
自身の上着を差し出しながら言う幼なじみにリーテはただ、「はい」と小さな声で頷いた。
「―― はい、ラウナ様。あなたの仰せのままに」
王が亡くなったのは、それから間もないことだった。心臓の発作だった。その後ラウナが国主となると、両国の合意ですぐに終戦が決まった。
ラウナは公務のかたわら、机の隅に置いた小さな木の実を手に取った。屋敷に戻ってきたあの日、目が覚めたそのときには気が付かなかったが、枕元に置いてあった。ココによればラウナの着ていた服のポケットに入っていたとのことだが身に覚えがない。身に覚えはないが、木の実からわずかに感じる魔力には覚えがある。
古来、エルフたちが今よりも精霊に近しい存在であったころ、大切なものを守るために使われていたものだ。昔なにかの本で読んだことがある。まったく同じ木の実がふたつないと意味をなさない魔術で、片方は大切ななにかと一緒にしておいて、もう片方は自分で持っておく。すると、その大切なものになにかが起こったときに木の実が割れて知らせてくれるという仕組みだ。やり方が書いてある本は今や王やその子くらいしか読むことのできない古代語でつづられているし、実際にやってみようにも膨大な魔力を必要とするうえ今では鍵の技術も発達しているためあまり現実的な手法ではない。
「失礼いたします、陛下」
木の実を手のなかでもてあそびつつ考えていると、リーテが顔をのぞかせた。ラウナが即位するとすぐに側近の座に就いた彼はその腕の中に赤子を抱えていて、その姿は役職にふさわしくない。
「これだけ赤子を抱く姿が板についた男も珍しいだろうな」
「服をつかんだまま離してくださらないんです。陛下、ご休憩中なら抱いて差し上げてください」
差し出される赤子の背中に手を入れて抱きあげようとして、ラウナは思わず笑い声を漏らした。赤子の、ラウナの半分もない小さな手が、リーテの腕のなかから取り上げようとするラウナに逆らうようにリーテの服の襟を握っていた。
「ずっとこの調子で…… 母君であらせられるあなた様であればとお連れしたのですが」
「己をかえりみない母親より面倒を見てくれる名付け親の方がいいんだろうよ」
「またそんなことをおっしゃって―― 陛下が誰よりもアルナ様の御身を案じていらっしゃるのは存じ上げております」
子どもの名はアルナと言った。生まれてからもう一年になる。人間のように丸い耳に、生まれながらにして性別のついた体は、彼の人生においてどういう影響を及ぼすのか、まだ誰にもわからない。
ラウナはアルナをリーテの腕のなかに返すと、机の上に積まれた書類を手に取った。ここのところ地震や洪水といった自然災害が立て続けに起こって、片側を山に、もう片側を海に囲われている東国はなかなかに状況が逼迫しているようだった。今でも天候が整わないせいで困りごとが多いと聞く。交易品をもう一度見直して、量を増やすべきだろうか。
―― ぱき。
と、どこかからなにかが割れるような音がした。
ラウナは誰かに呼ばれたように、窓の外へ目をやった。薄墨をまき散らしたようだった空の色は、嘘のような速さで色を取り戻していく。その光景に目を奪われているリーテの耳元でアルナが小さくうなった。それは徐々に泣き声となり、リーテを慌てさせた。
「ココに預けてまいります」
アルナをいやに慣れた様子であやしながら部屋を出ていくリーテを視界の隅で見送りながらラウナは再び空に目を向け、言った。
「―― アイオが死んだ」
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