識る②

 東国で開戦の兆しがあるとの報告を受けると王はすぐにリーテへ指令を下した。両国間で開戦の色が濃くなってきたとき、東国の王はかならずラウナを帰国させるはずだと王は言った。あらかじめあたりをつけていた場所へとリーテは数名の供を連れて向かった。

 この五年でリーテの屋敷での立場もずいぶん変わった。単なる王息の乳兄弟だった自分が、まさかこんな役目を賜るなんて十年前の自分に言っても信じてはもらえないだろう。

 リーテ様、と連れてきた衛士の一人が慌てた様子でリーテを呼んだ。国境近くの廃屋だった。家の前には火が焚かれている。火の様子を見るに、たぶんさっきまで誰かがいたんだろう。リーテは生活の匂いのしない、けれど人がいたような気配のする家に違和感を覚えつつ立ち入った。こちらですと奥の部屋に促されそこで目にした人物にあやうく腰を抜かしそうになった。

 六年だ。六年と少しのあいだずっと会いたくて仕方なかった顔がそこにある。自分でもこの感覚が安堵なのかなんなのか、よくわからない。

「眠っていらっしゃるようです」

「そう……」

 衛士が言って、リーテはようやく彼女が横たわる寝台へと足を進めた。口元に手をかざすと、規則的に呼吸をしているのがわかった。そのまま首筋に指を伸ばして、脈が正常であることも確認する。

「私の馬に乗せていきます。準備を」

「了解」

 リーテは衛士に指示を出しながら彼女を起こさないようそっと抱き起こした。



 意識は突然に浮上した。

 瞳を開くのとほとんど同時にがばりとその身を起こすと、ラウナは周囲を見渡した。見覚えのある部屋だ。無事に屋敷にたどりついたらしい。その事実を確認したラウナの耳に、部屋の扉が開閉する音と知らない女性の声が届いた。

「よかった、お目覚めになられたんですね」

 女性はほっとした様子で台の上に水の入った桶を置くと、「リーテ様を呼んでまいります」と言って身を翻した。

「―― り……」

 懐かしい名に思わず反応しかけたそのとき、喉奥からなにかがせり上がってきた。えずき声に素早く反応した女性が、空桶を差し出してくる。そのなかにひとしきり吐き出したころ、再び部屋の扉が開いた。濡れ布巾で口元をぬぐいつつそちらへ顔を向け、ラウナは自身の目の前に立つ男性の姿を茫然と見つめた。

「あっ、リーテ様、お疲れ様でございます。ラウナ様、お目覚めになりました」

 女性が振り返り言うと男は頷きながらこちらへやってきた。名前はわかる。知っている、どころの話じゃない。だけれど。

「ありがとう、ココ。君ももう休むといい」

 自分の知っている彼はこんなふうに威厳ある振る舞いをしない。顔つきも体つきも声も、何もかもが違って見える。

 ココと呼ばれた女性は桶を持ったまま挨拶して下がっていった。扉が閉まってから男は、ラウナに向かって深々と礼をした。

「―― よく…… よくご無事でいらっしゃいました。陛下も、今はこのような状況であるため持ち場を離れることができないとのことですが、きっとお喜びになるでしょう。それと――、ラウナ様もお疲れとは重々承知しておりますが、できれば一刻も早く今後の話を――」

「…… リーテ」

「はい?」

「リーテ」

「なんでございましょう」

 こんな男は知らなかった。

 自分の知るリーテとは、こんなふうではなかった。

「リーテ、だよな」

「…… はい。確かにリーテにございます」

 怪訝そうな顔をしてそばに寄ってきた男を見上げる。どこか不安そうな顔で、いつもラウナを心配してくれていたあの顔を思い出す。壊したのは自分だ。自分でも気付かないうちに伸ばしていた手が、幼なじみの手を強く引いた。

「―― っら……」

「名前を」

 不意の行動に寝台へと尻もちをついたリーテに、ラウナは言った。

「名前を呼んでくれ」

 しばらくの沈黙ののち、

「…… ラウナ様」

と言う声が静まり返った部屋に響いた。聞き慣れない幼なじみの声にラウナは「そうじゃない」と絞り出すように言った。

「そうじゃない……」

「……」

 再び訪れた沈黙のなか、男の指がラウナの手にかかった。そのまま緩慢な仕草で自らの手をつかむ自身よりも小さな手を外し、彼女の膝の上に戻した。

「少し、混乱なさっているようですね」

 また時間をあらためて来ます、と立ち上がった男にまた手を伸ばしかけて、やめる。最低だ、こんなの。触れることはおろか、話すことさえ許されるはずもないのに。

 大人しく眠ることなどできるはずもなく、ラウナは夜半いてもたってもいられずに寝台を抜け出した。帰ってきたはずなのに、実感がない。なんだかひどい悪夢を見ているみたいだ。部屋の抜け出し方は体が気持ち悪いほど覚えていた。廊下を巡回している衛士が反対側を向いている隙に側の階段にひらりとすべりこめばあとはもうほとんど障害はない。六年も経ったと思っていたが、体にしてみればたいした時ではなかったらしい。

「―― ココ、まだ起きていたのか」

 階段を降りる途中でリーテの声がして、ラウナは足を止めた。今降りていったら見つかってしまう。ラウナは見回りの衛士がこちらに来ないよう祈りながら息をひそめる。

「最近ちょっと眠りが浅くって…… 反対にたくさん寝てしまうときもあるんですけれど」

「大事な時なんだから、体はくれぐれも大切にするようにね」

「はい。お気遣いいただきありがとうございます」

 リーテと話しているのは、先ほどまでラウナの部屋で世話をしてくれていた女性だ。ココと言ったか。

「…… 正直なところ、シュカ様と君とを一緒にさせるべきじゃなかったんじゃないかと思う時がある。僕が余計なことをしなければ、少なくとも君も夫を亡くすことはなかったし、そのお腹の子も父親の顔を知らずに生きていくということはなかった」

 ―― シュカが死んだ?

 ラウナは一瞬、自分の耳を疑った。

「いいえ、そんなことは…… けっして余計だなんて、シュカ様も私も思ったことは一度もありません。それどころか、リーテ様がいらっしゃらなかったら私、今よりもっと重く苦しい時を過ごしていたことと思います。おかげでわずかばかりの時ではありましたが夫婦として過ごすこともできましたし…… それに、この子がいますから」

 ラウナはゆらりと立ち上がった。足音を消すことなど忘れていた。音が立つのをいとわずに階段を降りていくと当然のようにリーテに見咎められる。制止の声を無視して進んでいくと、屋敷の出口で衛士が戸惑いながらもラウナの行く手を塞いだ。

「どいて」

「ラウナ様」

 短く命令するラウナの後ろで声がした。

「どうなさったんですか、こんな――」

「散歩」

「もう遅いです。明朝にされては……」

「屋敷の周りを歩くだけだ。心配ならおまえがついてくればいい」

 リーテは見張り番の衛士と躊躇いがちに視線を交わしたのち、扉を開けさせた。

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