識る①


 人間ではありえない長さの耳に、色のついた髪。見るもの全てを魅了するような美しさはまさしく精霊のそれだった。年月を重ねるごとにその美しさは増して、魔性とまで表現する者も中にはいた。

 ラウナは最後まで読み終えた手紙を丁寧に折りたたんで封筒に入れ元の場所へとしまいこんだ。この手紙はもう何度読み返したか知れない。内容は母ミェーニの訃報だ。アルブレヒトもエッケハルト王も一度帰国してはどうかと勧めてくれたが、屋敷を出る前の彼女の言葉を思い出すととても帰る気にはなれなかった。

 それに、このところ不作が続いているのもラウナには気がかりだった。民のなかにはそれをラウナのせいだという者までいて、本当にそうであればよかったのだが、あいにくそんなことはなく、ラウナはなにもできない自分を歯がゆく思うばかりだった。

「ラウナ」

 ふいに呼びかけられて顔を上げれば、夫の姿があった。

 アルブレヒトはほとんど毎夜、こうしてラウナの部屋を訪れては今日の出来事を話したり、反対にラウナになにか変わったことはないか、不便なことはないかと気に掛けてくれる。そのまま寝所をともにすることもあれば、そうでないときもある。

「なんだか今日は食欲がないって聞いたけれど、大丈夫かい?」

「平気です。このごろ少し気温の変化があったから、そのせいかもしれません。―― それよりもあなたの方が疲れているみたいで……」

 それもそうだろう。不作の影響で公務が膨大な量に増えていると聞いた。本来こうしてラウナを訪ねる余裕もないはずなのに、わざわざ来てくれることを考えると申し訳なくなってくる。

 ラウナは夫の頬に指をすべらせた。初めて会ったときのような肌色ではなく、赤みのない土気色をしている。心配そうに自分を見つめてくる妻の額に、アルブレヒトはそっと口づけた。

「大丈夫。父だって同じだけやっているし、この程度、民の苦労の比じゃないからね。それに、君がここで待ってくれていると思うから、がんばれる」

 そんなやりとりを交わした数日後のことだった。その日もまだラウナは食欲が戻らずついには戻してしまったため医師の診察を受けた。「おめでとうございます」と言われて、最初はなんのことかわからなかった。懐妊したことはすぐにアルブレヒトと王に知らされた。二人からくれぐれも体を大事にするようにとまったく同じことを言われたときは、さすがにラウナも笑ってしまった。このときが、ラウナにとってはもっとも幸せなときだったのかもしれない。

 ラウナがつわりに苦しんでいるのと同じ頃、アルブレヒトは体調を崩して寝込んだ。二日、三日と経っても治らない。それどころか、日に日にやつれていくアルブレヒトを見てラウナはふと思い至った。エルフの子どもは、父親からも魔力を欲しがる。そのせいでまれに体内の魔力の均衡が崩れて気分が悪くなったりする者もいる。

 ラウナの背中を冷たい汗が流れた。

 もし――、もしも、その相手が、父親が、人間だった場合は? 奪い取る魔力がなかったら?

 廊下の壁に手をついて、ラウナはゆっくりとしゃがみこんだ。目眩がする。どうしよう。どうしよう。

 ぼやける視界のなか、目の前に誰かが同じようにしゃがみこんでくるのが見えた。床には杖が転がっている。ラウナは急いで顔を上げた。

「逃げなさい」

 その顔を見てラウナが何か言う前に、エッケハルトはきっぱりと言った。

「逃げなさい。戦になる前に」

 命令だった。その響きは確かにそうだった。母であるミェーニが亡くなった時にされたそれとはまったく違う。

「―― どうして…… どうしてですか、陛下、私」

「戦の兆しがある。兵も民もあなたに責任を押しつけたがっている」

 いつ命を狙われてもおかしくはない。

 静かなまなざしで諭してくる声に、ラウナは必死にもがいた。

「いや…… いやです、だって」

「聞き分けなさい。あなたや腹の子になにかあってはいけない。アルブレヒトもそんなことは望んでいない。私とて、娘と孫を同時に亡くしたとあっては哀しみでどうにかなってしまう」

 逃げなさい、ともう一度告げられラウナはどうあっても避けられないことを悟った。同時に、五年前に父が、今まで父だと思ってきた男が自分に吐き出した言葉とは全然違う、とも。

「義父上……!」

 ラウナは目の前の老体にしがみついた。

「かならず、かならず戻ってまいります。あなたの孫を連れて」

 かくして、ラウナは五年間をともにした城を発った。



 エッケハルトが用意した馬に乗ったラウナは、フードを目深にかぶりなおしながら辺りを注意深く観察した。目立たないよう人間の軍人風の服を身にまとい、街道から外れた森の中を進んでいるとはいえなにがあるかわからない。念のため短剣を持ってはいるし、わずかながら心得もあるが、実際に手にしていたのはもう何年も前の話だ。それも実践ではない。

 ふと、自らの乗る馬の蹄以外の音が聞こえてきて、ラウナはあらためて周囲に気を配った。右に一頭。左に二頭。ラウナは息を呑んだ。どうする? 逃げ道はない。戻ることもできない。馬の駆ける速さが増していくのと同時に心臓の鼓動も速くなっていく。フードが取れ、中から青髪があふれた。ドッ、と鈍い音がし、馬がいなないた。ラウナはとっさに馬から降りた。馬の胴体から矢が生えている。撃たれたのだ。

「あんた、ラウナ様だろう」

 ラウナは木陰に隠れながら必死に呼吸を落ち着かせようとした。向こうも馬を降りたのか、男の低い声が近づいてきた。考えねば。どうすれば助かるか。どうすればこの子を守れるか。

「あんたが生きてると困る連中がいるんだ。悪いが――」

 男の声はそこで途切れた。それからどさりと崩れ落ちるような音がして振り返ると、男が左右に合わせて四人倒れていた。霧が妙に濃くて、その姿も曖昧だ。霧なんていったいいつから―― いや、そもそもどうしてこの男たちは突然倒れてしまったのだろう。

「―― あれ、効いてない」

 考えをめぐらせるラウナの耳に、聞いたことのない声が届いた。いや、まったく聞き覚えがないというと語弊がある。どこかで聞いたことのあるような、けれど何かが違っているような、妙な違和感が、森を包む霧のように立ちこめている。

「やっぱりエルフには効きにくいのか……、それとも遺伝子かな」

 霧のなかから現れた姿にラウナは目を見開いた。最後に見た姿とは全然違う。けれどはっきりとわかる。

「兄上……?」

 精霊でも目にしたかのように自身を見る弟に、アイオは苦笑した。

「見ない間にずいぶん変わったなあ、おまえ」

 そう言ってしゃがみこむ兄もかつての彼とは違っている。でも、そんなことよりも。ラウナはありとあらゆる感情がないまぜになって兄にしがみついた。

「兄上、どうして、あに―― っ?」

「悪いな」

 ふいに肩をつかまれるとたちまち視界が霞んだ。

「今おまえと話す気はないんだ」

 ラウナは兄に身を預けるようにゆっくりと倒れ、意識を失った。アイオは自分とそう変わらない大きさの弟の体を支えながら立ち上がろうとして、ふいにその手を止めた。

「アイオ?」

 どうした?と後ろの木陰から出てきた男―― カーリは不自然に動きを止めた彼女の肩に手を置いた。

「…… いや、なんでもない。こいつ意外と重いなと思って」

「そりゃそうさ。もう小さい子どもじゃないんだから」

 カーリはアイオからラウナの体を受け取ると横抱きにして立ち上がった。

「それよりも奴ら、すぐ近くまで来てるから急がないと」

 ラウナを軽々持ち上げてさっさと歩いていってしまうカーリの後をアイオは小走りで追いかけた。しばらく歩いて、ここ数日のあいだ拠点にしていた廃屋に戻ってきた二人は奥の寝台にラウナを寝かせた。寝台と言っても屋敷にあるような立派なものでは無論ないし、薄い布が敷いてあるだけの簡素なものだ。カーリはラウナを寝台に下ろすとすぐに「行くぞ」と言ってその身をひるがえした。

「…… なんかおまえ、怒ってる?」

「べつに」

 普段とあきらかに違う素っ気ない態度にアイオが尋ねるも、カーリは短く返事をするのみで振り返ることもない。この数日間で彼の機嫌をそこなうようなことがあっただろうかとアイオが頭を回転させていると、前を歩いていたカーリが突然「ただ」と口にした。

「意外だっただけだ。…… おまえはラウナ様のことあんまり好きじゃないと思ってたから、それなのにあんなこと言い出すから少し…… びっくりしただけだ」

 男の声はふてくされているようで、それでいてどこか寂しげで、アイオは思わず立ち止まった。面食らう、というのはまさにこのことを言うのだろう。

「もしかして妬いてる?」

「そういうわけじゃない」

 人目を避けて選んだ歩きにくい道を、カーリは危なげなく進んでいく。カーリは屋敷を出てから必死だった。ふたりで生きていくために、いろんなことを覚えた。アイオは思った以上に世間知らずで、そのぶん自分がしっかりしなければと思った。彼女はいまだに、料理のひとつもできない。

「…… 俺が海へ一緒に行きたいと思うのは、カーリだけだよ」

 カーリは足を止めない。

 アイオの存在は、言葉は、救いのようでありながら呪いのようでもあった。それは、木の棘のように鋭く刺さって、ついぞ抜くこともできなくなってしまったもののように思う。もとより抜いてしまおうとは一度たりとも思ったことはないが。

 そんなことを思う余裕はどこにもない。カーリは振り向いた。

「馬鹿なこと言ってないで、早く行くぞ。暗くなると動きにくくなる」

 ほら、と地面から大きく張り出した木の根につまずいてしまわないよう差し出された手を、少しのあいだ見つめてからアイオは握りかえした。

「機嫌直った?」

「そもそも悪くない」

 カーリが力強くアイオの手を引く。アイオの問いかけにそっぽを向いて答えたその顔は、とても機嫌が良いようには見えない。

「だいたい、俺がいなきゃどこにも行けないだろ、アイオは」

「だな」

 はは、とアイオの笑い声が木々のすきまに吸い込まれていく。頼りにしてる、と伝えれば、甘えるな、となじられてアイオはまた笑った。

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