遷る②

 よくよく考えたら、敵陣のど真ん中で羽化なんてあまりにも危ないんじゃなかろうか。そんな考えは、周囲の手厚い対応で霧散した。初めに思った通り、この国の人々は皆ようやく成った和平を心から喜んでいるのだ。それでも肉体が変化する苦しみのなかでなにかあってもどうにもできないのだからと警戒を続けていたが、それも限界に近い。

 年が明ける少し前から侍女たちはラウナよりもよほど熱心に準備をしてくれたし、羽化期間中はアルブレヒトがほとんど毎日手紙を書いて寄越してきた。正直言うとこれが一番助かったかもしれない。なにしろ羽化の初めは痛みや倦怠感が数時間ごとに訪れるのでそれ以外のときは暇なことが多いのだ。中盤から終盤は反対にそれどころではなくなるが。

 アルブレヒトの優しい微笑みは、幼馴染みを思い出させる。正直言って目の毒だ。あんなふうに柔らかく微笑まれて優しくされると、あの日の出来事が思い出されて罪悪感と寂しさに胸が引き裂かれるような思いに駆られる。忘れるな、ということだろうか。

 ともあれ無事に羽化を終えたラウナを見るなり、身なりを整えるため集まった侍女たちはこぞってため息を吐いた。…… そんなにひどい出来なんだろうか。確かに、こうなる前はそもそも男を選ぶ気でいたし、女向きでないのは重々承知しているつもりだ。ふと、リーテのことを思い出す。彼はどちらを選んだだろう。…… 女を選んでいたらどうしよう。いや、どうしようもなにも、自分はもう夫のいる身で、というか、あんなことをしでかしておいて今更何を。

 扉の開く音にラウナは顔を上げた。先ぶれのあった通り、そこにはアルブレヒトの姿があった。彼は部屋に入ってラウナを視界に入れると、口をわずかに開いて唖然とした様子で固まってしまった。

「アルブレヒトどの?」

 まるで石像かなにかのように動きを止めてしまった男にラウナが怪訝そうに声をかけた。するとアルブレヒトは「あ、いや」とようやくそれだけ声を発して、今度は口を手で押さえてうつむいた。…… そんな素振りを見せられると、なんだか不安になる。ラウナがここへ来てからずっと優しい言葉しか口にしなかった彼がこんなふうに言葉に詰まるほどひどい出来なのか。

「―― すみません。びっくりして」

 しばらくの間うつむいていたアルブレヒトはやっと顔を上げた。再び正面からラウナと視線を合わせた彼は、先ほどの侍女と同じようなため息を吐いた。

「あの…… とても…… とても綺麗に、なられましたね。そのお姿でもう一度式を挙げたいくらい―― あっ、いやけして以前のあなたを否定するつもりはなくて、以前のあなたももちろん素敵でしたが」

 アルブレヒトはいかにも興奮した様子で途中からまくしたてるように話し出した。それから頬を赤くしたまま、

「そばに行っても?」

と尋ねてきた。ラウナが頷けばアルブレヒトは足音を立てないよう静かにこちらへと歩み寄ってきた。

「…… 髪の色も、少し変わられましたね。淡い空色だったのが深みのある青色になって。…… エルフの方というのは誰もが皆このように変わられるのですか」

「そうですね。髪の色は魔力が宿るとも言われていますから、大人になれば自然と」

「見た目も?」

「ええまあ…… とくに男を選べば、背が伸びたり体つきが変わったりする者も多いみたいで…… アルブレヒトどの?」

 隣で話しているはずの男の頭がどんどん下がっていくのに、ラウナはまた怪訝な顔をした。再びさっきのようにうつむいてしまったアルブレヒトはゆっくりと顔を上げながら「すみません」と謝罪した。

「あまりにもあなたが美しいので、その…… すみません、とにかく―― とにかく美しいです。ラウナどの」

 そういう男の顔はこれ以上ないほど真っ赤で、真偽を疑う余地もなかった。



 リーテはとある山奥のぼろ屋の前にいた。ともすれば廃屋かと見まごうほどのぼろ屋で、うっかり見逃すところだった。いかにも建て付けの悪そうな扉をこつこつと叩いてみるが、果たして反応があるかどうかも期待できない。扉の向こうからの反応をしばらく待ったリーテがもう一度扉を叩こうとしたそのとき、扉はゆっくりと開いた。

「……」

 男の姿は、一般的なエルフのそれとたいして変わらなかった。仮に彼がただひとりエルフの中に紛れ込んでいたとしても、彼が人間混じりであると気付く者はいないだろう。彼はリーテをまじまじと見つめたあと「もしかして」と口を開いた。

「リーテ、か? ラウナ様の乳兄弟の」

 カーリはそう言うと慌てて辺りを見回した。リーテはそれに頷きつつもカーリのやや警戒した様子に早口で説明をする。

「兵はいないから安心して。僕だけだ。王の命でもなくて、ほかの、ある人の頼みで、少し…… 二人の様子を知りたいだけなんだ」

 リーテは慎重に言葉を選んだ。カーリはともかく、もうひとりの機嫌を損なってはいけない。怒らせでもすれば命はない、くらいには思っておいてもいいはずだ。アイオは家の中だろうか。それとも外? 必死に周囲に気を配りながら話す内容にも気をつけねばならないという状況に、今までにない種類の緊張を感じる。

「あの、それで」

 と、話し出したリーテの眼前を何かが横切った。リーテの目のあたりの風を切り裂いたそれは、家の壁にぶつかって地面に落ちた。

「アイオ」

 リーテが反応できずにいるそばで、カーリがその名を呼び駆け寄った。リーテは地面に落ちた木の実を見つめた。あれだけの速度と勢いでリーテの眼前を横切ったはずなのに傷ひとつついていないそれはたぶん、投げられたものではない。アイオの手から飛ばされた―― いや、撃たれた、のだ。エルフであれば、物を浮かせるくらいは子どもでもできる。ただ、浮かせ続けたり自分の思うような速度で飛ばすのは難しい。ましてあんな勢いで飛ばして壁の直前で緩める、なんて芸当はできっこないのだ。リーテはぞっとした。

「ラウナの犬だったような奴がなんの用だ」

 冷たい声がぶつけられて背中に汗が滲んだ。自らの唾液を嚥下する音が耳のなかで嫌に大きく響く。視線の先でカーリがアイオ、となだめるような声を出した。

「大丈夫だから、家の中で待っていて」

 カーリに肩を抱かれて、アイオは大人しく家の中に入っていった。すぐ近くを通りすぎたアイオはやけにやつれていた。一緒に家の中へ入っていったカーリがなにやらなだめすかしているような声がする。しばらく待つとカーリが出てくる。

「向こうで話そう」

 カーリに言われるまま、リーテは森の中を進んだ。いくらか歩いたところで、カーリが振り返った。

「ひとつ、言っておく。君というよりは、君の連れてる奴らに」

 男の言葉に心臓が大きく跳ね上がる。所詮人間混じりだからと甘く見ていた。どうせ魔力など感知できるはずもないのだから離れた場所に控えている衛士のことなど、到底わかるはずがないと。ひっそりとこぶしを握りしめるリーテにカーリは「勘は利くんだ」と唇の端を持ち上げて笑った。それから彼は懐に手を入れると小さな木の実を取り出した。

「アイオの手製の即席の魔道具だ。アイオも同じのを持ってる。俺になにかあれば割れて、同時にあいつが持ってるのも割れる。俺が割っても同じことが起きるし、俺の手から離れても一緒だ」

 迂闊に手出しはできない、ということだ。話し合うこと以外は、何ひとつできない。この男の背後にはあの化け物がいる。

 カーリは木の実を懐に戻すと再び話し出した。

「ひと月半くらい前になるかな、子が流れているんだ。それで今あいつは気が立ってる」

 獣みたいだろ、とカーリは自分で言って笑った。リーテはまたしてもぞっとした。ひと月半まえというとちょうどあの、シュカの頼みを聞いた日から幾日も雨の続いた頃だ。力のあるエルフは、天候さえも変えるのだと幼い頃に物語で読んだ。そんな昔話や伝承は各地にある。全部子ども騙しのようなもののはずで、そんなものがもし実在したなら、そんなのはもはや化け物だ。そこまで考えて、リーテは先ほどのアイオの行動を思い出した。

「七年待ってようやくだったからな。だいぶ落ち込んでもいるし。…… まあ、そもそもあいつも俺も、あそことはもう関わる気はないし、なにを言われても聞く気はない。帰ってくれないか」

 見透かされていた。なにもかも。

 王がアイオを探し出そうとは決してしなかった理由が今、ようやく身に染みてわかった。ラウナの予想した通りだった。

 きっぱり言われて、リーテはなすすべもなかった。

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