遷る①
リーテの羽化は自身の心配するよりもすんなりと終わった。ラウナが女を選ぶことがはじめからわかっていたからかもしれない。表向きの理由は年明けからやんちゃなシュカの世話をするためだ。女性の体力ではかなわず、今まで何人もの侍女が彼の世話に音を上げている。この話をリーテは屋敷で働く者たちへそれぞれ聞かれるたびに律儀に答えた。すると彼らはリーテが男を選んだことを意外に思いつつも、リーテの王族に対する忠誠心に感心した。
シュカは噂に違わずやんちゃだった。勉強は放り出すし、稽古は途中で逃げ出す。さらには服をしょっちゅう汚してくる。自分が十一のときはこんなふうだっただろうかと散らかった机の上を片していると、横から声をかけられた。
「いいですよ、リーテ様。部屋の片づけとか服を洗濯に出したりだとか、細々したことは僕がやっておきます」
シュカの乳兄弟のココだ。リーテも屋敷内で何度か見かけて話したことがあるが、リーテ以上に物静かで内気な、良く言えば落ち着いた子だった。リーテは「ありがとう」と一言礼を言うと、居心地悪そうに目を逸らした。
「でも、リーテ様はやめてほしいかな。僕と君の立場ってそう変わらないわけだし」
「そんな。とっても優秀だって聞いています。ラウナ様のことだって――」
ココは言葉の途中ではっとしたように窓の外を見た。先ほどから降っている雨の勢いが増している。ココは大変、と身を翻した。
「シュカ様、今日みたいな雨の日はいつも外なんです」
「僕が行くよ」
羽織りを持って部屋を飛び出そうとしたココをリーテは急いで止めた。成人前の、性別が定まらない、要するに子どものエルフはとかく体調を崩しやすい。ココから羽織りを預かるとリーテは屋敷の外へ駆け足で向かった。己の身が雨に打たれてから、リーテはココから居場所を聞いておくべきだったと気づいた。しかしその後悔もほんの数十歩歩いたところで終わる。
屋敷の脇を流れる、河のほとり。雨で勢いが増すその河を、ただひとり屋敷に残された王息はじっと眺めていた。
「シュカ様」
リーテが声をかけるが、彼は河の流れを見つめて微動だにしない。聞こえていないのか、それとも聞こえているが無視をしているのか。
「雨も強くなってまいりました。あまり濡れるとお体に障ります」
「…… おまえも大変だな」
再度声をかけるとシュカはようやく反応を返した。唇の端をわずかに持ち上げ、しかし視線は河にやったまま静かに呟いた。そしてそのままシュカの差し出す羽織りを黙って受け取り、肩に掛けた。羽織りはたちまち雨にぐっしょりと濡れた。
シュカは赤みがかった紫色の髪をしている。その下にある、似た色の瞳はなにもかもを悟ったかのように薄暗く、ただひたすらに雨で濁っていく河を見つめていた。
「父上は俺を王にするつもりは微塵もないんだろう」
シュカの声はラウナよりもアイオによく似ていた。その声は決して、里の民たちが噂するようなうつけ者のそれではなかった。
いつもの駄々をこねるようなのや、侍従にいたずらをして高らかに上げられる笑い声の面影はほんのわずかも残されていない。
雨風に耳を塞がれそうになりながらリーテは彼の声に耳を澄ませた。
「おまえを責任ある役職につけようとしているのがその証拠だ。また戦をはじめて、ラウナ兄上をその手に取り戻して、それから……」
雨に濡れ、風になぶられながら絞り出される声には涙がにじんでいるようにも思えた。知っているのだ、この少年は。おそらく、これから起こるであろうすべてを。
彼もまた、演じていたのだろうか。周りの望む姿を。ラウナと同じように。
「父上はたぶん、自分に似た兄上たちのほうが大事なんだな。…… 父上だけじゃないか。母上も、兄上たちも、屋敷にいるやつらもみんな…… 俺のことはどうでもいいんだ」
そんなはずはない。リーテの頭には、彼の乳兄弟の顔が思い浮かぶ。けれども同時に、あの日にぶつけられたラウナの言葉を忘れられない。
黙り込んでしまったリーテの隣で、シュカはぱっと顔を上げた。
「ごめんな、雨の中変な話して」
戻るか、とシュカはいつもの調子で言うと体をひるがえした。
「あいつしか知らない場所だと思ってたんだけどなあ」
「…… すみません」
あいつ、というのは乳兄弟であるココを指しているのだろう。
「ココに雨の日はいつも外だと聞いて…… 少し、捜しました。子どものうちはとくに風邪をひきやすいとよく言いますし、その……」
今後は控えてもらえれば、と言おうとするが次の言葉が出てこない。あんなふうに雨のなかの河を見つめる誰かを見たのは初めてだった。それを果たして自分ごときが邪魔をしてもいいものかどうか、と頭のなかでぐるぐると思考をめぐらせているあいだに、シュカの部屋に到着する。ココはいないが、部屋の入口に濡れた体を拭うための布とシュカの着替えがある。布に関してはシュカがびしょぬれであることを差し引いても多めに置いてあることから、リーテのぶんまで考えてくれたことが察せられる。
シュカはがばりと布を自分の頭にかぶせると王息とは思えないような乱雑な手つきで体を拭きはじめた。リーテもそれにならって彼ほどではないが濡れた服と髪を手早くぬぐってシュカの着替えの手伝いに移る。
「…… アイオ兄上が出て行ったの、ひどい雨の日だったんだってな」
服を替えながらぽつりとシュカがつぶやいた。
「俺はまだほんの赤ん坊だったから覚えてないんだけどさ、なんでか雨の日はいてもたってもいられなくなって。もしかしたらアイオ兄上が帰ってくるんじゃないかとか、帰ってきたらみんな元通りになってみんなうまくいくんじゃないかとか…… そういう、馬鹿なことを考えてさ。そんな簡単な話じゃないのはわかってるんだけどさ、そうなったりしないかな、そうなればいいのになって、考えたりして……」
着替え終えたシュカはリーテを振り返ると「頼みがあるんだ」と口を開いた。
「開戦する前に、アイオ兄上を探し出してほしい。母上はたぶんもう長くないだろうから、それまでに一目だけでも会わせて差し上げたい…… それが無理ならご無事だと、達者でやっているという手紙だけでも」
突然の頼みごとにリーテはすべての動作を止めて、まばたきを繰り返した。本気でわからなかったのだ。そんな感情が顔に出ていたのか、シュカはおかしそうに笑った。
「なんだよ、子どもが母親の笑った顔が見たいって思うのがそんなに変か?」
「あ……」
思わず声が漏れた。
大切な相手を喜ばせたいという想いは、きっと誰しもあるものなんだろう。その想い自体はきっと尊いものだ。
―― でも、それを受け取るのを、拒まれた場合は?
寝台にどさりと腰かけたシュカは「それともうひとつ」と口にした。
「開戦したら俺はきっと軍を率いなきゃならない。…… もしそうなって、俺にもしものことがあったら、ココを頼む」
頭から冷や水を浴びせられたようだった。雨風を受けてなお、じりじりと燻っていたリーテの想いは、このときから少しずつ変わっていった。
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