翳る②

 性別の定まらない状態で、いわゆる子どものまま式を挙げるエルフは史上初なんじゃないだろうか。ラウナはぼんやりとそんなふうに思いながら馬車に揺られていた。

 父はたぶん、和平を成功させる気なんてこれっぽっちもない。なんでもいいからきっかけがあればさっさと開戦してしまいたいと思っているのだ。言うなれば、ラウナはエルフの王に送られた密偵だ。用が済めば、故郷へ帰ることができるかもしれない。酷いことを言ってしまった幼なじみの顔を思い出す。もしあそこへ戻ることができて、もう一度会えたなら、きちんとあのことを謝りたい。そして今度は、ちゃんと……。

「ラウナ様、つきましてございます」

 人間の男が馬車の扉を開けて促してくる。向こうから連れてきた従者はいない。

 郷里では女性しか着ることの許されていないドレスの長い裾を引きずってラウナは馬車から降り立った。まだ子どもの、性の定まらない身である自分が着ているのを変に思っていると、横から手を差し伸べられた。

「はじめまして、ラウナどの」

 背の高い男だった。いや、実際はそれほどでもなかったのかもしれない。あくまで当時の、成人する前のラウナに比べれば、少なくとも頭二つ分は大きいように思われた。ラウナはついまじまじと男を見た。

「王の長男の、アルブレヒトと申します。この階段は少し急ですから、どうぞお手を」

 父とも、そしてカーリとも違う柔らかな声と優しげな表情に思わず気を抜いてしまいそうになったところを、ラウナは慌てて引き締めた。

 この、アルブレヒトという人間こそが、ラウナの夫となる男だ。たったひとり、ここに来ると決まったときに覚悟はとうに決めている。

「…… サヴェラナーニのラウナです。アルブレヒトどの。恐れ入ります」

 挨拶を返しながら礼をいい、ラウナは大人しくアルブレヒトの手を借りた。歩きにくい服に歩きにくい靴。女になったら毎日こうなのか。というか、世の女たちは毎日こんなものを引きずって生活しているのか――。

「あっ」

「おっと」

 よそ事を考えていたせいか、靴の先で服の裾を踏んでしまう。アルブレヒトが素早く支えてくれたおかげで転ぶのは免れた。礼を言おうと見上げると、アルブレヒトは「大丈夫でしたか」と言って微笑んだ。

「ラウナどのがいらっしゃるまで侍従たちが気合いを入れて床掃除をしていたものですから、少々すべりやすくなっているのかもしれません」

「掃除を、ですか」

 ラウナが尋ねるとアルブレヒトは「ええ」と頷いた。

「皆、きっとこの国のだれもがこの日を待ちわびていたことでしょう。エルフとの和平は我々の悲願でしたから。―― エルフの方々もそうでしょうけれど―― この城の者たちも例外なく、今日この日を、あなたがここへ来るのを、ずっと心待ちにしていたんですよ」

「……」

 アルブレヒトの瞳はよどみなくラウナを真っ直ぐに見つめていた。嘘ではないように思える。アルブレヒトはまたにこりと微笑むと、

「私も同じ気持ちです。挙式はまだですが、ようやく成った和平です。私たち夫婦も、いつまでも仲良くしてまいりましょうね」

と恥ずかしげもなく言ってみせた。

 なんだか、まだ現実感がない。故郷を発った時から? 違う。父に東国行きを命じられた時? それも違う。

 階段を登り切り、長い廊下を歩いていった先の広い部屋に通された。

「ここがラウナどのの部屋です。故郷のご自分の部屋に比べたらお狭いかもしれませんが、代わりに調度品は良い物を選んだつもりです」

 狭いなんてとんでもない。故郷で生活していた部屋の一・五倍か二倍近くはありそうな広さで、これまた大きく立派な寝台に、派手ではないが美しい彫刻が施された収納棚、来客用の長椅子と長机。

 これから父が来ますからと言って長椅子に座らされながらラウナはそれらをじっくりと眺めた。アルブレヒトの言う通りきっとどれも一級品だ。彼の言うことは本当だ。そう思わざるを得ない。ここへ来るまでにすれ違った侍従らは、好奇の目でラウナを見ることはあれど、けして嫌悪の眼差しを向けることはなかった。アルブレヒトの言う通り、彼らの視線はおそらく、期待とか、そういった種類のものだ。本当に、和平を待ち望んでいたのだと思わせられる。

 ラウナの膝に一粒の滴が落ちた。

「えっ……」

 隣に腰を下ろしたアルブレヒトが戸惑いの声を上げる。

「ラウナどの? どうか――」

 アルブレヒトが顔をのぞきこもうとしてくる直前、部屋の扉が開かれた。その音に弾かれるように顔を上げたラウナは目の前に立つ老人と目が合った。身なりから察するに、国王エッケハルトだろう。丁寧に編み込まれた白髪の下にはいかにも思慮深そうな瞳がある。

「いかがされたかな」

 その顔が、ラウナの泣き顔を見るなり困ったように変わって、ラウナはますます涙を零した。

「ごめんなさい…… ごめんなさい、俺……」

 自分でもよくわからずに謝罪の言葉を口にした。そうするとなぜか涙はあふれてくる一方で、ラウナはなすすべもなく涙を流し続けた。

 ラウナの頭上で男たちは戸惑いの表情を浮かべたまま顔を見合わせる。しばらく思案顔だったエッケハルト王がなにかを決めたように息子を見て、それから頷いた。それを受けたアルブレヒトは「ラウナどの」と口を開いた。

「こたびのこと、ラウナどのにとっても急なことであったと思います。加えてここまでの慣れない長旅…… どうでしょう、挙式は数日後に延期にしては」

「それは駄目!」

 アルブレヒトが言い終えるより前に彼の声に被せるように叫んだラウナは、涙に濡れた顔のままゆるゆると首を振った。

「それは…… それだけはやめてください……」

「ラウナどの」

 今度はエッケハルトが口を開いた。彼はラウナの前にゆっくりと膝をつくと柔らかく微笑んだ。

「わかりました。挙式は予定通りに行うことといたしましょう。ただ、お疲れなのはその通りのはず。本日はもうお休みになるとよろしい」

 エッケハルトは優しく、しかし有無を言わせないような口調でそういうと、膝を押さえながら立ち上がった。そばには杖が置いてある。自分のことでいっぱいいっぱいで、そんなことにも気がつかなかった。彼は息子や侍従の手を借りながら部屋を退室した。

 その日は言われた通りに水浴びや食事をして眠った。普段よりも早く眠りについたせいか、早朝のまだ日も顔を出さない頃に目が覚めた。

 今日は挙式の日だ。

 実感がない。

 本当を言うと、兄アイオがいなくなったあのときからずっと、夢を見ているみたいで何もかも実感が湧かない。

「ラウナどの?」

 窓からまだ薄暗い外を眺めていると、下の方から声がした。

 アルブレヒトに誘われるままラウナは庭園に降りると、そのまま二人で庭園を散策した。屋敷の周囲にも樹木や草花が並んでいるが眺めて歩くほどではない。カーリがいた頃は、彼がそういったものが好きだったのか所々に花が咲いていたものだったが。…… 二人は今頃どうしているだろうか。母が言ったように、アイオは母を恋しがって泣いているんだろうか。

 冷たい風が吹きつけてきてラウナは思わず身をすくめた。

「この時間は冷えますね」

と言いながらアルブレヒトが自らの肩掛けをラウナの肩に掛けた。ラウナが礼を言うと王子はどこか後ろめたそうな顔をした。

「実をいうと、お会いするまで少し怖かったんです。…… エルフの方々というのは、魔法を使われるでしょう。自国のことながら恥ずかしい話ですが、古い考えを持つ者たちの間では魔物とそう変わらぬだろうというものもいて―― 当然魔物なんて物語上の生き物ですから、丸々信じていたわけでもないんですけれど、それでもやっぱり魔法なんて私たちにとっては未知の代物ですから、前日の夜はあまり眠れなくて」

 そう言ってアルブレヒトは少し笑った。それからラウナをじっと見つめてくる。

「お優しそうな方でよかった。良い式にしましょうね」

 再び微笑むアルブレヒトの瞳には決意と覚悟のようなものが感じられた。自分にはずっとなかったものだ。ラウナは肩掛けを胸のあたりにかきよせると、そのままぎゅっと握りこんだ。

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