翳る①

 ラウナは王の第二子、アイオの六つ下の弟として生まれた。アイオは俗にいう、天才というやつだったのだと、ラウナは思っている。実際、国の歴史も古代語も一度聞けば覚えてしまうし、読み書きや計算はその辺の大人よりも秀でていた。極めつけはその魔力だ。成人する直前には王と並ぶほどの力を持っていたと推察される。大抵のエルフは成人すれば性が定まることにより魔力が安定するため、年明けには父たる王のよき右腕となるだろうと周囲の大人たちはみな口をそろえて言った。

 しかし、事態はそうはうまくいかなかった。

 アイオが人間混じりの男カーリとともに行方をくらましたのである。成人、ならびに北の里長の息子との婚姻を控えた、年の暮れのことだった。

 当時たった九つの少年はある日突然に尊敬する兄を失くし、王候補となった。そして、兄の―― アイオという存在のおそろしさをその身をもって知ることになる。

「ラウナ様、お見事です」

 矢尻が的の中心をとらえると同時に師範が言った。

「十本中七本も射止められるとは、さすがはあのアイオ様の弟君であらせられますな。アイオ様は常に全射全中でございましたから、いずれはラウナ様もそのようになられましょう」

 いっそ不出来な弟なのだと落胆し諦めてくれればまだましだった。皆が期待し、今はまだ成長過程だから、その気がないだけなのだ、もう少し歳を重ねればいずれきっと―― そういう目でラウナを見た。

 自室のなかでラウナは深くため息を吐いた。アイオの部屋は母ミェーニの希望でそのままにしてある。ラウナの隣の部屋は五つ下の弟シュカの部屋で、彼は基本的に寝るとき以外は部屋のなかにいない。じっとしているのが苦手な性質なのだ。あれは王になれるような器でないと父は言ったが、ラウナとて本来勉強が好きなわけでも得意なわけでもない。

「ラウナ、まだ起きてる? 僕だけど」

 入るよ、と扉を叩く合図とともに声がして、ラウナは思わず頬を緩めた。

「母さんがね、お茶を持っていっておあげなさいって。いつものお茶だけど、ほんの少しだけお酒を垂らしたから体があったまってよく眠れるかも、って」

「うん。リーテ、いつもありがとう」

 今のラウナにとって乳兄弟のリーテと寝る前に過ごすこの時間だけが心から安らげる時間だった。カップのなかの茶を全部飲み干すと、リーテの言った通り徐々に眠くなってくる。連日の朝から夕方まで続く勉学やら稽古で疲れているせいかもしれない。重たくなってきた目蓋から抗うことはせず、隣に座らせたリーテの肩に頭を預けると横から声が降ってくる。

「ラウナ、眠たい? もう寝る?」

「ん…… ううん……」

 優しく問いかけてくる声に意識を手放しそうになりながら必死に首を振る。

「まだ寝ない…… から、リーテ、なんか話して」

「昔話とか?」

 リーテが首を傾げつつ言って、ラウナはばか、と笑った。

「小さい子どもじゃないんだから。そうじゃなくて、ほら、たとえばリーテの話とか」

「僕?」

 思いがけない提案をされリーテはもう一度首を傾げる。

「僕の話なんか聞いてもおもしろいことなんかなんにも……」

「俺はたのしい」

 いくら幼なじみとはいえ王息にこうもはっきり言われて所望されては拒むすべはない。リーテはためらいがちに口を開く。

「…… 本当は、こんなふうには話したりできないんだよね。呼び方だって、こんなふうに馴れ馴れしく――」

 ラウナの頭がずるりと下がって、リーテの膝の上に落ちてきた。思わずリーテが慌てた声を出すと膝の上でラウナが「起きてるよ」と力なく言った。ラウナの目元には隈ができている。顔に、全身に滲んだ疲れは、勉学や稽古のためだけではない。

 アイオが戻ってきてくれたらどんなにいいだろう。エルフ史始まって以来の天才とまで称された兄の影は、あまりにも強すぎる。

「多分父上が兄上を探して屋敷に連れ戻すなんてことはないと思う」

 リーテの考えを見透かすようにラウナが言った。

「兄上の魔力はとっくに父上を超えてるんだよ。太刀打ちできないといってもいい。父上にとっては、俺みたいに中途半端な出来の奴を後継としてそばに置いておく方が都合がいいのさ」

 俺の憶測だけどね、とラウナは言って目を閉じた。彼の長い睫毛が頬に影を落としていて綺麗だった。

 ずっとこうしていられたらいいのに。ラウナの使命も、自身の立場も、なにもかも投げ捨てて、ただラウナのそばにいられたらどんなにいいか。

 叶わぬことと知りながらリーテはそんなことを思い、ラウナの頬をそっと撫でた。



 ラウナは父の前に立っていた。そのはずだった。

 王とラウナのちょうど中間、ラウナの右斜め前に置かれた椅子にやつれた様子で座っているのも、ラウナを産んだ母親であるはずだった。

 ラウナは王の口から放たれた言葉に唇をわななかせた。

「…… それは……」

「発つのは明朝だ。おまえつきの侍従にはもう支度を始めさせてある」

「待ってください父上、それはっ――」

「我が儘を言うでない!」

 子どもを頭ごなしに叱りつけるような声が飛んできて、ラウナは思わず身をすくめた。

 我が儘? なにが?

「この国のため、種を守るためだとわからぬのか。王息でありながら恥ずかしいことよ。―― ともかくもう決まったことだ。明日の朝、おまえは東国に発て。挙式は三日後だ」

 意味がわからない。

 言葉の意味はわかる。ただ、父であるはずの彼が、王であるはずのこの男が、息子であるはずの自分に、王候補であるはずの自分に、なぜこんなことを言うのか。それだけがただ、ラウナには理解できなかった。

 茫然と立ち尽くすラウナの視界の隅で、母ミェーニが泣いているのが見えた。

「おまえはお兄様が心配じゃないの? あの子はきっと、王としての責任の重さに耐えきれなかったのよ。東国との和平が成立すれば世は泰平。きっと戻ってきてくれるわ。だってあの子は誰より寂しがりやで甘えん坊なんだもの……!」

 頭がくらくらした。母であるはずの生き物が吐き出す言葉を理解するのを脳が拒んでいる。

「きっと今も私が恋しくて泣いているに決まっているわ。あの子にはやっぱり私がいないとだめなのよ、ラウナと違って」

 この女は何を言っているんだ?

 本気でわからなかった。

 俺だってずっと寂しかった。ずっと甘えたかった。それでも父や母の期待に応えようと毎日寝る間も惜しんで必死にがんばってきた。兄アイオが突如として姿を消してしまったあの時からずっと。

 甘えさせてくれなかったのはあんたたちじゃないか。

 部屋に戻るなりラウナは花瓶を床にたたきつけた。続けて机の上の本や本棚の中身を床に投げ捨てながら背後で花瓶の割れる音を聞いた。

「ラウナ、ラウナお願い、落ち着いて」

 いつの間にか部屋に入ってきていたリーテが背後からラウナを抑えた。気心の知れた幼なじみがそこにいるとわかった途端、ラウナは今まで堪えていた涙を堪えきれなくなる。

「なんで……、なんで俺……」

 涙をすする音がふたりだけの部屋に響いた。ラウナの頬から落ちた滴が絨毯の上にいくつかの染みを残す。

「結局さ、みんなあのひとが大事なんだよね、あんなことがあってもさ。あのひとのためなら俺なんかどうなったっていいんだ」

「そんなことないよ、みんなラウナのこと……」

「何も知らないくせに」

 思わず否定の言葉を口にすれば、噛みつくような視線で睨まれる。

「いっつも俺のことならなんでもわかるって顔してさ、となりにくっついてるだけのくせに、俺のことなんか、何にも知らないくせに!」

 ラウナがこんなふうに激しく泣きじゃくるのも激しい怒りにまかせて叫ぶのも初めてで、リーテはただ首を振った。

「お前だってどうせすぐにどうでもよくなる! 向こうで俺が人間に殺されたって、どうせみんな何もなかったみたいに俺のことなんか忘れる!」

「そんなことない! そんなことっ……」

「みんなだいっきらい! あにうえもっ、カーリも、みんな……!」

 肩口に押し付けられた額が熱い。縋るように握られた腕も、ラウナの頬にあてた指先も、全部が沸騰するような熱でリーテの背中を押した。

「…… ラウナがすき……」

 耳元で息をのむような音がして、リーテは顔を上げる。ラウナが自分を見ていた。ようやく目が合った、とリーテはラウナと長い年月をともにしてきたなかで初めて思った。乱れた髪と、赤く染まった頬、涙に濡れた瞳にリーテはついうっとりと見惚れてしまった。と、おもむろに肩を押されたかと思えば、次の瞬間リーテは寝台に倒された。

「だったらリーテも女になってよ。女になって俺と一緒に来てよ」

 ラウナが覆い被さっているせいで部屋の天井も周りも、何もかもが見えない。でも、それでもいいと思った。リーテは自分を見つめる瞳をもう離さないように涙で湿ったラウナの顔ごと手のひらで覆った。

「いいよ。ラウナがそうしてほしいなら」

 考えるより先に言葉が出る。

「ラウナのためなら、なんでもする」

 しばらくの間、お互いの呼吸する音だけが部屋に反響していた。ラウナの頭が、力をなくしたようにゆっくりと垂れ下がってリーテの額にこつんとぶつかった。それからラウナは深い、腹の底から出すように長く息を吐いた。

「―― ごめん」

「え?」

「ごめん」

 同じ意味の言葉を二度口にして、ラウナはのそりと起き上がった。そしてそのまま、彼は部屋を出て行った。


 翌朝、ラウナはたったひとりで故郷を発った。

 リーテは自室の窓からぼうっとラウナを乗せた馬車が走っていくのを見ていた。結局、本当に要らなかったのは自分の方なのだ――。

 自分とラウナとの間でなにかあったことを察しているのか、それとも単に仲が良かった相手がいなくなった子どもを可哀想に思っているだけなのか、大人たちが腫れもののようにリーテを扱うなか、年が明ける前のある日王に呼び出された。場所は謁見の間ではなく王の寝室だった。王はここしばらく体調がいまひとつすぐれない様子で度々寝込んでいる。

「年明けからのおまえの身の振り方についてだ。なにか決めていることはあるか」

 勧められた椅子に座るなりそう尋ねられ、リーテは首を振った。もとよりたかが乳兄弟の身でいずれ王になるはずだったラウナつきの侍従になれるとも思っていない。アイオがいて、ラウナが王にならなくて済む未来だったなら、有り得た話かもしれないが。

「特別これといって希望がないのなら、しばらくシュカについていてやってはくれないか」

 シュカはラウナの五つ下の弟だ。なんにせよ落ち着きがなくやんちゃなので、侍従たちが手を焼いていると聞く。

「あれも要領が悪いんでな。あれが成人するまでの五年間、勉学の補佐をしてやってほしい。ラウナにそうしていたようにな。良い結果が出たならおまえをそれなりの地位につけることも考えている」

「……」

 リーテはつい黙った。王のこの言い方はまるで。

「あの……」

 王の手前、言葉を慎重に選ぶだけの理性を保ちながらリーテは口を開く。

「僕はただの、ラウナ様の乳母の子というだけで、なんの取り柄もありません」

「ラウナは素直に見えて気難しい奴でな。おまえもよく知っていると思うが」

「…… はい」

「アイオもだ。あれは自分の乳兄弟とはどうも気が合わんかったようだ。私も似たようなものだ。おまえのように献身的な乳兄弟がいたら良かったのだがな」

 何事もそううまくはいかないものよ、と王は呟きながら息を吐いた。

「同時にこうも思う。自分の人より長けた部分を見て見ぬふりをするのは傲慢だ」

 王はそう言うと静かに目をつむった。目元には疲れが滲んでいて、頬はややこけていた。リーテがもう少し幼い頃はもっと元気そうに見えたものだが、今ではその面影は影も形もない。

「…… 陛下は、僕を次の王のお付きにとお考えなのでしょうか。―― つまりはシュカ様の……」

 リーテが思い切って尋ねると王は閉じていた目を開いてから、「半分正解だ」と口にした。

「次の王はシュカではない」

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