巡る③
きっと終わったんだろう。
カーリはぼんやりとそんなことを思いながら帰宅した。
老爺はあれから徐々に弱っていき、今ではもう寝たきりになってしまった。昼間の間にあれこれ世話を焼いていってくれる里の者がいるものの、本人が世話を焼かれるのをあまり好まないので本当に最低限のことだけを頼んでいる。それでもありがたかった。この世界にいるのは自分たちだけではないと思える。
もう、アイオがいなくても生きていけるのだろう。アイオがこの数年で、里の民たちに王の後継としてすっかり認められるだけの風格を身につけたように、カーリもこの里で正しく生きる術を身につけて、それぞれ別の道を歩んでいくのだろう。
部屋の奥で老爺が咳き込む声が聞こえてくる。その声はとても弱々しく、医者には年を越すのは難しいだろうと言われた。
「すまんな……」
苦しげに絞り出すような声で言う育ての親にカーリは「いいよ、無理にしゃべんなくて」と返しながら水を飲ませた。口の端から零れた水を拭ってやるかたわら、カーリはまた老爺が亡くなった後の自分に想いを馳せた。老爺がいなくなるということは体面的な意味での後ろ盾がなるなるということである。争いの火種となりかねない自分を外へ放り出すことはおそらくしないだろうが、今よりも辛い仕事を任される可能性は十分にありえる。そのこと自体に特別抵抗はない。けれど、十六年間家族でいてくれた老爺と、愛するアイオのいない世界に自分は耐えることができるだろうか? ―― ここしばらくはずっと、そんなことばかり考えている。
寝台の上で、老爺が弱々しくうめいた。
「じいさん、どうした?」
なにか言いたげな老爺に、カーリは寝台のそばまで引き寄せ腰かけていた椅子から立ち上がると耳を寄せた。
「あ……、アイオ…… アイオ様を……」
「うん」
「アイオ様を……、大切にせえよ……」
「うん。わかってるよ」
こうして寝込むようになってから老爺はこの話を同じ時間に何度も繰り返すようになった。
「わ―― わ、わしが若い頃、い、戦で東に行った時にな」
「うん」
この話し出しの話も何度も聞いた。
老爺が今よりずっと若い頃の話だ。エルフが人間たちとの間で激しい戦争を繰り広げていた頃、若き日の老爺もまた、兵士として戦場に駆り出されていた。戦の最中、誤って河に落ちてしまった彼は、運良く流れ着いた先で人間の女性に介抱してもらったのだという。エルフの彼を恐れることなく看病してくれたこともまた、彼にとっては運の良いことであった。女性の看病を受けるうち、二人は恋に落ち、女性はやがて子を身籠った。何事もなく臨月を迎え、順調に腹のなかで子が育っていると思われた頃から、女性の体調は悪くなっていった。風邪ではない。つわりでも無論ない。女性の体になにが起きているのかわからぬまま彼女の体調はどんどん悪くなり、痩せ細った彼女は、腹の子とともに亡くなった。
「せ、精霊様が、あのときの子をここへ連れてきてくだすったんだと思った……」
老爺の手を握りながら、カーリはまた「うん」と相槌を打った。
「アイオ様は、あの娘によう似とる……」
くれぐれも、大切にな。
一言一句、昨日と変わらない話だった。
たったひとつのことをのぞいては。
最後の言葉を口にした瞬間、老爺の手の力が抜けた。突然重くなった手は、カーリの腕の間をすり抜けて寝台の上へと落ちた。
家中の壁が夕焼けに赤く照らされるなか、老爺は息を引き取った。
彼の葬儀は少人数で簡素に行われた。何人かの里の者たちが手伝ってくれ、つつがなく終わらせることができた。すべての儀式が終わって家に戻ると、なんだか家のなかががらんとしているように感じた。老爺の寝ていた寝台に疲労の混じった息を吐き出しながら腰かける。
雨が降っていた。このところやけに雨が多いから、早めに老爺を弔うことができてよかった。もっと取り乱すと思っていたのに不思議と落ち着いている。これからのことはきっと近いうちに王から沙汰があるだろう。そんなことを考えながらぼうっとして、窓が開いていることに気づく。雨が入らないよう閉めてしまわなければと腰を浮かせたそのとき、玄関の扉が激しく叩かれた。
「―― アイオ……」
扉を開けた先に見えた姿に、カーリは思わずその名を呼んだ。たった今扉を叩いたような激しさとは裏腹に、彼の表情は落ち着いていた。ただ、雨に濡れた髪が頬や首にはりつき、そこからもなおしとどに雨水を滴らせているのが艶めかしかった。
「結婚することになった」
濡れた唇がそう紡いだとき、しばらくの間理解できなかった。無表情に自分を見つめるアイオの瞳がまばたきするたびに、彼の長い睫毛から水滴が散った。
カーリはしばらくそれを眺めたのちようやく「おめでとう」と口にした。
「それ言いにわざわざ雨の中来たのか? ちょっと待ってろ、今なにか拭くもの――」
身を翻したカーリの腕をアイオがつかんだ。
「抱いてくれ」
あまりの唐突さと声の切実さにカーリは半身をアイオの方へ向けた状態のまま動きを止めた。そこへアイオはなかば強引に掠めとるような口づけをした。突然唇を奪われてカーリは今度こそわけがわからなかった。
「なにして――」
「おまえが抱いてくれたら、あとはどうなってもいい」
助けてくれ、と訴えて床へくずおれるアイオをカーリは呆然と見つめていた。アイオは涙声で叫びながらカーリにしがみついた。
「王になんかなりたくない……! 俺はっ、この国の道具じゃない。あの糞野郎が権力を誇示するために生まれてきたんじゃない!」
―― ずっと、自分が生まれてきた意味がわからなかった。捨てる度胸はあるくせに、育てる覚悟のなかった産みの親を恨みもした。今も恨んでいる。それでも、産んでくれたことだけは感謝してもいいと今初めて思った。
この凍えきった体を抱きしめるために生まれたんだ。
雨に濡れてこれ以上ないほど冷たい体をかき抱きながら、カーリは思った。この体を抱きしめていられるのなら、ほかはどうなってもかまわない。
アイオさえいれば。
背中に細くか弱い腕が回ってくる。カーリは冷たく濡れた頬にそっと触れると、ちいさく震える唇に自分のそれをかさねた。深く、深く。
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