巡る②

 アイオは言葉通り翌日もその次の日もカーリのところへ来た。ひとつ違うのは、カーリの仕事を邪魔しないということだ。庭作業や井戸水で洗濯をしているカーリを少し離れた場所に座ってじっと見ている。ときどき振り返ると嬉しそうに笑う。仕事を終えた後にどうでもいい話を一言二言話して、屋敷の裏口のあたりで別れる。そんな日が数日続いた。

 しかしあるとき、ぱったりとアイオは来なくなった。風邪でも引いたのだろうかと思っていると、後ろから話し声が聞こえてきた。屋敷に仕える女の侍従だろう。

「―― それで、ミェーニ様すっかり気が滅入ってしまわれたみたいで」

「そりゃあそうでしょうよ。息子が人間混じりと仲良くしてるなんて知ったら」

「人間って、すっごく恐ろしいんでしょう? 野蛮で凶暴で、獣のようだと戦争から帰ってきた人から聞いたって誰かが言ってたわ」

「ミェーニ様、可哀想……」

 なるほど、そういうことか。

 自分という存在の生きづらさは、老爺に何度も語られて理解していたつもりだった。それでもこうしてはっきりと思い知らされるとそのどうしようもなさに胸の中で雨雲が渦を巻いていくようだった。だって本当のことだったから。

 今までそれを忘れたように過ごしていたのは、多分。

 気付けば、日が落ちるぎりぎりの時間まであの姿を待っている自分がいた。赤く染まった屋敷の壁がだんだんと暗い色へと塗り替えられていく。そろそろ帰らないと老爺に叱られる。そう思って腰を上げた次の瞬間だった。

「―― あっ」

 声が重なった。

 夕焼け色の瞳が、少し驚いたようにこちらを見ていた。カーリが瞳に見とれているあいだ、アイオもまたカーリを見つめ返していた。しばらくするとふっとその目を逸らして、カーリの隣へと座ってくる。

「いやーまいったまいった。…… なにがまいったか、知りたい?」

「…… いや、特には」

「お袋がさあ、行くな行くなってまあ泣いて。つられて弟も泣くから大変だった。今は両方寝てるところをこっそり抜け出してきたとこ」

 顔をそむけるカーリに構わず話してくるアイオの話は、おおむねさっき侍女たちが話していた通りなんだろう。あたりまえの話だ。カーリは今度こそ腰を上げた。

「だったら、もうここへは来ない方がいいんじゃないですか」

「…… いやでも親父は何も言ってこないしさ」

「来ない方がいいですよ」

 アイオが黙った気配を背中で感じ取りながらカーリは歩を進めた。

「名前を呼んで」

 勢いよく立ち上がる音とともに、アイオは言った。

「名前を呼んでくれたら、もう来ない」

 今度はカーリが黙った。その場に立ち尽くしたまま動かず声も発しない彼に、アイオは首を傾げながらそっと近寄った。腕に触れた途端、強い力で引き寄せられる。抱きしめられている、とアイオが気づくのにしばらくかかったのは、彼が唯一母からもたらされたそれに比べるとずっと激しかったからだ。抱擁というには幼く、まるで大事な人形を抱きしめて眠る子どもみたいだったと、アイオは後から思った。腕ごと抱きしめられたせいで身動きがとれないなか視線だけを動かして、

「明日も、来た方がいい……?」

とようやくそれだけ聞いた。しかし返事はない。代わりに、よりいっそう強い力で抱きしめられる。

「名前を呼んでよ」

 アイオはもう一度、今度は懇願するように言った。

「そうしたら、俺明日も来るよ。あさっても」

 腕の力が強まる。

 少年の唇が動く。

 刻まれた言葉は、その腕のなかにいた彼だけが聞いていた。



 それから、アイオとカーリは人目を盗んで会うようになった。人目を盗んで、といっても子ども騙しのようなそれで、屋敷のなかのほとんどの人間はこのことを知っていた。それでもなにも言われずに関係を続けてこられたのは、アイオの父である王がこの件に関してひたすらに口を閉ざしていたからだった。

 カーリは十六歳になった。エルフと違って、生まれたときから性が定まっているカーリにとって、成人を意味するこの年越しもあまり意味をなさなかった。

 変化と言うならアイオの方がずっと大きかった。成人を一年後に控えた彼は昨年あたりから同年代の者と会うことが増えたらしい。見合いのようなものだと本人が言っていた。

「まあ、そのぶん忙しいからラウナに絡まれなくなって楽だけどさ」

 いつものようにカーリのところを訪れたアイオはそうぼやきながら木陰に腰を下ろした。

 アイオは大人っぽくなった。まだ成人もしていないというのにどこか達観していたのは昔からだが、いつかとは比べものにならないほど王息らしく、王の後継者らしく振る舞うようになっていた。これも王が口出ししない理由の一端かもしれないが、カーリにはアイオが遠くなったような気がして複雑だった。

「ひどい兄上ですね。ラウナ様もアイオ様をお慕いしてのことでしょうに」

「二人の時くらい敬語やめろ。その呼び方も嫌だ」

 アイオが隣へ座ったカーリにもたれかかって拗ねたように言うと、カーリは困ったように笑った。

「アイオが好きなんだよ、ラウナ様は。おまえが結婚したらきっと今みたいには一緒にいられないんだから、仲良くしたらいいだろ」

「カーリは兄弟がいないからそういうことが言えるんだ」

 カーリの肩に頬をつけたまま、アイオは言った。

「もしそうだとしても俺はあれとしゃべりたくなんかない。仲良くしたくなんかない。あいつは――」

 誰かが歩いてくる気配に、アイオは言葉を止めた。足音の主はアイオを目にするとぱっと目を輝かせたがしかしその輝きは一瞬にしてなくなった。カーリは己の肩にもたれる顔に目をやった。ずいぶん下手な狸寝入りだ。ところが子どもを騙すには十分だったらしく、ラウナはしょんぼりと肩を落とした。

「なにかご用でしたか」

 見かねて声をかけるとラウナは小さく首を振った。

「弓の稽古つけてほしかったんだけど、疲れてらっしゃるみたいだから、いい」

「…… もしよければ、俺がお付き合いしましょうか。少しなら俺もお手伝いできますし」

 カーリの申し出にラウナは少し驚いた顔を見せてから一瞬迷い、そしてやはり首を振って答えた。

「ううん、リーテとするから、いい。カーリは兄上のお友達だし…… それに俺までカーリといると、母上が…… その……」

 リーテというのは、彼の乳兄弟の名だ。赤ん坊の頃から一緒に育てられて、よく一緒に遊んでいる。アイオにもそういう存在がいると聞いたことがある。一緒にいるところはほとんど見ないが、自分のようなのと一緒にいるよりはきっと自然なのだろう。カーリはラウナをぼんやりと見つめた。兄とは違う空色の髪を、兄に憧れて同じように伸ばしているのをカーリは知っている。

 語尾を濁して伝えようとする少年にカーリは「そうですね」と頷いた。

「その方が良いです」

 ラウナは一言カーリに謝ると、その場を後にした。

 ときどき、うっかり忘れてしまいそうになる。でも、同時に自覚もしている。

「なにがもしよければ、だ」

 去っていくラウナの背中をぼうっと見ていると突然、脇腹に痛みが走る。カーリの脇腹をアイオが力任せにつねったのだ。

「なんでおまえがあれに優しくするんだ」

「特別優しくした覚えはないけど」

「おまえもう俺以外の奴としゃべるな」

「無茶言うな」

 脈絡のない言葉とともにアイオが立ち上がってカーリも慌てて立ち上がる。

「ちょっと落ち着けよ。どうしたんだよ急に」

「…… べつに、どうもしない。ただ」

 アイオはそこで口を噤んだ。うつむいたまま迷うように唇を開いたり閉じたりするのを繰り返したかと思うと、額をカーリの肩の上へそっと下ろした。はたから見れば抱き合っているようにも見えるその姿勢にカーリは慌てて周囲に誰もいないか確認した。

 カーリは去年あたりから背丈がぐっと伸びた。それにともない、体つきもよくなって、その差はアイオと並べば明らかだった。人間混じりであることをのぞけば体力のある労働力として里の者にも頼られるようにもなった。カーリはもう、老爺がいなくても大丈夫だ。アイオは目の前の男の腕を握る手に力を込めた。

「アイ――」

 不意に腕を強く握られたことに対する抗議の意図を持って上げかけた声は、続けざまに行われようとした行為によって飲み込む羽目になる。咄嗟に手で押さえた少年の口の上にある目が責めるようにカーリを睨んだ。

「なに馬鹿なこと……」

「なにが馬鹿なんだよ」

 突然のありえない―― 否、あってはならない行動にカーリがやっとのことで声を絞り出すとアイオが即座に言い返してきた。

「俺がおまえにこれをするのは馬鹿なことなのかよ」

 口をふさぐ手を外しながら言うアイオの眼差しはこれ以上ないほど真剣で、カーリももうその意味がわからないような子どもではなかった。同時に、それを受け入れることの意味も、子どもの頃に理解していたよりもずっと重たくカーリにのしかかるようになっていた。

「…… そうだろ」

 あたりまえじゃないか。

 そういう響きをもって口に出せば、小さく息を呑む音がした。

「―― わかった」

 さっきとはうってかわった落ち着いた声で、アイオが言った。顔を伏せた状態でカーリから離れると彼は、そのまま静かに屋敷へ戻っていった。

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