巡る①

 その男の扱いは、奴隷以下だった。

 朝露に濡れた草木のような濃い緑色の髪と、その隙間からのぞく尖った耳は、何も知らない相手には彼が人間混じりであるということを信じさせなかった。幼いながらに屋敷の下働きのようなことをしていた彼とアイオがようやく話すことができたのは、アイオの弟、当時の王の第二子であるラウナが誕生した頃であった。

 少年は草むしりをしていた。アイオは屋敷の陰からそっと少年を見ていた。やがてその視線に気づいた少年と目が合うと

「名前を教えて」

とそれだけ言った。しかし少年は何も答えずに視線を地面に戻した。今までのたった六年という短い人生で無視をされたのはアイオには初めてのことだった。初めてのことだったので、とっさにそれが無視だとはわからなかった。

「おまえ、他とは違うんだろう」

 少年は答えない。

「なあってば」

 返事はない。

 それが妙にむしゃくしゃして、アイオは少年の傍に寄るとズボンに手をかけそのまま引き下ろした。瞬間、耳の横でぺちんと音が鳴った。ぶたれたのだと気付くのにしばらくかかった。母親でさえ、父親でさえ、アイオの周りに彼をぶつような大人はいなかった。

「邪魔」

 そんな言葉を投げられるのも初めてのことだった。

 心底迷惑そうな顔でズボンを直す少年に、アイオはたまらずつかみかかった。子ども同士の喧嘩ではたかが知れていて、すぐさま駆けつけてきた大人に引きはがされて持ち上げられたアイオは宙吊り状態で部屋へ戻された。

 部屋はたった七歳の子どもには広いばかりで退屈だった。かといって母や乳母のところへ行っても産まれたばかりの弟にかかりきりで、その弟も見ていてもふにゃふにゃと笑うばかりでつまらない。

 アイオはまた、少年のところへ向かった。

「名前を教えて」

 昨日と同じことを言うと少年もまた昨日と同じ迷惑そうな顔をした。

「あんたのせいで俺までじいさんに怒られた。それも夜中まで」

「名前を教えてくれたらもう邪魔しない」

 少年はひどく不服そうな顔になって、心から嫌だというような声を絞り出した。

「…… カーリ」

「俺アイオ」

 アイオが名乗ると、少年―― カーリはぽかんとまさに鳩が豆鉄砲を食ったような顔をした。

「アイオ……」

「うん」

 アイオがこくんと頷くがカーリは見ていなかった。首筋を冷たい汗がつたう。

「アイオ様……?」

「そうだって言ってる」

 目の前で笑う姿にめまいがした。

「王息……」

 だからか。だからあんなに怒られたのか。

 老爺の怒りようからどこか裕福な家の子息かと思ったが予想をはるかに超えてきた。そんなの怒られてあたりまえだ。

 カーリはよろめくようにして屋敷の壁にもたれた。

「大丈夫?」

 心配そうに声をかけてくる王息にまさかあんたのせいだよとは言えずにただ睨みつける。

「…… もしかして俺のせい?」

「そうだと答えたら俺は無礼打ちにされます」

 精一杯睨みつけながらそう答えるとアイオは案外素直にわかったと頷いた。

「おまえもそういう感じなら、もういいや。もう来ない」

 じゃあな、と去っていくアイオの背中を、理性が邪魔しなければ引き止めていた。

 カーリには親がいない。雨の降る日に河の上流から流れてくるのをこの南の里近くの町の住民が見つけた。初めは単なる捨て子かと思ったが、体を見るなり人間混じりであることに気づいて里へと届け出た。王によって始末されてもおかしくなかったところを老爺に引き取られて今に至る。王の乳母子で、何十年も昔に王の命でもっとも危険と言われる戦地に赴き戦果を残した彼でなければ、その申し出は一笑にふされていたことだろう。

 老爺の家は屋敷の裏手にある。家というよりは小屋とでもいうようなこぢんまりとした様子で、本人がそれを希望したらしかった。建て付けの悪い戸を開けながら中へ向かってただいま、と声をかける。するとすぐに、おう、と返事があって、奥から杖をついた老爺があらわれる。

「遅かったじゃあないか」

 老爺はカーリが生まれる前の戦争で足を悪くした。王がその座についてすぐのことだったという。医者によるとこのところ心臓の調子もあまり良くないらしく心配になる。

「アイオ様に捕まったんだ。そんなことよりじいさん、そうならそうとはっきり言っといてくれよ」

「なにがだ」

「アイオ様のことだよ。今日あの方がそうだって知って、俺今にも倒れそうだったんだぜ」

「はて、言わなかったかな」

「聞いてないよ」

 ただの一言もね、とカーリは言いながら夕食作りに取り掛かる。このなんの縁もない老爺に引き取られて今年で八年になる。ここしばらくで家事のほとんどがカーリの役目になった。

「淋しい方だ。お二人ともな」

 おぼつかない足取りで椅子に腰かけた老爺は膝をさすりつつ言った。それを見ながらカーリは「淋しいもんか」と返す。

「父親も母親もいて、それ以外にも大事にしてくれる大人が大勢いて、なにが淋しいんだよ」

 自分とはなにもかもが違う。生まれも育ちも、なにもかも。

「王になるんならなおさらだ。思い通りにならないことなんかきっとひとつもない。俺なんかとは全然……」

 話している途中、視界の端で老爺の体がぐらりと傾いだ。

「―― じいさん?」

 苦しげにうめきながらも机につかまったのと、とっさにカーリが押さえたので椅子ごと倒れるのは免れた。老爺は胸を押さえて息苦しげに呼吸している。カーリは突然怖くなった。ぞわりと背筋を駆けあがった不安を振り切るようにその場を立ち上がり家を出た。

「だれか! だれか助けて!」

 裏口から屋敷へ飛び込んで叫んだ。しばらく叫び続けてから、カーリは気付いた。この場にいる大人たちのなかで、誰ひとりとしてカーリに注目する者はいない。気づかれていないならまだいい。皆、見てみぬふりをしているのだ。関わりたくないのだ。人間混じりの少年などとは。

 誰も助けてなんかくれない。誰も、誰一人として。

 頭が真っ白になっていく。

「大丈夫?」

 滲む視界に入り込んできたのは、自分とそう変わらぬ歳の少年だった。彼が昼間、王息と同じ名を名乗った相手だとは気付く余裕がなかった。老爺のことで頭がいっぱいで、必死になって状況を説明した。ここでなにを言ったかはもはや覚えていない。気付けば診察を終えた医者を王息と並んで家の玄関から見送っていた。

「心配ないみたいでよかったな。あのじいさんあれだろ、東方戦争ですごくがんばった偉いじいさんなんだろ。前に親父に聞いて――」

 アイオは話しながらカーリを見て、ぎょっと目を見開いた。アイオにとって弟以外が涙を流すのを見たのはこれが初めてだった。目の前でただただ泣き続ける同年代の少年をアイオはひたすらに戸惑いながら眺めた。中途半端に出した両手を数回上下させ、最終的に涙を流す少年の頭の上へと下ろした。

「なんか変な感じだ」

 くせ毛ぎみの髪を撫でつけるように手を動かしながら、アイオはふと口を開いた。

「俺、こないだ産まれたばっかの弟がいるんだけど、お袋とか侍従とかがさ、どうぞ兄上様撫でて差し上げてくださいっていうわけ。興味ないんだけどしょうがないから撫でてやるんだけど、これがなにがおもしろいのかさっぱりわかんなくてさ」

 でも、とアイオは手を止めてカーリの額に自分のそこをこつんと押し当てた。

「今はなんか、ちょっとわかるかも」

 夕焼けだ、とカーリは思った。アイオの瞳は夕焼けが夜空へと切り替わるちょうどそのときのような色をしていた。

「あ、涙とまった」

 夕焼け色の瞳が安心したようにほっと和らいだ。それにつられるようにカーリもなんとなく落ち着いてくる。と、半分開いた扉の向こうからアイオを呼ぶ声がした。それも複数。その声の主が誰であるか考えると同時に、呼ばれている者が誰であるかを思い出してカーリの全身から血の気がさあっと引いた。

「俺行かないと」

 アイオは扉に手をかけて家を出ようとしたところでカーリをぱっと振り返ってきた。

「そうだ。昼間のさ、もう来ないっての、やっぱなしな」

 じゃあな、と振られる手をカーリはぼんやりと見送った。それからもう一度我に返ってその場に座り込む。王息に気に入られてしまったらしいということと、そのことの重大さはよくわかっているつもりなのだが、なんとなくぼうっとしてしまって頭がうまく働いてくれない。なんなんだ、これは。

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